理念の解釈

毎週月曜日の朝一番にカグヤの理念についての解釈を行う時間を取っていて、先日もそのことについて話し合う機会があった。

ルーツについて話をしたのだけれど、物事の解釈には本質的なものとそうでないものがある。

表面上をなぞって分析し、同じところを往ったり来たりとただ水面の上でバシャバシャと音を立てて泳いでいるだけのものと、同じところを深く潜り本質的で内容があるものを掴んでくる深層的で根に触れてくるものがある。

人は自分で決心するのも決意するのも、そして本質であることも全ては自分から発して自分に還るもの。

だからこそ、何より単に浅いところで分かった気になり頑なに正しいことかどうかばかりを気にするような反応的な努力では、本当に真理や心底、その根本から理解するような内省的な努力にはなりはしない、そこには柔軟性や正直さもすでになくただただ分からないことを永遠に繰り返す動作的で機械的な日々を送ることになる。

これは先日、空海の実践の足跡を調べているうちに拝読した高野山真言宗管長の松長有慶先生の著書「こだわらない」(PHP)の中で分かりやすく解説をしていただいていた。

「仏の教えの中には二通りの解釈の仕方が在る。ごくおおざっぱな表面的な理解ともいうべき「浅略趣」と、ものごとの本当の姿を見通した深い理解にあたる「秘密趣」とがあるという。

たとえば、われわれの身近に病人が出たとする。そこに医者が来て病人を前にするが、古く中国から伝えられた医学史をひもとき、病気の原因を論じたり、薬の効能をうんぬんするばかりで、一向に病人の脈をとろうともしない。それが顕教のやり方である。

それに対して、密教の立場は、病人を前にすれば、議論はあとまわしにして、まず病人を診察し、病気に最も適切な薬を調合して与え、治療に全力を傾注する。病原の詮索とか薬効のPRよりも、病そのものを治そうとする実行が大切、と大師は述べている。」

弘法大師は、高野聖と呼ばれる弟子をたくさん輩出し日本全国、いや世界に放ち、密教の実践を尊び、大勢の人たちを功徳で導きこの今もそのビジョンは光り輝き後人を照らしている。

理念や原点などを理解することは、自分で決意決心して豊かに生きるには必要なことであり、二度とない人生だからこそ遣りたいことを遣り抜くという強い意志が本質的に楽しくし幸せにしていくものだ。

幸せであるかどうかというのは、誰よりもその秘密趣の領域にて本当に何をやりたいのかを自らが掴んでいることであり、表面上で分かった気になっている浅略趣では現実に役に立たない議論ばかりしているうちに人生があっという間に過ぎ去り終わってしまうのではないかと私は思う。

ここで遣ろうとしていることは、浅略趣では分からない。
だからこそ、どれだけ潜ってその根を掴んだかはその人自身の問題となる。

理念の仕事をしていると、いつも結果に対しての責任がある。

その結果責任を正しくし、世直しや世界を易えようとするなら理念のルーツを知るだけではなく本質的に根を自らが張り巡らせなければそれは理念の浸透ではない。

自分の力で根を掴もうとはせず、表面を右往左往している人たちに理念の本質的な意味を理解することはできはしない、さらには根を張るのは自らである必要があるのに理念に根差そうとしないのではそういう人はもうお手上げでどうにもすることはできない。

常に自らが先に道を歩む者たちとして実践躬行を第一義に命をを懸けて取り組んでいきたい。