観音様の生き方

観音様を深めていますが、観音様の真言というものがあります。この「真言」とは古代インド語のサンスクリット語でマントラ(Mantra)と言われる言葉のことで「真実の言葉、秘密の言葉」という意味です。空海の般若心経秘鍵によれば「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す」記されます。私の意訳ですが、真言はとても不思議なものである。この真言をご本尊を深く実観するように読んでいると知らず知らずに目が覚め、一つの字の中に無限の理を感じ、直ちにそのものと一体になり悟ることができるという具合でしょうか。

この観音様の本来の名前はサンスクリット語では、「アヴァローキテーシュヴァラ」(avalokiteshvara)と記されます。もともと般若心経などを翻訳した鳩摩羅什はこれを「観世音菩薩」と訳し、その観世音菩薩を略して観音菩薩と呼ばれるようになりました。この鳩摩羅什(Kumārajīva)という人物のすごさは、母国語がインドでも中国でもなくウイグルの地方の言葉が母国語でしたがその両方の言語の意味を深く理解し、それを見事な漢訳の言葉に磨き上げたことです。これは仏教の真意を深く理解し、それを透徹させてシンプルになっているからこそ顕れた言葉です。これは意味を変えないままに言葉と事実の折り合いをつけその中庸のまま中心が本当はどういう意味かという真意を的確に理解しているからこそできたものです。これによって仏の道に入りやすくなったということに厚い徳を感じます。

今でも私たちはそのころに漢訳されたお経を読んで生活しています。西暦400年ごろから今でも変わらずそれが普遍的に読み継がれるのはそれだけその言葉が磨かれ本質的であるということの証明でもあります。そこから約200年後、三蔵法師で有名な玄奘三蔵はこの観音経の真言を「ava(遍く)+lokita(見る)+īśvara(自在な人)」とし観自在菩薩と訳します。つまり鳩摩羅什による旧訳では観世音菩薩とし、玄奘三蔵の新訳では観自在菩薩となりました。

それを私の観音経の解釈では「円転自在に物事の観方を福に循環する徳力がある」と現代に訳します。つまり、自分の物事の観方を変えて、すべてのことを福に転換できるほどの素直さがある仏ということです。これは観直菩薩でもいいし、調音菩薩でもいい、観福菩薩でも、そう考えて訳している中で当時最もその人が深く理解したものを言葉にしたのでしょう。大事なのは、その意味を味わい深く理解し自分のものにしていくということが親しむことであるしそのものに近づいていくことのようにも思います。

最初の観音様の真言に戻れば、観音菩薩の真言は「オン アロリキャ ソワカ」は「Om arolik svaha」といいます。これもまた私が勝手に現代語に意訳してみるとこうなります。

「おん」=私のいのちそのものが

「あろりきゃ」=穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを

「そわか」=心からいのります

『私のいのちそのものが穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを心からいのります。』

とにかく「善く澄ます」ことということです。実際にその言葉の意味をどのように訳するかは、その人の生き方によって決まります。その人がどのような生き方を人生でするかはその人次第です。それは自分でしか獲得できませんし、他人にはどうにもできないものです。しかし、先人である観音様がどのように生きたのか、そしてどのような知恵があって自ら、或いは周囲の人々を導き救ってきたか、それは今もお手本にできるのです。

私たちが目指したお手本の生き方に観音様がとても参考になったというのは、私たちのルーツ「やまと心」が何を最も大事にしてきたのかということの余韻でもあります。

時代が変わっても、響いて伝わってくる本質が失われないように生き方で伝承していきたいと思います。

 

 

場の伝承

むかしの遺跡に巡り会うとそこには色々な人たちの思いが結ばれている痕跡があります。かつての人がどんな思いを持ってその場に関わったのか、そこには物語があり歴史があります。

静かに思いをその場所に佇み、巡らせているとその場所から聴こえてくる音があります。この音こそ思いの本体であり、その音を聴くことによって人々は心が結ばれ調和していくようにも思います。

この音とは、物語でありその物語をどのような心境で聴いたかという生き方が顕現したものです。私たちは生きていると、手触り感というものを感じます。体がある感覚であり、それを触れるという感触です。いのちはこの感覚を通して生きていることの実感を得られます。物語というのは、まさにその感覚の集合体でありその物語に触れるときに人は感覚が目覚めるともいえます。

遺跡というものは、触れることによって目覚めていきます。教科書や本に書いているものをみても伝わってはきません。その場所にいき、お手入れをしてこそ感じられるものです。

そもそも修養するということや、修行をするというのもその場所によって磨かれるものです。その場所とご縁を結び、その場所から感得したものを共感し伝承していくなかで顕在化していきます。

その感性は、五感や第六感と呼ばれるものによって得られており知識ではなく知恵であることは自明の理です。

本来のあるべき姿、人々が何千年も前からどのように様々な知恵を伝承してきたか。その仕組みは、知恵を知恵のままに感受するものです。

子どもたちの未来のためにも、本来の伝道や伝承が知識にならないように実践を継承していきたいと思います。

いつまでもご縁

人生は出会いと別れの連続で存在しています。生まれる前から出会いが始まり、死んでも別れは終わりません。常にご縁に生き、ご縁に死に、生死をめぐるご縁というものがあるだけです。そのご縁は、いろいろな理由をつけては関係性が結ばれますがある時には親子になり、またある時には夫婦になり、またある時には敵味方に分かれていきます。

その関係の中で、お互いに生き方を重ねながら学びあっていきます。学びあうというのは、成長しあうということでもあり一緒にご縁を磨きあっていのちを分け合っていきます。

このいのちの分け合いというのはご縁の本体でもあります。どのようにお互いのいのちを分けたのか、分け合ってきた歴史こそご縁の軌跡でもあります。その分け合ったいのちが、次の何のいのちに結ばれていくのか。それは出会い別れを繰り返しながらかたちを変えては循環していきます。このいのちの循環こそが、ご縁の素晴らしさであり奇跡です。

この今も、私たちは何かを食べ、そして飲み、空気を吸って吐いてはいのちを保っています。これも何かのご縁でそうなっていて、また私たちはそのいのちを分け合い新たないのちに甦生させています。

そもそも甦生というのは、いのちが循環することをいいます。私はいのちとしてそのものを感受し、そのいのちを新たないのちとして結び直すことを意識して暮らしを紡いでいます。本来、自然がわかるというのはこのいのちの道理や仕組みのままで存在しているということであり人間はそのとき、真の仕合せに気付けるように思います。

そしてそれを私は徳を積むとも定義しています。もともと存在するもの、そのいのちに感謝して新たないのちのご縁でいる。

いつまでもご縁であると思えば、この今のご縁を深く味わうことこそが人生の醍醐味であることに気づきます。子どもたちとのいのちのご縁がどうなっていくのか、とても楽しみです。

初心伝承の人生

誕生日を迎え、多くの友人たちからお祝いのメッセージをいただきました。思い返せば、あっという間にこの歳まで過ごしてきました。日にちでいえば、赤ちゃんとして外の世界に出てきてから17194日目になります。また今日もその日に一日を積み重ねていきます。あと何日、この世で体験できるのか。そう思うと、貴重な日々を過ごしていることを思い大切にしたいと願うようになります。

誕生日というのは、そういう日々を過ごす原点を思い出しこれまでの日々に感謝する日かもしれません。どの一日も、よく考えてみたら当たり前の一日ではなく尊い日々です。

その時々の人と出会い、語り、何かを共にする。いのちを使い、いのちを守るために、他のいのちをいただいて暮らしを紡いでいく。どの日々もつながっていないものはなく、どの日々も結ばれていないものはない。

一日一日をリセットしているようで、それはリセットではなく新たな一日をさらに新しく体験させていただいているということになります。そして身体も衰え、次第に死に向かっていきます。死を想う時、この今が如何にかけがえのない一日かは誰でもわかります。

一日を何に使って生きるのか、自分のすべての日にちをどんなことに懸けて生きるのか。

有難い一日にかけがえのない喜びを感じているとき、人は仕合せに回帰します。どのような一日であったとしても、その一日は二度と戻ってこない一日。一期一会だからこそ、生き方を見つめ、生き方からいのちを発して光を放っていきたいと思います。

我が初心伝承の人生。

残りの日数で、できる限り真心で尽力していく覚悟です。

徳の道

天道と人道というものがあります。天の運行に対して、人の定めともいうのかもしれません。その中心にあるものは徳です。そしてその徳の循環を道とも呼びました。この道徳というものは、すべての根源でもあります。そして天と人を結んでいるもの、それを道徳と経済ともいいました。

本来、自然の循環と一緒一体になりながらその中でどのように私たちは暮らしてきたのか。自然の利子をいただいて、その分だけを有難くいただき足るを知り倹約をしてその豊かさの真実を観るというのが徳の道に入る原点かもしれません。

私は幸運なことに、自然のいのちが喜び合う風景を何度も観る機会をいただいています。すべてが喜びあう世界は、とても調和しそこには徳が満ち溢れています。羅網のような結び合いとつながりの世界です。

本来、むかしの人は目の前の小さなご縁が宇宙全体に結ばれているのを直観していたのではないかと思います。夜空の星をみては、その星の結びつきを感じる。そして身近な小さな植物の変化で気候の全体を直観する。それくらい私たちは身近なものの徳を感じ、その徳が循環するなかで如何に日々を暮らしていくかを考えていたのです。

本来、経済という言葉は経世済民であり世の中を自然になるように修養することです。自然であるというは、自然の循環を邪魔せず如何に調えるかということです。山が調和して神聖であるように私たちの先祖は自然の調律を丹誠を籠めて感謝し調和させていた暮らしをしていたように思います。

現代は、なんでも人間の都合を優先し効率第一で画一化、均一化したことでその循環は見事に破壊されていきました。その結果として、徳が失われていきました。この徳というのは、日々の小さな心がけがもっとも効果があります。そしてそれは自分のいのちを調え、健康に仕合せに生きるためにも必要なことです。

未病と言って、病気を未然に防ぐにも日ごろの暮らしをととのえていくのが一番であるように徳もまた得だけを回す車輪にならないように徳と得の両輪を丁寧に回していく必要があります。

その両輪が走るところは道です。その道は、元々あった普遍的な道があります。その道が逸れてしまいそうなら軌道修正してまた元の道に戻る必要があります。そうやって今も私たちは歴史を創っているからです。

先人の人たちの歩んできた道を尊敬し、子孫たちのための道を尊重する。そのために今の私たちはどのような道を歩んでいるのかを反省し改善する。この繰り返しで、徳は醸成されていきました。徳の道を精進していきたいと思います。

供養の心

昨日は、郷里の落雁を製造する友人のところで落雁づくりをみんなで体験してきました。米粉に砂糖、あとは水を混ぜ合わせ、菓子型にいれて固めてから取り出し乾燥させるというシンプルな手仕事です。

しかしシンプルな手仕事はとても奥が深く、味わいがあるものでした。落雁のことはこのブログでも以前書きましたが、日本古来からある伝統の和菓子です。お寺にはきってもきれない関係があり今も大切にされています。

現代は、見た目が落雁である落雁風のものも増えています。本来は、砂糖がなかった古代において甘いものというのは大変貴重で高価なものです。それをまず仏様にお供えするという心が落雁には宿っています。

このお供えというのは、感謝の気持ちそのものを伝えるものです。今の自分があるのは、その前の有難い何かをいただいたことからはじまっている。そのものに深く感謝をする気持ちがお供えをする心でもあります。

亡くなった人や、もう随分前にお世話になった人にはそこでお会いすることも直接感謝することも物理的にはできません。だからこそ、心を伝え、心で接するようになるのだと思います。

心で接する時、心は体と一体ですから心を籠めて手仕事をすればそのものに心が宿るのです。心は宿ったものをお供えすればその心は、感謝というものに転換され届けることができるのです。

お供えものをお供えする側の心の中に、相手の心もあります。心というのは通じ合うことで伝わりますから、自分の心が通じ合うように調えることはとても大切なことだと私は思います。

宿坊で、供養の心を伝えていこうと考えていましたが落雁はとてもいい体験になるように思います。子どもたちに、先人たちの心、そして今を生きる私たちが大切にしていきたい心を伝えていきたいと思います。

徳が循環する結づくり

昨日は、伝統固定種の堀池高菜を収穫しました。もともと30年間、耕作放棄地だったところを畑にし無肥料無農薬でもう10年以上になりますが今年の出来栄えもまた素晴らしいものでした。

虫もほとんどついておらず、葉も青々とし、茎などはまるで樹木のような頑丈さ。鎌で刈り取るとその周辺には高菜の香ばしい香りが満ちてきます。今回は、一緒に取り組んでいる仲間も参加しみんなで和気あいあいと畑ライフを楽しみました。

みんなで畑で歓声をあげながら、高菜の出来栄えを喜びそして分け合うと深い喜びと仕合せを感じます。種を蒔いてから半年間の間、猪被害に遭い、草とりもあり、何度も足を運んだことが報われる瞬間です。昨日はそのまま高菜を天日干しにし、高菜漬けをつくりこのあと古漬け作業に入ります。

高菜漬けもまたみんなで行いましたが、こうやって素材そのものが出来上がるプロセス、そして素材が美味しいままにみんなと分かち合える仕合せ。これはゼロから生産するからこそ味わえるものです。

私たちはいのちのバトンというものを繋いでいく存在でもあります。そのバトンをつなぐことが大切なのは当然ですが、実際にはそのバトンをつなぐまでの喜びが仕合せが幸福でもあります。

与えられた場所で、与えられた種と共に一緒に育ちあい、そして一喜一憂しながらも様々な物語を体験し感謝してみんなと分け合う。こんな仕合せは他にはありません。

私はこのような取り組みをする仲間を集めたいと、徳が循環する結づくりをしています。それが子どもを見守ることになり、私のバトンをつなぐことにもなります。

この人生は、自分のものですが自分だけのものではない。いのちはみんなのものであり、みんなとつながるなかで私たちはその恩恵や恩徳を実感できるのです。

私にとって今日の日は、特別な日の一日でもあります。陽気な春の気配と、ひなたの喜び、いのちがイキイキと躍動して仕合せを分け合える日。こういう素晴らしい日のような心のままに歩んでいきたいと思います。

懐かしさとは

むかしの遺跡や和歌を深めていると、その時の情景や心情がどうだったのだろうかと感じるものです。今は、ほとんど景色も様変わりしており、遺跡の周囲は近代的な建物や資材置き場など価値のない場所として使われています。そもそもこの価値が変わってしまい、昨日ブログでも書いた種よりもお金が大事になり、歴史よりも経済が大事になればその土地の本来の価値も失われていくのは当然かもしれません。

私達が懐かしいと思うものは、ただ思い出があるものだけではありません。そこには、今にも「つながっている心」であったり、その当時から人間が持っている普遍的な情緒や感情、気持ちに「共感」するときに懐かしいと感じるのです。

この懐かしいという言葉は、慣れ親しむもの、手放したくないものという意味でもあります。つまり、いつまでも失いたくないもののことのことでしょう。

私達が懐かしいという言葉を語る時、忘れてはいけない初心や、いつまでも失いたくない大切な記憶のことをいうのです。

今の時代は、懐かしいものが減ってきています。ほとんど懐かしいという言葉を使うことがないほどに、なんでも新しくし、近代化を進め、過去を否定し、価値を換えてしまいました。

しかし、子孫のことを思う時、これはいつまでもなくしてほしくないもの、そして忘れてはいけないもの、そういう先人たちも一度きりの人生で深く味わった大切な体験をずっと宝ものとしていのちのままとして後世に伝承していけたらと思うのです。

伝承は、この懐かしさと一体になっているものです。

初心伝承をしながら、子どもたちに懐かしい未来をつないでいきたいと思います。

伝承の結

昨日、郷里の偉人でながのばあちゃんという名称で有名な長野路代さんとお会いしました。聴福庵に来庵いただき伝統や伝承の話を私たちのスタッフたちと4時間ほど語り合いましたが目的や想いを共有することができとても仕合せなお時間になりました。

また私が大切に育ててきた伝統固定種の堀池高菜を食べていただき、とても褒めていただきました。この高菜とのご縁のキッカケには深い悲しみがありましたが、供養で続けてきたいのちがこのタイミングで甦生していることに不思議さと有難さを感じています。

長野さんは、そのものがもつ素材本来の美味しさをつくりだしていくことに長けておられます。その加工の方法は現代の単なる大量生産のときの人工的な加工とは異なり、自然そのものを自然の知恵をつかって自然に加工をする方法を取ります。それは例えば、その地域独特な環境や風土、そして先人の知恵を結集してそのものがどうやったらさらに美味しくなるかを追求するのです。

想えば、先人たちはその場所にはその素材しかないものを工夫してどうやったら最高の状態で人々がその価値を味わえるかを追求してきました。それは魚、植物、木の実、野菜、野生動物や昆虫、あらゆるものをその土地にしかない味としてその素材を活かしきろうと創意工夫をしたのです。

本来の特産品というものは、他所からもってきて借りたものではなくその土地にしかないもの、その風土でしか味わえないもののことです。その価値をどう磨き上げるかというのが先人たちの伝統でした。その伝承をしっかりと受け継がれ、今でも時代に合わせて創意工夫をされている長野さんの経験や知恵はそのまま伝統食の根源と呼んでもいいものでした。

本来、調理というものはどういうものか、和食というものはどういうことか。その根源を突き詰めていけば、ある場所に辿り着きます。その場所は、日本人と日本の心、そして日本の風土であることは間違いありません。

私たちは今まで唯一無二の歴史を辿りそのなかで伝統を伝承してきました。それは、加工技術の中にも垣間見れます。例えば、私の取り組む漬物の伝統もどうやったら美味しくなるか、自然のもつ素材を味わいきるかを考えつくした形が今のものです。さらに言えば、今の高菜は改良された現代のものとは異なり歴史をもったあるがままの姿です。これ以上ないほどに完成されている自然体の高菜ほど見事なものはありません。

私は自然農でずっと育てていますが、この伝統固定種の高菜の御蔭で高菜とはここまで美味しいものだったのかということに気づいて感動し涙しました。これも伝統を受け継いだからこそ感じる実感です。他にも、私は古民家甦生をはじめあらゆる日本の暮らしを甦生していますが仕合せに包まれる豊かさに感動することばかりです。

私たちは日本文化という宝を持っています。その日本文化を語ることなしに、何を語るのか。その原点を忘れてお金儲けや便利さばかりを追求すれば、私たちは和食というその伝統も失うように思います。

子どもたちには、本物の調理、本来の日本の伝統を伝承していきたい。ますます私の覚悟や意識を再確認できました。この出会いに心から感謝しています。これから、この場所から伝承の結をはじめます。

徳積帳とご縁

私は結というものを通して様々なことを結びなおそうとしています。生きている間は、さまざまつながりがありその結び目に気付きます。それを丁寧にほどいてまた新たに結んでいくこと。ほどくことも結ぶことも生きていることの醍醐味であり、人生の妙味はそのご縁の最中にこそあるように思います。

振り返ってみると、産まれる前からいただいてきたご縁によって導かれ今があります。それをほどきながら新たな結びをつなげます。それを生きているときにまたほどければいいのですが、ほどけないものは次への持越しになります。次の持越したときに、あまりにも結び目がきつすぎたりすればほどけません。それに絡まり合っていたらそれも時期が来なければほどけません。

不思議なことですが一つほどけ、二つほどけ、周囲が、あるいは誰かが、もしくは何かが偶然におこり奇跡によってほどけるものがあります。ほどけたとき、みんながまたそこから結びなおして調えていく。美しい結び目ができれば喜び、複雑に絡み合えばまた執着する。人間というものは、こうやって何度も心の循環を繰り返していくように思います。

自然界というものも結んでいます。そして生死を繰り返してほどけていきます。連綿と網羅し繋がっているこの宇宙で私たちは何度も結んではほどいてそのいのちを循環させていくのです。

新たな結をつくるのに大切なことは、あまり強い結び目にならないことです。すぐにほどけるようなゆるいつながり、そして何かあればすぐに結べるような柔らかで寛容な結び目を繋がり続けること。

徳積帳でこれから行っていこうとしている、私の結の本質はこのほどくことと結ぶことの中の場にこそあります。ご縁に導かれるように、ご縁を味わい、ご縁とともにいのちのつながりを子どもたちに結びなおしていきたいと思います。