共通理解

先日、保育現場にて保育と共通理解についての話を行った。

何か人は自分だけではできないような偉大なことを行う際や、科学では実現できないような人間の叡智が必要なことを遣る場合は、必ずチームや集団で実施していくことが必要になる。

そこには必ず方向性とビジョンが在る。

その際、バラバラでは何もできないのはすぐに分かる、大事なのは皆が一つになることだ。

しかし集団になることを忘れた人たちは理解をともにするよりも、まず自分だけで何でも進めようと躍起になる。そうなると次第にバラバラになってしまう。

理解がそれぞれでバラバラだと同じように一つのことに一つの心で考えることができないし、皆がどのようにしていきたいのかを感じることができず皆で力をあわせることもできなくなる。

常に何かを取り組む際に重要なのは、 自分が理解するより、自分だけがわかるよりも、みんなでわかるようにつとめていくことが大事だということになる。

理念も体験もみんなで一緒になって「こういうことじゃないかな」と侃々顎々と遠慮なく議論し、「私はこう思うけれど、あなたはどう思うか」などと気づき合う方を優先して理解を深めていくことがなければ分かり合うことがない。

受け身で動くならそういうことはいらないけれど、自分で考えて行動し、主体的に判断するならまず共通理解がなければできるはずもない。

保育もそうだけれど、子どもたちの発達を皆で共通理解しあうことで先生間での共通認識もできてその子を見守れるようになり自立するし、さらに子どもたちで自由に闊達に議論させて話させみんなでやると社会の中での共生を学び、人生がより楽しくなるし、命の尊さ、繋がり合う世界の有難さも知ることができ、それぞれが個性を存分に発揮して自然に動けることになるようにも思う。

人は、みんなそれぞれに何かしらの世の中に役に立つ豊かな才能を持っている。
それが偏っている人もいれば、それが平均的に優れている人もいる。

そういう人たちが一つになり力を合わせていけば、必ず大きな事は成る。

それを正しく導くのがリーダーの役割だし、理念を明確にするとは皆が自発的に自由に動けるようにして、それぞれの持っている力を存分に引き出し発揮してもらうためにもまずその環境を用意する方法のひとつとなる。

人は、その理念が感化するというのは、その人がイメージするものを皆によく説得し、共感してもらい、現場で皆で動くために共通する理解が持てれば、自然に力と心を合わせることができ協力して皆で幸せに事を進めていくことができると私は思う。

しかし今は、それを一人の責任で遣ろうとする人がとても多い、これは過去の間違った歪んだ個別教育や、少子化の影響があるのかもしれない。例えば、仕事でもそうだけれど自分が困っているからと他の他人の面倒は自分がまずできてからやろうとする。

簡単に考えれば同じ集団の中でその人が困っていると言うことは、必ずその組織や集団全体が同じように困っているということになる。

つまりは、自分が困っているのはみんな困っているということだし、みんなが困っていなければ自分も困るはずはない、だからこそ集団や組織のために自分も困っているけれどあえて勇気をもって他を思いやり自らが自発的に進んで協力する心構えがチームワークの基本として必要になる。

所謂、じり貧になっていつも孤立化して追い込まれる人はあまりにも自分のことばかりを優先し、周りがみえていないからということになる。自分のことで必死になるというのは、どんどん仕事をひきこもりかし、タコつぼ化し、迷惑をかけていることに気づかなくなり、悲惨な末路を呼び込もうとする。

どんなに定期的にそれを外的人為的に取り除いても、そういう人はまた次第に自分からひきこもっていく。周囲に素直に心を開いて、できないと言うことや、分からないということは恥ずかしいことではない。さらに、自分が困っているなら相手を助けたいと思うくらい共感できる力があるのにやらないのは何か責任という言葉を履き違えて刷り込まれているからなのかもしれない。

人は、自分だけができれば誰かの役に立つわけではない。みんなが不十分で不完全な存在だからこそ助け合いの意味が生まれ、助け合いの価値がある。

完全な人間であれば集団もいらないし、人と生きていく必要もない。
しかしそれは生きていく限り不可能なこと。

話を戻せば、リーダーや組織の長もなんとかしようと皆必死になっている、だからといって自分だけが一人で何もかもをやらないといけないというのはおかしいことで、皆が困っているからこそ協力し先に手助けし一緒にやりませんかと声をかけあうのが人としての道であるし、それこそが社会を形成する意味なのだと私は思う。

そしてその社会を形成するためにはそれぞれに役割が要る。役割がなければ一緒にやっていくこともない、そしてその役割は一人で決めることでは決してない。みんなで共通に大きな目標を達成するためにそれぞれの課題を共に通じあうことが必要で、それを理解していくから自然と分かれるのが本来の「役割」と私は思う。

保育者であれば担任としてだけではない、その園にいる集団が目指している理念を皆で感じ合い語り合い、学び合いともに理解することで先生としての本来の役割が生まれる。

みんなで共通理解を取ることは、みんなで仕事をすると腹を決めること。

一人身勝手に孤立化せずに、皆に心を開き手伝ってあげること、助けてあげること、自分のことばかりを優先せず、常に周囲に気を配り、皆が良くなるように自分を使って全力でフォローしていくこと、そこに人と生きるという幸せと自立がある。

これから理念を通じて、人が共生するということを表現して子どもたちの社会を見守れるような仕組みを広げていきたい。そういう助け合い、思いやり、自立した幸せの和の意味を実践を通じて伝えていきたい。