平均化の嘘

何でも均一化し、画一化し、平均化していくというものがある。

作物でも同じく、違う形のものを市場では販売せずに同じ大きさ同じ味、同じ見た目を重要視し、そうでなければ販売を認めないといったものもある。

スーパーマーケットにいけば、同じ形の野菜や果物ばかりであるのもそういったものでなければならいといった設定されているルールがあるから成り立っているのです。

学校の勉強でもスポーツでもそうですが、皆と同じことができるようになるまでとことん居残りや宿題をだしつつも勉強をしないといけませんでした。何か得意なことがあるだけでは認めてはもらえず、それ以外の教科が平均的な状態になるまでは先生と言われる人たちや周囲も必死です。

卒業するまでには、平均化したものになっていなければちゃんと育ててあげられなかったと悔いたりもすると聞いています。田畑の作物も同じく、同じ形にならなければ不作であり不毛でありお金にもならないというように農家も嘆くのです。

自然農をすると、それぞれが同じになるということはないということにすぐに気づきます。

ある大豆は虫に喰われ、ある大豆は風になぎ倒され、ある大豆は他の雑草に埋もれ、またある大豆は小さく、またある大豆は葉の色の薄く元気なものだったりもします。それはその大豆の与えられた生育環境と生来の生きる力に差があるのだから同じにならないのです。

そして出来上がった実は、それぞれの生きざまやその生き方、その経過がぎっしりと詰まったものを味わうことができるのです。言い換えれば、いのちを感じることができるとも言います。

しかしもしも、同じ形でないものは排除されるとしたら鶏のブロイラーのようにまったく平均化されるような環境で同じ卵を同じ内容で産ませるというようになるのです。同じでなければならないという生き方は、違いを認め合っている関係ではなくそれは苦しいものです。

御互いを認め合うというのは、平均の力が備わっているかどうかとは本来無縁なのです。

平均かどうかであるよりも、そのものであるかどうか、そのものを尊いと思う考え方です。
そのものがそのままで皆が尊いと認めたらどれだけ自分を肯定し信じていけるでしょうか。

こんな自分なんてといって精神がやんだり、さらには自分の身を殺めたりする人がいます。
これをその人のせいにする前に、自分たちの社会を一度見つめ直していく必要があるのです。

どんな社会が子どもたちにとって相応しいか、権力や経済を優先せずにです。

まだまだ自分の中にも平均化の刷り込みは色濃く残ってもいます。
まずは自らの刷り込みを取り除いていきたいと思います。