成果の本質

保育現場でよく相談にのっていると孤立して必死になって頑張っている人たちがいる。

そしてそれは保育に限らず、経済優先社会の中では特に営業職や技術職でも同じように現場にいつも立っている人たちは、能力優先で集まって何かを遂げることをやるようにと圧力を無理に与えられて来ている人が多い。

それがもっとも楽な教育方法であり、手間がかからないから現場に入れ込むというような手法を使う。しかし、人は手間ひまかけて育てなければ決して良い人にはならないし、良い仕事もできはしないのう人道の理でもある。

しかしそれでも生き残った中堅やベテランは過去に新しいことを遣る際に、誰にも何も教えてもらえなかった環境で孤軍奮闘で遣りぬいて工夫してきたから認められたこともあり、今でもそれを当然と思っている人もいる。

私自身、営業の仕事や技術の仕事を覚えるとき、新入社員から入社したわけではなく社長から引き抜かれ抜擢されて仕事を必死に手探りで自らの実力で生きてくる方を優先していたので当然仕事とは本来そういうものだと思っていた。

特に20代の頃は、いつも周囲の思いやりのある人たちから「あなたは凄くできる人だからできない人の気持ちが分からないのでしょう?」とよく言われた。

私は其の当時は、その都度、「できないのではなくやらないから悪いのだ、そういう人ははじめから逃げているからやれないのだ。」と一点張りに言い返していた。

するとせっかく助言してくれた人も、「それはあなたのようにできる人の理論でしょ」と言い返され話が収拾がつかなくなってしまっていた。当然、そういう人が自分なのだから能力には着いてきて慕われるけれど、そういう価値基準のない人からは嫌われた。そして着いてくるものは、能力の差がなくなると興味を失うので必死に能力を磨き気がつくと私は偉大な職人芸人にもなっていた。

現場は常に自らで考えて自らで判断し、自らで行動することが当然に求められる。だから受け身に誰かが教えてくれるのを待っていたり、失敗することを恐れたり、安全第一で取り組むことは、結果から逃げていることであり、それは決して仕事の成果を出そうとする試みからは大きく外れることになる。

しかし、本来は成果を出すことは大前提だけれど、それをどのようにやるかについては「決して一つのやり方だけでやろうとしてはできることもできなくなってしまう。」ということには関心がなかった。

今では、私は人はそれぞれにその人にしかない大切な持ち味があり、それぞれに身につけているやり方がある。そのやり方を尊重しながら成果を出すには、皆が同じではなく、皆がそれぞれに自由に正しく仕事ができるようにしてあげること、つまりは理解させて良い方へ導き、自らで成果を共有していくという見守りの方を優先することを大事にしている。

それがもっとも成果になるということに気づいたからだ。

能力の世界だけのモノサシで自分だけのやり方がもっとも合っていると思っているとそこには必ず落とし穴がある。

ある人は、仕事は教わった方が良い成果が出せる人もいるし、ある人は自由にさせた方が良い成果が出せる人もある、またある人は順番にひとつひとつやった方が良い人もいて、またある人は同時に一気にやる方が良いという人もいる。人は個性があり、それを受容すればその方法もそれぞれがもっとも得意なやり方をやろうとする。

その成果というものを、自分だったらこう出すからやりなさいというような成果ばかりを追わせれば周囲は正しい仕事ができなくなる。歪められてしまうと、その人らしくなくなり、成果のことよりも結果のことばかりが気になって動けなくなってしまう。

その人らしい形で成果を出したとき、その成果が本質的に理念と目的にあっていたならば良しとすることで本当の意味での良い仕事良い成果となると私は思う。

そのために、たくさんのコミュニケーションが必要になり、そのためにもチームで方針を確かめながら進めていく必要がある。

それぞれが実力主義でやるというのは、ただどんな卑怯なやり方でもどんな理念なき方法でも結果だけはやればいいというのは、どこぞの外国の傭兵ばかりを雇って戦争をし、人間の尊厳を愚弄するやり方と変わらない。時と次第によっては、永遠にお互いが不幸の連鎖の源にもなる。

また逆に与えられた成果のみで良いとすれば、誰しもその指示した人の求める成果しか評価されないのだからいつもその人の顔色を見て、その人の思い通りに動こうと自分をあわせようとする。それでは、いつまでもその人に依存していないと自分は存在価値がなく個性が失われ、しまいには何でもその人抜きでは本来あるべき仕事がまったくできないということにもなる。

巷ではこういう人たちがたくさんいてその指示をもらう技術のみを磨き職人芸を発揮して気にいられることばかりに躍起になっている人たちもたくさんいる。これも今まで学校で一人の先生だけを見て学んだ一斉画一の教育が生み出してしまう受身現象の一つだと私は思う。

本来、一緒に成果を出すためにどのように成果を出すのかを正しく長い時間をかけてオープンに相談して話し合い、自分のやりたいことを皆と共通理解し、またその最大の支援者である経営者へ話を通し「責任と権限」を取りに行き、安心して取り組むこと自体が正しい成果に結びついていくのだと私は思う。

ここでの正しい成果とは、様々な人たちの協働と結びの力により思いやり助け合い認め合うという人間が働くというプロセスがきちんと歩めていることを言うと思う。

そしてこれはそのプロセス自体が素晴らしいことであり、豊かなことであり、そこに平和や尊厳があり、尊敬しあう人たちの中でいつも幸せを実感しながらその形になった具現化されたモノやサービス、ホスピタリティによって証明されるもので協力してはじめて人間の創造性を発揮することができると思えるからだ。

成果の本質は、決して実力主義に偏るのではなく、マニュアル主義に偏るのではなく、個々と全体の自立と共生主義になってともに歩み、そして皆が見守ることを優先するのが本来あるべき社会の仕事であると私は思う。

ただ、孤軍奮闘してきた実力主義で生きた人にはとてもその時に埋められなかった様々な溝があり、そして受け身に教えて与えられた人たちにもその時に埋められなかった様々な溝がある。その解決はこの溝を埋めるのは、お互いが自立することではじめて成り立つのだからお互いに逃げずに、正対し、安心して仕事ができるように今の自分を捨て去る勇気がいる。

そして自立を決めればまずは自分の変化値が鍵を握る、つまりはどれくらい今までの自分を勇気を持って捨てられるかによるのだ。

これからも人生は長いのだから、より自分を大事にするためにも自分を活かせる理念に参画し、その大義を貫くことで本命を知り、そして世の中に貢献するためにも今までの自らの過去の自らで一度清算し、心新たにしてこれからの本当の自分を持ち続けてみんなと一緒に人生を創り上げていくパートナーや仲間を信じて素直に取り組んでいってほしいと願う。

人は一人では生きてはいけないのだから、もっと無理をしないで人を信頼して自分を大切にして生きてほしい。

捨てることはとても勇気がいるけれど、それ以上に手に入る愛がそこに必ずあるのだから人間を信じて思いやる心を優先してともに素晴らしい社会を築き子どもたちへ譲っていきたい。