涵育薫陶

GTサミット2日目が昨日、無事に終了することができた。全国各地から、子どもから保育を考えている方々とふれあうことは自分の人生の喜びでもある。

保育という仕事は、自らで立派になろうとする人々を感化し、平和な社会を導き、幸せな世界をともに創っていくことに参画できる素晴らしいものだと改めて実感する。

それを思うとき、一人ひとりの実践による感化発信がどれだけの力になるかと思うと昨日の様子を見ているとまだまだこの国には希望が満ち溢れていると実感でき感謝に満ちた。

サミットでは、陶冶についての話があった。

私は、教育というものの考え方の中で人は自然に育つものだと定義し、徳のある人に感化されて人間は成長していくものだと信じている。

何か結果ばかりを追うのではなく、何のために生きるのか、何のため行うのかを正しく思っている人たちが集まり、その中で仁義道徳を実践する人が真ん中にいれば人は次第に練り上げ磨き合うような立派な同志に変わってくるのだとも思っている。

私が尊敬する吉田松陰の書、「講孟箚記」にこうある。

「養の一字最も心を付けて看るべし。註に、養とは涵育薫陶して其の自ら化するを俟つを謂うなりと云う。涵はひたすなり、綿を水にてひたす意なり。育は小児を乳にてそだつる意なり。薫は香をふすべ込むなり。陶は土器をかまどにて焼き堅むるなり」

とある。

これは簡単に解釈すれば、「養う(保育)」というこの言葉の意味を深く味わうことだという。つまり養うというのは「涵育薫陶して其の自ら化するを俟つを謂う」(朱子)の言葉である。涵とは、綿を水でひたすようにしていくもので、育は幼児を乳で育てるという意味になる。陶は、土器をかまどで焼き上げることという。

人が育つ、育てるなどというものは普遍的なものがある。

すべての生命は、自ら育ち自ら育てようとする。

それはすべてに仁義道徳のある思いやりの実践が出来る人によって次第に人間は立派になろうとし、さらには世の中に有用な人になろうと目指すのだと思う。

私が尊敬する師匠も、自らがその実践により人々を感化していく。その恩恵を身近で受けていると、この「涵育薫陶」という言葉が当てはまる。

無理やりに何か正しいことを教えようとしても人は変わりはしない、そして何か厳しく無理に強引に導こうとしても人は育たない。やはりじっくりと永い時間をかけて涵育薫陶を続け、自らが変わりたいや立派になりたいと思うのを待つことこそ仁義道徳を実践する聖賢の道であり、それこそが人類の精神を思いやり助け合いの成熟なものへと導くチェンジングリーダーとしての素養であるのだと私は思う。

何か勘違いされているけれど、学者や研究者ではなく実践者に私が何よりも強く惹かれ、その人生を懸けられるのはこういう素養のある人の周囲に満ち溢れている気やその涵育薫陶の持つ人間を深く受容する懐の偉大さに感動しているからだとも思う。

これからもこの教育界にいて、企業としてお役に立つ以上、何よりも何のためにやるのか、それは子ども第一主義の理念に沿うものだとしさらなる皆様の貢献に尽力していきたいと思います。