子どもの眼差し

世の中にはいろいろな個性の人がいます。

大人の世界では、自分の「我」が邪魔をして他を受け容れることできなくなったり、また集団の持つ価値観などがありそのままのあるがままの自分でいられなくなってくるものです。

本来、子どものときはその子の個性も「子どもだからいいじゃない」と、とても暖かい眼差しを向けられることもあります。

しかし、世の中に心豊かにゆとりや優しさが欠落してくると子どもたちにまで大人のルールや価値観を押し付けようとし始めたりします。

そのままで良いと思われなかった子どもはとてもつらい思いをします。

人は、何のために生まれてきたのかを考えるのは大人になってからだと思いますが子どもたちを観ているとそうは思いません。

子どもたちは、自分たちが何のために生まれてきたのかを本能で分かっています。

その証拠に、様々な個性をそのままに色々な命の光を発揮していきます。
言葉はよく喋れなくても、精一杯自分を主張してきます。

人は、自分のあるがままの力が周囲に受け入れられたとき、自然に他と共生し自分の持って生まれた天分の命を他や社会へ還元し貢献していきたいと思うものです。

子どもたちを観ると本当に安らぐ時があります。

それは、様々な子どもがいてもおかしいと思っても相手の気持ちを分かっていてそのままに接しているところなどです。

そしてその中でも暴力や悲しい事はみんなが嫌がります。そして、嬉しいこと、楽しい事はみんなで喜びます。だからこそ、みんなで話し合い、正しい大人が間にいてどうしたらいいのかをみんなにキッカケを与えて見守るのです。

そうしていくことで子どもは自分の主体で思いやりを持てるようになってくるのだと思います。

今の社会はどうでしょうか?

障害者に対する見方、そして軽度発達障害に対する見方。

言葉を換えればいいという問題ではなく、それはその大人たちに巣食う偏見の眼差しや集団社会で生きることへの歪んだ刷り込みなのではないでしょうか?

先日、園内研修をしました。

そこでも軽度発達障害の子どもの相談を受けました。園ではそういう空気が読めなかったり、多動だったりする子どもを気になる子と言います。

ある先生から気になる子への対応はどのようにすればいいか聞かれました。
私は気にならなければいいと答えました。

文章で書くと誤解があるかもしれませんが、もともとそういう偏見が当たり前のことをできなくしているということに気づかないだけだったりするのです。

本当は、子どものような「なぜ」「どうして」という素直で純粋なものの目で物事を受容していればそんなに難しいということはほとんどないのです。

どんなに難しい対応も内容もそれをやるためのテクニックを覚えればいいわけではないと思います。

大切なのはそうではなく、人としてシンプルになる、つまり自然でいれば次第に世界にとって必要になってくるのだと思うのです。

色々な価値観や個性を受け容れることができる思いやりがある人たちは決して人間を偏見で見たりはしないものです。そしてそれは世界の一流人には当然備わっていることだと思います。

もちろん運不運があり、この島国に縛られ日の目を見ないこともあるかもしれない。けれど、その人の天真が発揮されていれば必ず見つけ出す人たちがいるのだとも思います。そしてそういう自分を発揮していれば、そこが光りだし少しでも多くの暗闇を照らす一燈になっていくと私は思います。

子どもたちの長い未来、これから創り上げる社会が、偏見のない純粋で助け合える豊かなものに変わっていけるように、まずは今の大人達が刷り込まれた偏見を取り除き、子ども自らで学び育つ力があることをもっと周囲へ向けて発信していきたいと思う。

子どもには、本当に自分にしかできないことをやりたいことをやれるようになってほしいと願う。