存在

人はいつも同じ人とずっと一緒にいるわけではありません。特に若い時に知り合った友や、そしてご縁のあった方々とはまた離れて暮らしていくものです。しかし、これはいつの時代も同じですが離れていても心は傍にいるという感覚といものがあります。

これは同じ志を持っていたり、共感をしたり、もしくは、ご縁を信じていたりする感覚を持っているということです。そしてこれは、生きている存在だけではなくご先祖さまやもしくは故郷のように形のないものにもそれを感じるものです。

人との出会いというものは、誰かが引き合わせていきます。その誰かは、まるで先にそうなることを知っていたかのようにその人と人を見事に繋ぎ合わせていきます。ここには、まるで時間という概念がなく未来も過去も今もありません。言い換えるのなら、「そうなるご縁を知っている」かのようです。

つまり、未来を予測するのでもなく、過去からつなぐでもなく、今その瞬間に感じたわけでもなく、「そういうご縁である」と最初から確定して存在しているのです。これを天命とか運命とか宿命だという人もいます。しかし、よく考えてみるとこの世のすべての存在に想像を膨らますとき、複雑にみえて実はシンプルに「ただそこにあるもの」という事実に気づきます。

存在は、いのちのカタチであり、カタチとしての認識が存在となっているのです。そしてこの存在するということを人間の感覚でとらえるとき、そこには役割があるという認識を持ちます。

役割があり存在があるとするのなら、そこにはご縁があるということになります。そのご縁は、丸ごと一体でありそのすべてに役割がある。役割を誰かが無理に決めるのでもなく、存在そのものを役割にするという考え方です。

私たちの心というのは、その存在をいつも身近に感じているものです。

懐かしいという感覚は、どこかその存在のことを示唆しているように私はいつも感じます。古いものに触れても、新しいものに触っても、懐かしいのです。形と無形は永遠に循環していきますが、そこに存在する真心はいつまでも不滅にあります。そういうものを身近に感じて暮らしていけることこそ、真の意味で豊かなことでありいのちが磨かれていることではないかとも感じます。

難しい書き方になりましたが、昨日、ちょうど哲学者の方と一緒だったのでその影響もあったかもしれません。子どもたちの未来のために一つ一つの存在に深く感謝して、今日も一日を過ごしていきたいと思います。

行事の本当の意味

私たちは様々な年中行事という文化を持っています。保育園や幼稚園をはじめ、老人ホームなど、生活の中で行事は当然のように実施されていきます。最近は、イベントのように行事は使われていますが本来は日本人の心を守るためのものだったのではないかと私は感じます。

その理由は、すべての行事が感謝に関係していることからです。私たちは、何のためにそれをやるのかという理由を持っています。そして行事であればその行事がはじまった理由があります。その理由は初心でもあり、その初心を甦生し繰り返していくなかで智慧や真心を伝承していくのです。

なんとなく忙しくなり、とにかくやるだけ続けていくなかで簡素化していくとその本質や意味が失われていくものです。だからといって、ガチガチに形を決めてそれをただやっていたら行事で疲れてしまいます。本来は、自然体で行事をし、そのまま感謝で実施されていくのが一番です。

しかし自然体であるためには、日々の暮らしの方をしっかりと維持していることが重要です。そもそも行事は、暮らしの中での行事であって決して暮らしから外れた単なるイベントではありません。これは暮らしの節目に感謝していくものでありその節目に心をなくさないように、先人への感謝を思い出すようにと豊かに取り組んでいくものだと私は思います。

豊かさというものは、心のゆとりでもあります。心のゆとりとは、感謝の心を持っていることであり、決して時間が暇になることではありません。ゆとりがあるというのは、心が感謝で満ち足りているということです。

世間ではゆとり教育とかいって、テクニックや方法論ばかりが議論されましたが本来は日本人がもっていた心のゆとりの回復であったのではないかと私は思います。そのためにまず必要なことが行事の改革であるというのは私の直観する本筋です。

時代が変わっていくなかでも大切なものはいつまでも失ってはいけません。

その大切なものを甦生させ続けていく、伊勢神宮が式年遷宮をするように、神道では常若という実践があるように、これは日本の先人たちがいつまでも子孫のためにと祈り続けてきた一つのカタチなのです。

行事の本当の意味を知ることは、私たちのルーツと未来をつなぎ永続させていくことです。子どもたちの未来のためにも、暮らしフルネスの大本命の一つ、行事の改革に今年から本格的に取り組んでいきたいと思います。

行事の意味

昨日は、おせち料理を用意し親族も集まりみんなで正月のゆったりとした時間を味わいました。毎年、恒例行事があることで子どもたちをはじめ色々と成長しているのを実感できます。老いも若きもみんなそれぞれの時代において仕合せに過ごせることは安心であり幸福です。

今ではおせち料理というと何種類も何十種類もあるもののようになっていますが本来はとてもシンプルなものだったといいます。平安時代には、高盛されたご飯のようなものだったともいわれています。

もともとこのおせちは、中国の歴である季節の変わり目の「節」が取り入れられたころからはじまったともといわれます。中国では、陰陽五行が紀元前1000年前からはじまっており日本には平安時代に宮廷に取り入れられて独自の発展をしていったものといわれます。これを節分とは言わず「追儺(ついな)」という皇室で行われてた鬼払いの儀式とされています。中国では中国では「大儺の礼(たいな)」として行われていたともいいます。

本来これらの宮廷文化だったものが庶民に入ったのは江戸時代です。明治時代には改暦によって、これらの行事も失われていきました。中国でも清の時代に、これらの風習はよくないと一方的に失われていったといいます。現在では、中国よりも日本の方が五節句をはじめ邪気払いとして独自に進化して残っています。

先ほどのおせち料理も、今のようなおせち料理という名前になって重箱にたくさんの種類の料理が入ったのも戦後だといわれます。バブルの時に、さらに発展して今のようなおせち料理になったそうです。

そう考えてみると、伝統と私たちが信じているものは遡れば最近はじまったものであったり、他国のものであったりといい加減なものであることもわかります。しかし、元を辿ればなぜはじまったのか、何をする行事だったのが本質だったのかと深めれば、その伝統行事を再び、この時代に甦生させていくこともできるのです。

はじまりを知ることは、その行事の意味を知ることなのです。

子どもたちのためにもなんとなく続けているものをもう一度すべて洗い直し、新たな伝統文化として温故知新して息を吹き返していきたいと思います。

2022のテーマ

昨年は、今まで知りあうはずではない方々とのご縁が広がった一年になりました。また徳積堂、和楽と古いものを甦生し、新しい場へと生まれ変わらせる機会をいただきました。そして多くの御蔭様を経て、これから英彦山の甦生に取り組むことになります。

一年に一度、振り返る機会があるというのはとても豊かなことです。節目に私たちは、今まで何をしてきたか、そしてこれからどうして生きたいかということに向き合う時間を得られます。

自分の人生をどのように使ってきたか、それが一年の経過で観てとることができます。私は選ばないという生き方を実践していますが、振り返っていると選ばない中で選ばれているという感覚を実感します。私が選んでいなくても、選ばれているという事実。そして私が選んだと思っていたら、選ばれているという事実。つまり自他一体のように、ご縁の中心に事実はあり常に「選択されている」ということがわかるのです。

これは私の生き方ですが、この方法が甦生の極意にもなっています。

別の言い方では、天にお任せして生きていくという生き方です。天が何かをさせようと私を誕生させます。その天の命に従うように自由に生きていきます。その自由に生きる中で私たちは偉大な愛に気づいていきます。他にも、偉大な恩恵、偉大な感謝、ありとあらゆる自然の恩徳に巡り会って人生を深く味わっていくことができるのです。

昨年のテーマは「感謝を磨く」でした。どれだけ感謝が磨けたはわかりませんが、当たり前に気づき足るを知る機会は今までよりも多かったように思います。コロナのこともあり、今までの既存の資本主義や経済発展という物差しと向き合って新しい生き方、「暮らしフルネス」という自著を上梓することもできました。

そしてこれからのコロナ後に入るために私たち人類の意識は一つ変わっていかなければなりません。それは今までの物質的に偏る豊を手放す決断が必要になります。私たちの先祖たちは、子孫のために徳を積みました。これは単なる発展ではなく、地球の生命と共に暮らしを豊かにしていくという道を選んだのです。これは先ほどの選ばれたという言い方にすれば、人類は地球に選ばれているのです。もう少し謙虚になって、バランスを保つ工夫をしなければこの歪は大きな揺れ戻しになって人類に襲い掛かってくるようにも思います。

ここからの一年は、私たちはどのような選択をするかでこの先の1000年が決まります。ここに人間、一人ひとりの試練がはじまっています。私もその一人として天を信じて選ばれた側の心で謙虚に道を切り拓いていきたいと思います。

最後に今年のテーマは、「いのちを磨く」ということにしました。いのちは愛そのものであり、愛はいのちを慈しみ尊重するときに顕現します。愛は人類と地球を救うものであるという事実は普遍的です。それはかつての聖人たちがみんな後ろ姿で示したものです。

時代が変わっても、人は人を愛し、愛は地球そのものを丸ごと包みます。

この美しい時間をいつまでも子どもたちや、新しいいのちにつないでいけるようにこんな時代だからこそ勇猛果敢に徳を積んでいきたいと思います。

今年もよろしくお願いします。

 

信じる道を貫き通す

昨日は、一年の振り返りを会社の仲間たちと一緒に行いました。こうやって毎年、続けてこられて20年目に入ります。来年度で20周年ですが、思い返せば色々な思い出深いことがあった20年でした。

特にこの一年は、コロナの影響があってそれぞれの場所でそれぞれに自分の役割を全うしていきました。これで本当にいいのだろうかと思うこともありましたが、今できることに専念するということでそれぞれに自分を盡していきました。

世の中の価値観では、こうあるべきというものがたくさんあります。そういう意味では、私を含め私たちの会社はこうあるべきというものと逆のことをやることが多いように思います。

本当は、世間の価値観に迎合し、みんながやっていることに従っている方が楽になります。みんなの思う正解や平均、それまで刷り込まれてきた常識に合わせていく方が無難ですし、余計な不安はなくなるのです。

まるでみんなで渡れば怖くないというように、人が大勢いる方が大丈夫だろうと安心したくなるのも人間の真理です。多い人=安全という意識もまた、私たちが元来持っているものです。

しかし、自分の理想や目的や信念、初心があったり、理想への憧れやこれは譲れないと思えるほどの優先順位がある人はその多い人=安全ということは関係がありません。自分が少ない人=危険であっても関係なく、その人の目指すゴールイメージに近づけるための努力をし続けていくのです。

ある人はその孤独が嫌だと避けようとします、またある人はかえってその孤高の状態をよしとしてさらに前へと足を進めます。人は生き方ですから、その生き方を決めるのはその人自身です。

どのような結果が待っていたにせよ、自分の信じる道を貫き通すことは悔いのない生き方になります。人生の中で大切なものや大事なものは増えていくばかりです。その一つ一つを守りたいと思っても体は一つしかありませんし時間も一日、24時間と制限があります。手放すことはとても辛く苦しいことですが、一つ一つを丁寧に手放し、理解してもらい、時には人に頼り、生きていくのが人生でもあります。

大事なことをやり遂げるのは、全体快適のためでもあり長い目でみた子どもたちの未来のためです。目先の子どものためも大切な仕事ですが、1000年先の子どものためも同時に大切なことです。

誰かがやらないといけないことを自分がやると決めてくれる志のある人は、この先も大切にしていきたい存在です。私も場をととのえ、志士たちと力を合わせて理想を実現させていきたいと思います。

道心の中にこそ真の暮らしはある

最近、別々の人たちから「道心」のことを聞く機会がありました。具体的には、「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」というものです。これは天台宗の開祖、最澄の遺した言葉で一心戒文というものの中に出てきます。

この一心戒文は最澄の弟子、光定(こうじょう)がまとめたものですがこれは同じ道を歩む人たちへの心得と心構えを遺したものです。

この道心とは、以前このブログで書きましたがこれは徳を高めて道を志す道徳心です。最澄が目指した世界はどこにあったのか、これは1200年前からずっと今にいたるまで世界の人類がみんなが最終的に目指すゴールの姿も同じです。

如何に平和を譲り遺せるか、そして人は如何に思いやりに満ちた仏さまのような心を保つことができるか。人間の徳を磨き続けて、いつまでも平和の世の中にしたいと発願した人たちの御蔭で私たちは今でも平和のカタチを心に遺して学び続けていけるように思います。

もしもこのような道徳心というものを知らなければ、私たちは文明や文化そのものを真の意味で発展していくことはできません。どの時代であっても、私たちは目先の利害や損得、欲に呑まれてしまい本当の人間の幸福や豊かさの意味を忘れてしまいます。

そうならないように、お手本になること、そしてそうありたいと願う生き方の中にこそ真の教えはあります。今でこそ、宗教は何か学問とは別の信仰と区別されていますが本来は宗教は学校であり学問のもっとも磨き抜かれた道場でした。

その道場で学んだ教師、むかしは聖人といいましたが彼らが各地を巡り、どう生きることが人々の真の仕合せにつながっているかを初心を忘れないようにと伝法していたのです。そうやって、人が持つ地獄のような苦しみから解き放ち、手放すことを教え、共に実践し心と現世の幸福に導いたのでしょう。

しかし、実際にはどの時代にも人間は目先の欲に呑まれます。自戒として、最澄が「道心があるなかにこそ真の暮らしは存在する」といったのではないかと私は思うのです。

現代の人たちが理解しやすくしようとするとこの「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」の「衣食」を「仕事」という言葉に置き換えればピンと来るのではないかとも思います。

「道心の中に仕事あり、仕事の中に道心なし」

です。

仕事ばかりして生きていますが、その中に真の暮らしはあるのでしょうか。本来、人間は真に暮らしをしている中にこそ、本当の意味の仕事があるのではないでしょうか。志や理念、初心を忘れないで働く人は、暮らしをととのえて働いているでしょう。しかしそういうものを持たずに単にお金のためだけに仕事をしていたらそこに真の暮らしはないということです。

どの時代も、真理や普遍性というものは変わることはありません。しかし時代と共に、欲が形を変えていきますから私たちもまた先人に倣い対応していくしかありません。

最澄は、大乗仏教を唱え、能力のあるないにかかわらずすべての人々を救おうと志しました。そのため、誰にでもできること、特別な能力がなくてもどんな人でも救われる方法をその時代に突き詰めたのでしょう。それがこの一心戒文の中で感じ取ることができます。

私が「暮らしフルネス」を提唱し、実践し、それを弘めようとするのもまたこの道徳心を磨く、そして徳を積むことを誰でもできるようにして道心を甦生させようと発願したからです。

最後に、最澄のこの言葉で締めくくります。

「国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。故に古人曰く、経寸十枚、これ国宝にあらず。一隅を照らす。即ち此れ国宝なり」

道心ある人が国宝であると、徳を積み、道を歩む中にこそ平和と天国があります。宝とは、すべてこの真の暮らしの中にこそあるということです。

子どもたちのためにも、自分の志を生き、自分の道に専念していきたいと思います。

集大成

「集大成」という言葉があります。これは辞書では、多くのものを集めて、一つのまとまったものにすることとあります。この集大成の語源は、中国の孟子(もうし)の逸話や問答を集めた『孟子』巻10・万章章句下に記された言葉です。

「伯夷は、聖人の中でも清廉な者でした。伊尹は、聖人の中でもすべてに責任を感じる者でした。柳下恵は、聖人の中でも人との調和を大切にする者でした。孔子は、聖人の中でも、時勢にしたがう者でした。つまり、孔子は、彼らの「集大成」と言えます。

この集大成というのは、鐘を鳴らして磬などの玉や石製の楽器で演奏を終えることと同じです。鐘を鳴らすのは、曲のながれを始めること。そして、玉や石の楽器は、曲のながれを終えるということだからです。曲のながれを始めるのは智の仕事であり、曲のながれを終わらせるのは聖の仕事です。

智は、例えるなら弓を射る技術。聖は、例えるなら弓を引く力。百歩の距離から弓を射るとして矢が届くかどうかは、弓を引く力によるます。しかし矢が当たるかどうかは、引く力によるものではないのです。」

漢文だと「集大成」のところの文章は「孔子之謂集大成、集大成也者、金声而玉振之也、金声也者、始条理也、玉振之也者、終条理也」と書きます。つまり「孔子之謂集大成(孔子は之を集めて大成す)」と書いています。孔子はまさに多くの徳を集めて人生を大成した人物だと。

今まで、徳を実践し容どってきた人たちがいて孔子はそれを倣い、それを実践し、孔子が一つのまとまったものにしたということでしょう。

つまり孔子一人が完璧で全部もっていたのではなく、「繋がってきた徳を集めてまとめた」ということです。ここに私はとても大切な意味があると思うのです。以前、坂本龍馬が船中八策という新国家体制を起草したものがあります。これは坂本龍馬が出会った人たちからつむいだ言葉をまとめたものだともいえます。これがのちの明治政府の五箇条の御誓文になったといわれます。

そう考えると、みんなの遺志や生き方を真摯に学び聴いて実践しそれをどうまとめたかということに尽きます。「人は一人で何かを為すのではなく、みんながつながってその中で集大成によって為る」ということです。

私が今世で取り組んでいることも一つの集大成でもあります。

先人たちやご縁あった方々の遺志を尊重し、守り、育て、子どもたちの未来のために紡ぎ纏めて容にして伝承していきたいと思います。

 

ブロックチェーンバレー

私はFBAというフクオカ・ブロックチェーン・アライアンスのボードメンバーでもあります。このFBAは、産学官民が連携したアライアンスで福岡県飯塚市を拠点に九州一円にあるブロックチェーン事業者とも連携し、あたらしい経済のあり方、豊かな生活をテクノロジーが支える時代を見据え、ブロックチェーンの拡大&展開を推進するために設立しました。

このフクオカ・ブロックチェーン・アライアンスでは、ブロックチェーンを基軸とした「人材育成」、 「企業誘致」、「創業支援」などを通じて、福岡県にブロックチェーンの産業クラスター(産業集積) 「ブロックチェーン・バレー」を形成し、世界に誇れる地域づくりを志して活動しています。

私の役割は、このブロックチェーンバレーなどを実現してこの場を整えていくことです。そのために世界中からブロックチェーン技術者や企業が集まる街の実現のために、様々な取り組みを行います。例えば、エンジニアが働く場所を自由に選び、より個人の成⻑を高める環境を自ら作り出すオフィスを持たない” 新しい働き方(暮らしフルネス)”の実現です。

私はブロックチェーンというのは、テクノロジーの名前ですが一つの思想を持っているとも思っています。よくブロックチェーンで使われるDAOはDecentralized Autonomous Organizationの頭文字をとった単語で「ダオ」といわれています。日本語では「自律分散型組織」と訳されることが多いものです。

この分散のところだけを使われ、分散型の働き方ばかりを取り立てることが多いように思います。しかし、私はこの自律分散型とは何かということを日本語にすべきではなかったかと思います。

自律というのは何か、それは真に自立して協力し合える関係が築けるということです。つまり自律=協力であり、真の自立は人々が支え合い助け合い豊かに見守りあうような社会を築いていくことをいいます。

それをテクノロジーの力を使って実現しようというのが、私のブロックチェーンの定義なのです。エンジニアではない私は、何ものなのかと思うことがあります。しかし本来、人間はカテゴリー分けできるほと単純なものではありません。

ある人はアーティストと名乗りながら、アーティスト風の職業をやる人のことをいうこともあります。偉い学者でも同じく、資格や立場があれば誰でもが学者です。こんなことをかくと批判とも思われるかもしれませんが、そうではなく大切なのはその本質が何かということを深く理解し、それを深堀りしつかみ取るように分かることが重要だと感じています。

この土地、この場所で、真に協力しあう風土や環境が仕上がっていくこと。それを人類のアップデートと共に、テクノロジーもアップデートさせようとしているのが私の試みであり挑戦でもあります。

少しずつ、同じ志の仲間が世界から集まってきています。子どもたちの未来は、私たちの人類の未来です。そこから逆算して、どうある世界がもっとも私たちが願う平和なのか。真摯に真向から取り組んでいきたいと思います。

危機に備える

昨日に続き、環境のことについて少し深めています。最近、サーキュラーエコノミーという言葉もよく聞きます。このサーキュラーエコノミーを日本語にすると、「循環経済」となります。これは「大量生産・大量消費・大量廃棄」を基本とする従来型の経済を「線形経済」と定義し、サーキュラーエコノミーは「3R(削減・Reduce、再利用・Reuse、再生・Recycle)」を基本にし、そこに技術革新などを通じて資源循環を促すことで新たな価値を生むことを目指す経済活動にするといことをいいます。

シンプルに言えば、これまで「廃棄物」とされていたものを「資源」にして、廃棄を出さない経済循環の仕組みするということです。言い方を選ばなければ、この仕組みやルールで大きな利益循環を産み出そうとする政策です。これをオランダ政府ではサーキュラーエコノミーを「Linear Econony(直線型経済)」だけではなく、リサイクルを中心とする「Reuse Economy(リユース経済)」とも明確に区別しているといいます。

こうなったのもつまり、人口も増え消費がかさみもはや資源の量が追いつかないということです。持続不可能なエコノミーではなく、持続可能なエコノミーに換えないとほとんどの企業が倒産もしくは廃業することになり人類も滅ぶかもしれないという予測からです。

今の物質的に豊かな状態を維持しながら、それをできるだけ維持するためにテクノロジーを活用しうまく回していこうというものです。具体的な方法論としては、国際的なサーキュラーエコノミー推進機関でもあるエレン・マッカーサー財団というところがサーキュラーエコノミーの3原則というものを設定しました。

一つ目は、自然のシステムの再生(Regenerate natural systems)。これは有限な資源ストックを制御し、再生可能な資源フローの中で収支を合わせることにより、自然資本を保存・増加させる。二つ目は製品と原料材を捨てずに使い続ける(Keep products and materials in use)。これは技術面、生物面の両方において製品や部品、素材を常に最大限に利用可能な範囲で循環させることで資源からの生産を最適化する。そして三つ目、ゴミ・汚染を出さない設計(Design out waste and pollution)。これは負の外部性を明らかにし、排除する設計にすることによってシステムの効率性を高める。としています。

自然資本をできるだけ保存し増やしながら、物を捨てず長持ちする仕組みをつくり、ゴミが発生することがないようにモノづくりをするということです。

基本的には、全部当たり前のことですがもはやこれができない状態の経済社会にしてしまっているということが現実なのでしょう。古の先人たちが当たり前にしてきたことは今では当たり前ではなくなっています。今の時代にタイムスリップしてきたらどう思うでしょうか。

ありあまる物や豊かさに溢れたこの時代、多すぎていらないから捨てています。そしてあるとき、途端にすべてがなくなってしまいます。まさかと思いますが、気候変動というのはそういうリスクがあるものでこれは太古の昔から何度も発生してきたことなのです。

そのリスクに備えるために、この当たり前であった準備をする暮らしを尊んできました。失ってみてはじめてわかる本当の有難さみたいなものです。

子どもたちのためにも、本来の足るを知る暮らし、あるものを活かす満ち足りた生活、暮らしフルネスの実践でこれから訪れるであろう本物の危機に備えていきたいと思います。

子どもたちの未来に向けて

最近、カーボンニュートラルートラルや脱炭素社会という言葉をよく聞くと思います。これは地球温暖化の原因となる温室効果ガスの排出量を実質ゼロにしようとすることやその社会のことをいいます。

産業革命以降、40%も上昇した二酸化炭素の排出量があり地球温暖化が進んでいます。先進国が優先して取り組んだ京都議定書から発展途上国も参加したパリ協定、それをもってしても温暖化を止めることにはならない計算です。

なので5年ごとに、見直しをかけるとし昨年、日本からは「2050年を目途に、温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする」という脱炭素社会への所信表明をしています。

具体的には二酸化炭素だけでなくメタンや一酸化炭素など、温室効果ガス全体の排出をゼロにするという内容でした。そこでカーボンニュートラルという言葉が出ます。このニュートラルというのは、CO2の排出量と吸収量を相殺してゼロにするものです。つまり「CO2実質ゼロ」だとここからいいます。

出したものを差し引きするという考え方です。余談ですが、先日お酒を飲んでいたときにお酒の量と同じ量のお水を飲めば血管や心臓に負担をかけないからいいと医者に言われた話がありました。プラスマイナスゼロのゼロが実質ゼロということでしょう。このカーボンニュートラルは、温室効果ガスの吸収、および除去量を排出量から差し引いた合計をゼロにすることで温室効果ガスの排出を実質的にゼロにする仕組みです。

また排出・廃棄物を最小限に抑えつつ資源を有効活用する循環型社会「ゼロエミッション」という言葉も誕生しました。この「ゼロエミッション」は産業活動から発生するものをゼロに近いものにするために最大限資源の有効活用を目指す理念のことをいいます。つまり、完全に循環して無駄が生まれない、日本では江戸時代に誕生していた循環型社会を実現しようとするものです。

ちなみにこの「ゼロエミッション(zeroemission)」の語源は、数字の0を表す「zero」と排出を表す「emission」を組み合わせた言葉の造語で排出ゼロ構想ともいわれ1994年に国連大学によって提唱されたものです。

難しく説明しましたが、結局はシンプルに言えば過剰な産業発展で傷んだ地球を思いやるためにそれぞれの国でちゃんと考えて新しい産業構造を構築してくださいという具合です。そこに、新しいゲームルールのようなものを設定しそれぞれで競い合って取り組みましょうというものです。取り組まないものには罰則や罰金などを制裁しますよという感じでしょうか。

世界を変えるという仕組みの一つに、構造全体を換えてしまうためのルールや法規制というものがあります。私は、別の仕組みとして原点回帰というものがあると思っています。本来の原点は何か、本質は何か、真の意味での豊かさや幸福さに気づき実践して変わろうというものです。

世の中は経済が最優先ですから前者を取ります、これも確かに分かりやすく欲望も活かそうという発想です。しかし、それだけでは片手落ちです。私は後者の真の意味でというのが大好きなので暮らしフルネスを提唱するのです。

今、全世界全人類が同じ課題に取り組む必要がでてきた時代でもあります。新しく懐かしい生き方、そして働き方、暮らし方を子どもたちの未来にむけてここから提案していきたいと思います。