集大成

「集大成」という言葉があります。これは辞書では、多くのものを集めて、一つのまとまったものにすることとあります。この集大成の語源は、中国の孟子(もうし)の逸話や問答を集めた『孟子』巻10・万章章句下に記された言葉です。

「伯夷は、聖人の中でも清廉な者でした。伊尹は、聖人の中でもすべてに責任を感じる者でした。柳下恵は、聖人の中でも人との調和を大切にする者でした。孔子は、聖人の中でも、時勢にしたがう者でした。つまり、孔子は、彼らの「集大成」と言えます。

この集大成というのは、鐘を鳴らして磬などの玉や石製の楽器で演奏を終えることと同じです。鐘を鳴らすのは、曲のながれを始めること。そして、玉や石の楽器は、曲のながれを終えるということだからです。曲のながれを始めるのは智の仕事であり、曲のながれを終わらせるのは聖の仕事です。

智は、例えるなら弓を射る技術。聖は、例えるなら弓を引く力。百歩の距離から弓を射るとして矢が届くかどうかは、弓を引く力によるます。しかし矢が当たるかどうかは、引く力によるものではないのです。」

漢文だと「集大成」のところの文章は「孔子之謂集大成、集大成也者、金声而玉振之也、金声也者、始条理也、玉振之也者、終条理也」と書きます。つまり「孔子之謂集大成(孔子は之を集めて大成す)」と書いています。孔子はまさに多くの徳を集めて人生を大成した人物だと。

今まで、徳を実践し容どってきた人たちがいて孔子はそれを倣い、それを実践し、孔子が一つのまとまったものにしたということでしょう。

つまり孔子一人が完璧で全部もっていたのではなく、「繋がってきた徳を集めてまとめた」ということです。ここに私はとても大切な意味があると思うのです。以前、坂本龍馬が船中八策という新国家体制を起草したものがあります。これは坂本龍馬が出会った人たちからつむいだ言葉をまとめたものだともいえます。これがのちの明治政府の五箇条の御誓文になったといわれます。

そう考えると、みんなの遺志や生き方を真摯に学び聴いて実践しそれをどうまとめたかということに尽きます。「人は一人で何かを為すのではなく、みんながつながってその中で集大成によって為る」ということです。

私が今世で取り組んでいることも一つの集大成でもあります。

先人たちやご縁あった方々の遺志を尊重し、守り、育て、子どもたちの未来のために紡ぎ纏めて容にして伝承していきたいと思います。

 

人類存続の智慧

私たち人間の平均寿命はいくら長くても約100年くらいです。むかしはもっと短く30年くらいの時もあったでしょう。そして一家族がもしも10人くらいいたとしても、その歳まで生きられた人はどれくらいただろうかとも思うとかなり少ないものです。

100年でも3世代、1000年になると30世代くらいは繋いでいきます。縄文時代は1万年ですから300世代くらいということになります。

自分の代で人類が終わってしまうような危機は何度もあったはずです。祈るような気持ちで、子孫たちにいのちのバトンをつないでいったのでしょう。

そのいのちのバトンを渡す側の気持ちはどのようなものだったでしょうか?そしていのちのバトンを受ける側の気持ちもどのようなものだったでしょうか?

私たちはその先人たちのバトンを受けているから今を生きています。

よく何百年も続く老舗企業に言われることですが、老舗企業が廃業する一番の理由は不景気の時よりも好景気のときといわれます。時代が滅びに向かう時もまた、同様に悪いときよりも良い時です。人間は、欲に呑まれて謙虚さを失う時、いのちのバトンが消えかけます。

子孫たちのことを思う時、私たちはどのくらいの長さを想定していのちのバトンを渡そうとするでしょうか。自分の子どもや孫くらいは誰もが考えます。しかし本当は人類の子孫というもののことももっと真剣にみんなで考えて議論する必要があると思っているのです。

国の違いや、人種の違い、地理的な分け方とは別に地球全体のいのちをどうつないでいくかという視座で私たちはもう一度、原点回帰するときが来ているように思います。

なぜならこのままの状態であと1000年後に果たしてどのような未来が来るかが想像できるからです。世界中の資源を消費し続け、貧富の差で富を摂取し続けて地球にないからと宇宙に探しにいくというのはあまりにも欲に呑まれていると思うからです。欲は生きるエネルギーですが、それを謙虚に制御していくことで先人たちは永続する暮らしを実現してきました。

それを人類存続の智慧と呼ぶのでしょう。

人類存続の智慧がそろそろ消えかけてきています。それを甦生し、すべてのものを原点回帰してやり直す必要が出てきています。言い換えれば、学び直しの時代というkとでしょう。

子どもたちの未来が、真に豊かで平和になるように脚下の実践をさらに真摯に取り組んでいきたいと思います。

 

 

新しい社会への挑戦

現在、「Society5.0」に「地域循環共生圏」を加味された新しい社会を目指してAI、IoTなどのICTを最大限に活用しようということになっています。このsociety5.0は以前ブログでも書きましたが狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、情報社会(Society 4.0)といった「人類がこれまで歩んできた社会に次ぐ第5の新たな社会を、デジタル革新、イノベーションを最大限活用して実現する」という意味で「Society 5.0(ソサエティー5.0)」と名付けられたたものです。

Society 5.0は、それまでの産業だけに特化したものの変革中心ではなくICTやIoTなどのデジタル革新により「社会のありよう」そのものを変えることによって、社会が抱える様々な課題を解決しようとする包括的なコンセプトであるということがポイントになっています。同時に世界の課題解決という観点から、国連が提唱する「持続可能な開発目標(SDGs)」と絡めて、「Society 5.0 for SDGs」として用いられています。

そして第5期科学技術基本法では日本政府の研究開発への投資額は5年間で26兆円が見込まれ、その市場規模は760兆円あるとされています。大きな市場規模であることからもこれからの新しい社会に向けて変化させるための挑戦をしようとそれぞれの民間企業を含め、社会起業家たちも革新のためにしのぎを削っています。

現状としては、下記の具体的な革新を提案されています。

CPS(Cyber-Physical System)における知覚・制御を可能とする人間拡張技術
革新的なAI用ハードウェア技術とAI応用システム
AI応用の自律進化型セキュリティ技術
情報入出力用デバイスおよび高効率のネットワーク技術
マスカスタマイゼーションに対応できる次世代製造システム技術
デジタルものづくりに向けた革新的計測技術

これらの技術をシンプルに言えば、サイバー(仮想)空間とフィジカル(現実)空間の融合を優先しています。最先端のテクノロジーを使って、どう様々な問題を解決するか。そういう意味では、それぞれの技術者たちが全員であらゆる分野から智慧も腕も磨き挑戦する時代に入っています。

私は懐かしいものと新しいものを融合させる甦生家ですからこの新しい社会の創造は私のライフワークそのものでもあります。現在の単なるITだけでは片手落ちなものを先人の智慧や古代からの叡智からカバーしていくことができます。

技術だけあっても社会ができるわけではなく、そこにはやはり人類の智慧が必要になります。子どもたちに譲り遺していきたい本物で真に豊かな社会に向けて、私にできることで挑戦していきたいと思います。

危機に備える

昨日に続き、環境のことについて少し深めています。最近、サーキュラーエコノミーという言葉もよく聞きます。このサーキュラーエコノミーを日本語にすると、「循環経済」となります。これは「大量生産・大量消費・大量廃棄」を基本とする従来型の経済を「線形経済」と定義し、サーキュラーエコノミーは「3R(削減・Reduce、再利用・Reuse、再生・Recycle)」を基本にし、そこに技術革新などを通じて資源循環を促すことで新たな価値を生むことを目指す経済活動にするといことをいいます。

シンプルに言えば、これまで「廃棄物」とされていたものを「資源」にして、廃棄を出さない経済循環の仕組みするということです。言い方を選ばなければ、この仕組みやルールで大きな利益循環を産み出そうとする政策です。これをオランダ政府ではサーキュラーエコノミーを「Linear Econony(直線型経済)」だけではなく、リサイクルを中心とする「Reuse Economy(リユース経済)」とも明確に区別しているといいます。

こうなったのもつまり、人口も増え消費がかさみもはや資源の量が追いつかないということです。持続不可能なエコノミーではなく、持続可能なエコノミーに換えないとほとんどの企業が倒産もしくは廃業することになり人類も滅ぶかもしれないという予測からです。

今の物質的に豊かな状態を維持しながら、それをできるだけ維持するためにテクノロジーを活用しうまく回していこうというものです。具体的な方法論としては、国際的なサーキュラーエコノミー推進機関でもあるエレン・マッカーサー財団というところがサーキュラーエコノミーの3原則というものを設定しました。

一つ目は、自然のシステムの再生(Regenerate natural systems)。これは有限な資源ストックを制御し、再生可能な資源フローの中で収支を合わせることにより、自然資本を保存・増加させる。二つ目は製品と原料材を捨てずに使い続ける(Keep products and materials in use)。これは技術面、生物面の両方において製品や部品、素材を常に最大限に利用可能な範囲で循環させることで資源からの生産を最適化する。そして三つ目、ゴミ・汚染を出さない設計(Design out waste and pollution)。これは負の外部性を明らかにし、排除する設計にすることによってシステムの効率性を高める。としています。

自然資本をできるだけ保存し増やしながら、物を捨てず長持ちする仕組みをつくり、ゴミが発生することがないようにモノづくりをするということです。

基本的には、全部当たり前のことですがもはやこれができない状態の経済社会にしてしまっているということが現実なのでしょう。古の先人たちが当たり前にしてきたことは今では当たり前ではなくなっています。今の時代にタイムスリップしてきたらどう思うでしょうか。

ありあまる物や豊かさに溢れたこの時代、多すぎていらないから捨てています。そしてあるとき、途端にすべてがなくなってしまいます。まさかと思いますが、気候変動というのはそういうリスクがあるものでこれは太古の昔から何度も発生してきたことなのです。

そのリスクに備えるために、この当たり前であった準備をする暮らしを尊んできました。失ってみてはじめてわかる本当の有難さみたいなものです。

子どもたちのためにも、本来の足るを知る暮らし、あるものを活かす満ち足りた生活、暮らしフルネスの実践でこれから訪れるであろう本物の危機に備えていきたいと思います。

子どもたちの未来に向けて

最近、カーボンニュートラルートラルや脱炭素社会という言葉をよく聞くと思います。これは地球温暖化の原因となる温室効果ガスの排出量を実質ゼロにしようとすることやその社会のことをいいます。

産業革命以降、40%も上昇した二酸化炭素の排出量があり地球温暖化が進んでいます。先進国が優先して取り組んだ京都議定書から発展途上国も参加したパリ協定、それをもってしても温暖化を止めることにはならない計算です。

なので5年ごとに、見直しをかけるとし昨年、日本からは「2050年を目途に、温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする」という脱炭素社会への所信表明をしています。

具体的には二酸化炭素だけでなくメタンや一酸化炭素など、温室効果ガス全体の排出をゼロにするという内容でした。そこでカーボンニュートラルという言葉が出ます。このニュートラルというのは、CO2の排出量と吸収量を相殺してゼロにするものです。つまり「CO2実質ゼロ」だとここからいいます。

出したものを差し引きするという考え方です。余談ですが、先日お酒を飲んでいたときにお酒の量と同じ量のお水を飲めば血管や心臓に負担をかけないからいいと医者に言われた話がありました。プラスマイナスゼロのゼロが実質ゼロということでしょう。このカーボンニュートラルは、温室効果ガスの吸収、および除去量を排出量から差し引いた合計をゼロにすることで温室効果ガスの排出を実質的にゼロにする仕組みです。

また排出・廃棄物を最小限に抑えつつ資源を有効活用する循環型社会「ゼロエミッション」という言葉も誕生しました。この「ゼロエミッション」は産業活動から発生するものをゼロに近いものにするために最大限資源の有効活用を目指す理念のことをいいます。つまり、完全に循環して無駄が生まれない、日本では江戸時代に誕生していた循環型社会を実現しようとするものです。

ちなみにこの「ゼロエミッション(zeroemission)」の語源は、数字の0を表す「zero」と排出を表す「emission」を組み合わせた言葉の造語で排出ゼロ構想ともいわれ1994年に国連大学によって提唱されたものです。

難しく説明しましたが、結局はシンプルに言えば過剰な産業発展で傷んだ地球を思いやるためにそれぞれの国でちゃんと考えて新しい産業構造を構築してくださいという具合です。そこに、新しいゲームルールのようなものを設定しそれぞれで競い合って取り組みましょうというものです。取り組まないものには罰則や罰金などを制裁しますよという感じでしょうか。

世界を変えるという仕組みの一つに、構造全体を換えてしまうためのルールや法規制というものがあります。私は、別の仕組みとして原点回帰というものがあると思っています。本来の原点は何か、本質は何か、真の意味での豊かさや幸福さに気づき実践して変わろうというものです。

世の中は経済が最優先ですから前者を取ります、これも確かに分かりやすく欲望も活かそうという発想です。しかし、それだけでは片手落ちです。私は後者の真の意味でというのが大好きなので暮らしフルネスを提唱するのです。

今、全世界全人類が同じ課題に取り組む必要がでてきた時代でもあります。新しく懐かしい生き方、そして働き方、暮らし方を子どもたちの未来にむけてここから提案していきたいと思います。

自分への御褒美

生きていると小さな頑張りというものがたくさんあります。何かをしようとしようがしていまいがこの世に生きているというのはそれだけで頑張っているともいえます。

肉体であれば心臓が活動し、体温をあげ呼吸をし、血液を循環させています。毎日、老化していきますがそれは頑張った歴史ともいえます。皺が増え、色々な機能が減退していきます。それも一つ一つ、知らず知らずに頑張ってきたからでしょう。

この当たり前ではないことを忘れるほどに私たちは日常を酷使していくものです。これでもかと足りない方をみては、何かと比べられ自分らしくいることができなくなったりもします。これは幼い頃から教育の影響が大きいと思っています。人は自分というものを労われないと他の人を労わることができません。

そういう私も、つい忙しくなると労わることを忘れてしまいます。すると身体を壊したり、周囲への思いやりが出て来なかったり、物を粗末にしたりと疲れてしまいます。疲れは労いのメッセージでもあり、お疲れ様というのは頑張っている自分自身へのご褒美でもあります。

この褒美の字を調べてみるとこの「褒める(ほめる・ホウ)」という字は、「衣」という字を上下に分けてその間に「保つ」という字を書きます。この「保つ」という字は、大人と子どもが寄り添う様をあらわします。保育の字も、子どもに寄り添い見守る姿がそのまま感じになったものです。つまりにんべんが大人の姿で、「口」の下に「木」と書く部分は赤子がおむつをする様。それに「衣」で包み込みふくらんでいる様子が褒めるです。抱きしめたり、おんぶしたりする様子が想像できます。

そこからこの褒めるという字が「ゆるやか、広い」となり、「素晴らしいことや、よいことを賞賛しほめる」という意味をもつようになったといいます。そこに美しいがついて「褒美」になります。さらに有難いものとして「ご」が入り、ご褒美になるのです。

私は子どもに関わる仕事をしていますが、今更ながらご褒美にこういう意味があることをあまり関心を持っていませんでした。しかしよく考えてみると、子どもが素直に育つのにこのご褒美はとても大切なことだと感じます。現在、問題になっている自己肯定感が持てない問題もまたこの褒美や労うことがなくなってきたからでしょう。

見返りを求めることはよくないと教え込まれてきましたが、報いることは大切なことだと感じるのです。今の私たちの暮らしも、多くの労苦があって存在しています。それを労い、労わり、お互いに報い合うことは自分の存在そのものへの感謝の時間でもあります。

今は、頑張りすぎている人が多く、周囲の評価やスピードで疲れている人が増えています。疲れることがよくないのではなく、疲れるほどに頑張っている人たちを労わらないことが問題だと感じるのです。

これは日本の社会全体で発生している閉塞感の根本的な原因だとも感じています。報恩や報徳というのは、一方的に自己犠牲をすることではなく自己感謝をすることではないかと感じます。

自分という存在に感謝する、自分を褒めること。つまり自分への御褒美を与えることは、見返りではなく恩送りであり恩返しでもあり徳積みそのものです。

色々と学び直して、同じように頑張りすぎている人が疲れすぎて孤独にならないように労いと褒美と感謝を実践していきたいと思います。

引力と場

何かの決意と覚悟で物事に取り組むとき、そこには引力のようなものが働きます。不思議と最良のもの、最適なものが集まってくるのです。これは意識せずとも、自然にまるで向こうから集まってくるかのように時が重なりタイミングが合います。

この偶然のようで必然が発生するのは、その「場」に充分に気や志が満ちたということの証明でもあります。

例えば、あるものを磨き続けているとします。それは泥団子でも構いませんし、古い木材、もしくは貝殻を磨いても同様です。ある一定の磨きをかけたら、ある時に突然光り輝きはじめます。

単にコーティングや塗装をしたものではなく、内側のもっているものが光りだすのに似ているのです。この状態になれば、自ずから光を発して変わらない状態に入っていきます。

実際に、舞台や場が磨かれていくとそこには義士が集まり、志が和合し、まるで水滸伝の梁山泊や南総里見八犬伝のように仲間や同志が集まってくるのです。

時間をかけてそれぞれが志を温めるまでの期間、また多くの人たちと志をぶつけ合い錬磨し合う機会の質量がある一定を超えるとき、そこに「場」が誕生するのです。

その場をどうつくるか、そこには夢を実現しようとするもの。そしてその夢に共感して自分もと挑戦をする人たちが必要です。小さくまとまるのではなく、大きなところで目的が同じであればそれぞれが自立して懸命にその目的に殉じていく必要があります。

その時、離れていても、或いは同じようにやらなくても結果は必ず一緒に取り組むところに落ち着くのです。こうやって歴史的な場は誕生し、それが時代を動かす一つの引力になっていくのです。

これは宇宙の働きの姿でもあり、私たちは同じやり方で場を創造していきます。

それぞれの志が一つになっていくことは、人生の仕合せとご縁の喜びです。引き続き、二度とないこの今に集中していきたいと思います。

大恩

「大恩」という言葉があります。これは非常に偉大で深い御恩のことです。ことわざには、「大恩は報せず」という言葉があります。これは小さな恩義はすぐに気づいて報いることができてもあまりに大きな恩義はかえって気づくこともなく、報いることができないという意味です。

よく人生を振り返ってみると、私たちはこの大恩によって生かされていることに気づきます。小さな恩は、日々の関わりの中で実感し感謝して忘れませんが大恩となると気づいてもおらず、そのためなかなか御恩返しをすることができません。

この大恩に気づかせることができることが本来の徳積みではないかと実感するのです。

中江藤樹に、「父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深し」という言葉があります。私というものを存在させてくれた恩徳は、比べようもないほどに高く深いものというものです。

例えば、私たちは身体がなければこの世で活動することはできません。この身体がある御蔭で存在しています。その恩徳は偉大であり、こんなに有難いものはないと思うものです。しかし実際に日々に生活していると、身体のことも気づかずにやりたいことをやっていてその時々の出来事に一喜一憂して恩を味わっています。

もっともの大恩は何かと思えば、まずこの世で生きていること、身体があることというのは当たり前です。当たり前のことに気づくことができるのは、この当たり前である大恩に気づいているということでしょう。

その大恩に報いるとは何でしょうか、なかなかそれはできないものです。食べるものがある、飲める水がある、家族があって友人があり、住める家もありと、本来は非常に有難い御恩も当たり前になってくると忘れがちになるものです。それが大きければ大きい存在ほど当たり前になり忘れていきます。太陽や月、地球や空気、歴史や文化も当然すぎて思い出しもしないのです。

本来の偉大な恩はこのいのちそのものの存在ということかもしれません。

だからこそ、大恩に報いる機会を思い出させることはとても大切な行為だと私は思うのです。それが徳に気づかせて徳を積ませる場を用意することや、お布施をする機会を見出し共に恩返しをする場をととのえることが恩徳に気づかせることになるのです。

人間が恩徳に気づけば、生き方が変わっていきます。恩徳の存在があることによって安心が生まれ、幸福な暮らしを味わっていくこともできます。子孫のために自分を活かして恩の一部に近づいていくこともできるように思います。

大恩はこの永遠につながっている無限の徳の循環です。

自然やお山に近づくのは、それを人々に伝えるためだとも感じています。子どもたちのためにも、本来の大恩や徳に気づかせていくような場を磨き上げていきたいと思います。

徳豊一致の泉

WELLという言葉があります。これは井戸や源泉が語源であるといいます。そして最近、WELLNESSやWELLBEINGという言葉もよく聞きます。これは健康な状態や幸福な状態のままというように私は解釈しています。

つまり日本語では日々の暮らしがととのい心豊かに健康に元氣で生きられる状態であるということです。これを私は「暮らしフルネス™」と名付けて実践を弘めています。

ウェルネスやウェルビーイングは海外から入ってきたものですが、本来、日本人は何がもっとも豊かで幸福であるかということはみんな実践できていた民族でした。貝原益軒の養生訓にもありましたが、私たちの先祖は長寿で健康、そして日々の暮らしの喜びに満ちたものでした。

改めて今の時代、人類は何を求めているのかという問いに対しての答えがはっきりする時代に入ってきたのかもしれません。成長と発展、繁栄の先にあると信じたものがなかったと思ったなら人類は大きな方向転換を定める時機です。

そこでこの「暮らしフルネス」こそ、私は世界に新しい人類の智慧を提案するものになると信じています。

私たちの生命は、偉大な何かを与えられて存在しています。すぐに分かるのは水や太陽、大地、空気など私たちが生存するためには与えられ続けている存在に頼っているのはわかります。私たちは与えられ、そして与える存在。つまり貢献し続けて共生しているから生きているともいえます。

この枯れない泉は、滾々と水を湧き出していのちを潤し続けています。この泉の水は何かということです。

英彦山にも湧き出ている清水があります。それが大きな川になり海になります。そのはじまりの水は流れ続けています。これを「徳」とします。この徳が湧き出ているからこそ、その徳を集めて私たちはあらゆる豊を積んでいくことができます。その徳を積むとき、泉は湧き出てきます。

つまり私たちはみんなで徳を積みながら真の豊かさを増やしていくのです。徳と豊かさは表裏一体であり、徳のあるところにこそ真の豊かさがあり、真の豊かさがあるところにこそ徳は積めるのです。

永遠という言葉は、この徳豊一致の泉にこそあります。

人類の目覚めは、「場」の道をととのえるところからはじまります。子どもたちのためにも私の使命を全うしていきたいと思います。

物語を生き切る

英彦山の宿坊の甦生が始まる前に色々と心の整理をしています。毎回、古民家甦生や場の甦生をする前は傾聴や覚悟の時間があります。このプロセスはとても大切で、今までの様々な物事を紡ぎ、結び物語を続ける準備に入るからです。

物語というものは、すべてのものに存在するものです。

この世にあるものはすべて物語があり、その物語の続きを私たちは生きています。何も意味もないもののように見えても、実際にはそこには意味が存在します。それが物語がある由縁であり理由です。

その意味が観える人と、意味が見えない人がいるだけです。私たちはどのような場にも意味があると感じられる人と、場に意味を感じられない人がいます。私は場道家を実践しますから、そこに一期一会の物語を直観していくのです。

これは自分の人生にも言えることです。

今の自分があるのは多くの物語の集大成でもあります。その物語を歩んでいく過程で、色々な人たちとさらなる物語の続きを見つめ、自分の役割、徳、業にいのちを傾けていきます。

こうやってまた新たなご縁が産まれ、新たな出会いと別れがあります。この出会いと別れもまた物語の一端に過ぎないことでありまた再び物語は歩むのです。私がもっとも仕合せを感じるのは、止まっていたもの、忘れられていたもの、捨てられていたもの、失われていたもの、形がなくなっていたものを「甦生」するときです。

私にとっての甦生は、物語を綴ることでありそれはこのブログを書いていることにも似ています。

今日も一日、かけがえのない日々がはじまります。

子どもたちのように一期一会に生き切り、自分自身の一生の物語に生きていたいと思います。