心で立つ

チームワークで大切なものにみんなで行うがある。これは何かの出来事を繋がりの中で皆で喜び合うということを通して、人は一人では生きてはいけないということを皆が大切に理解しているかが問われる。すべての生物は自分だけで存在できるということはない、全体の中に自の分という分がありそれを正しく理解するからこそ正しく自分が在ることができる。

しかしそうではなく、その分を弁えず全体との繋がりを断絶し、単に自分のことだけをいつも優先し、自分のことばかりの成功失敗を追う人たちがいる。

やることが多くて忙しいという言い訳と理由を使って、目の前の事に心を籠めず投げやりに行うその心の姿勢が、それまでのみんなの思いや今までの繋がりを無視し好き勝手にやっていることになっている。

人は何かの仕事をするにも、何かをさせていただくにも、そのことに携わる多くの人たちの大切な思いを引き継ぎ繋がっていてそれが自分に頂いているということを感じることがなければ単なる流れ作業のようになってしまう。

目の前の作業を頭で安易に判断しロボットのように単に仕分けているだけでは、繋がりやその本来の意味を感じることもない。

意味をわざわざ感じるためにマニュアルを作るのも機械的な発想であり変な話だと思うけれど、そうではなく意義について分かち合うことや大切な思いを共有することを優先し、その心の余裕から周りがよく見え、そのみんなの思いやりを繋げ、大切に一つ一つのことに心を籠めているかどうかが本来意味を紡ぎだすのだと私は思っている。

しかし今は、ある人は、やりっぱなしでその後のことを追いもしない、またある人は、自分勝手に正しいを頑固に主張しそれまでの繋がりに責任を持とうともしない、またある人は、これまで関わった人たちが大切に守ってきたものを粗雑粗暴にするということもある。

これは全てに、「繋がりからの断絶」を意味し、自分自ら周りとの関係を断ち切っているその人自身の甘えと傲慢な生き方にこそある。その連鎖がより人と人との繋がっていたバトンや糸を断ち切ることになっているのだ。

よくIT系でプログラムなどの人が孤独になっていて精神的に病む人も多いのもこの理由によるものがほとんどだと思う、人は繋がりの中でしか生きてはいけない、いや、すべての命はバトンを受け渡しながらその命を繋いでいるだけともいえるのだ。それが消えることは、自らが孤立して孤独になっていくことを意味し、そこに生き甲斐や遣り甲斐などは発生することもない。

そうやって次第に流され自分は自分だけで生きているとどこかで思っていると人は自分だけの世界に閉じこもる。そして自分さえよければいいと考え始めるのだと思う。

どうせだれも自分を守ってくれないのだからと不貞腐れるか、もしくは誰かが守るだろうと誰か任せに無責任に次第になっていくのだと思う。

今、自分があるのは何の御蔭なのかの見えない繋がりをよく考えることだと思う。

自分自身、沢山の人たちの関わりの中で大切にされて色々な思いの中で生かされていることを心で感じそして一つ一つに心を籠めるのだと思う。

生まれてきてから今まで、もし本当に一人で生きたと思うならばそれは大きな勘違いで自分が当たり前に生きていると間違っていて、両親はじめ友人、周囲の人たちなどの様々な御縁ある人たちや自然の恩恵、そういう無償の愛の輪の中で自分が存在させていただいているのだ。

その繋がりを自らが断絶していることこそ、愛への冒涜になってしまうのではないか、そういう人が幸せを感じることが社会で果たしてできるのだろうか。仕事は機械が生み出すのではない、人の心が生み出しているのだということに気付くことからはじまる。

そして本当の充実や感謝は、色々な人たちから自分へバトンを渡されているという実感から自分がみんなとともに結果を出すことであり、人を愛したいと思う思いやりから発心するのではないかと私は思う。

いつまでも、自分だけで生きているなどと、誰かに心でもたれかかるような甘えた根性は捨てて社会の中で心を自ら立て自律することが、本当の意味でチームの中で共生することになり、幸福な社会を創り上げる一員としての社会人としての大切な自覚であると思う。

今は、何歳になっていても立場があってもそういう自覚がない人が多い。

子どもたちのことを思えば、なぜ今、生きているのか、生かされているのか、そして自分があるのは何の御蔭で成り立っているのか、有難いや勿体無い、見守りや御蔭さまなど心が繋がっているからこそ自分の心で立つということを実践で示していきたい。

まだまだ周りにはそれに気付けない人ばかりです、大人として生きる生かされているバトンを正しく受け渡せる人たちをチームの大切さを通して表現していきたいと思います。