御土産の種

昨日、クルーの間で先日のドイツ報告を再び行いました。

何を御土産にするのか、何を持ち帰ってきたのか、その御土産の種を共有するのです。その歴史の中にある古き善きもの、その土地にそのまま残っているのもを自分の内面に照らして共通するものを取り出していくのです。

気づきの方の観るということや聴くということもそうですが、何を観たのか何を聴いたのかはすべて自分の中から探していくものです。そうやって自分の中から感じて出てきたもの、探し出したものを観てもので発見したらそれをそのままにせずに掘り起こして思い出したままに自分に活かしていくのです。

これは才能などとも同じで、もともと自分の中に備わっている才能を磨き開花させていくのに似ています。人間は感性が鈍ってくるともともとあるものを使おうとしなくなっています。例えばそれは冷暖房があるところにいると次第に肌感覚や体内器官を衰えさせ自分の内から体温調整をしなくなっていくのと同じです。

人は最初から自分のものを使おうとしないと、次第に他人のものでやろうとしていくものです。つまり自分の力を使わないでも済む方法にマンネリ化されていくのです。

だからこそ人を当てにせず、危機感を持って全ての物事に主体的に自主的に取り組んでいかなければ自分のセンスも永遠に開花していかないのです。成長が止まるというのは、実はこれのことで自分のもともとあるものを磨かなくなることを言うのだと思います。

それに加え今は教えられたや気づかされたという発想が通常ですが、ここでの気づいたことは一般的には足し算のようになっています。つまり気づきが足し算だと思っているのです。そうすると、気づいたのになぜか長続きしないと悩んでいます。しかしそれは私にとっては刷り込みで、単にもともとあるものに気づかず外から借りたものだったりして受身になったり流されたから感覚が鈍って使わなくなってしまっていたともいえるのです。

素直というものでも同じです。

そういうものがもともとあったのを次第にそうではなくても世渡りが上手いこと生きてこれたなどで一度その味をしめてしまうと素直が何かというセンスが衰えていくのです。本来はいつも正直でいることや素直でいること、直向でいることができているから自分の持ち味というのは生き活かされていくのです。

私もすぐにメソッドやノウハウなどに惹かれるときがありますが、その時は心の力、もともとの自分のいのちの力を使おうとしないでやろうと考えているときです。本来はやはり「覚悟」であろうと思いますが、そういうものが出ないのはまだまだ自分にとって都合のよいように身をおくからだと思います。

二宮尊徳に「飯と汁と木綿着物は身を助く。その余はわれを責むるのみなり」があります。

覚悟というのは、自分の内面から出してくるものですから常に内省と学び直しが必要です。

持ち帰ったものをそのままにするのか、それを正しく活かし続けるのかはその覚悟の力です。
そしてそれが長く続けば続くほどに、そこに信の一念が積み重なっていくように思います。

まだ見ても観得ていないことがあり、聞いても聴いていないことがあります。ドイツのふり返りをさらに続けていますが、御蔭でまだ発見が掘り起こされてきます。師友との有難いご縁とその道中に心から感謝しています。

しっかりと、覚悟から観て実践から感じて子どものための本質を貫いていきたいと思います。

気づきの本質

気づきというものは他人から気づかされるものと、自分が気づくというものがある。

気づきというのは、主体性が必用で自発的に先に気づくことを本当の気づきと言います。簡単にいうと他人からいつも言われてから気づくのは、それは気づきではなく気づかされたのだから受動性や他発的ではないという意味です。

気づきという行為は、常に自分で行うことで決して他人からさせられるものではないのです。

何かこの気づきに対して刷り込みを持っている人が沢山いるように思うのです。

そういう私も、ただ闇雲に本を読んだりセミナーなどを聞くと同じようなことになった記憶があります。自分が気づかなくても、気づかされるのです。自己啓発などもその一種ですが、自己啓発とは他己啓発ではなくあくまでも自分己の力を用いて気づくことを言うのです。

会社などでもそうですが、やらされる、させられるとなるのは、問題意識が追い付いていないときにいうのです。それは本を読んで本に追いつかないと同じで、自分の気づきが先に行っていないとどんなものを気づいた気になってもそれは分かった気になるだけで本来の自分のものとしての本物の気づきになりません。

なぜ本物の気づきが長続きして色褪せることなく自分のものになるのかは、そこに自分が気づいたという主体性があるからです。あくまで気づかされたではなく、自分の力そのもので気づくからなのです。もっとわかりやすくいうと、自分が全てを誰にも依存せず自分のこととして丸ごとやっているからです。

私はそれを同時に気づくという言い方もしますが、自他共通自他共生一体であるとき気づきは智慧になり互いを活かすように思うのです。

大切なことは、気づかされたではなく、自分が気づいたとなっているかです。
そしてそれは必ず実践を伴っているということです。

それが自分が気づいたことが気づかされたで終わらないようにすぐに行動するということであり、実践こそが気づきの本質であるのです。

学びの本質、いや本質的な学びというものが何かは気づきの質のことをいうのだろうと私は思います。今後も、子どもたちが気づきの幸せ、学びの歓びを成長の糧にでき自立を楽しめるように自分からそのお手本を示していこうと思います。

母国語と言霊

先日のドイツ研修でも母国語教育についてとても熱心になっているのを聞きました。
確か以前、オランダやフランスでも母国語を正しく指導する教科が入っていました。

今、食べ物をはじめアメリカの文化が流入し日頃の言葉づかいや生活までがもともとあったものから変わってきているようです。先日のドイツでも、ドイツの伝統的な古き善きものを大切にするというものから新しくて便利なものが広がっているのを実感しました。

何が大切で変えてはいけないものか、そして何を変えるのか、そういうものがよく精査されたものもその国の母国語によって形成されていると私は思います。

特に日本語というものは、言霊というように「有難う」「勿体ない」「御蔭様」をはじめお天道様の前にとても謙虚に生きたものや、また日本古来より素直に生きた先祖たちが生きた生きざまを学びそこから今の自分たちの生き方を習っていたのです。

つまり、国語というものは単に読み書きをするものではなく本来は先祖から代々受け継がれた生き方や思想を習うものなのです。どのような文化を私たちは生きているのか、その文化をどのように活かしたか、そういうものを学びその国の人の骨格を得ていくように私は思います。

その国語を教えるということは、その国語が使えるということです。

つまりその国の歴史や思想、また正しい言葉を使えるような生き方をするからこそはじめて国語は教え導き学ぶことができるように思うのです。単に知識として得るものではなく、それは日本という国を愛し、そして学び、そのものの文化を尊び謙虚に生きるということがそういうものではないかと思います。

私には恩師がいて、その方は国語を教えていた方です。

その人の生き方に触れてみると、とても日本のことを愛し、日本という文化と歴史、そして世界のことに精通し、融通無碍に歩んでいらっしゃいます。こういう人から学ぶ国語の中にこそ、真の母国語があるのではないかと思うのです。どこで育ち、どこで生まれたかというのはとても大切なことで私たちが先祖から脈々と受け継がれて魂や心を母国語に感じます。

自分たちの使っている言葉、その母国の言霊を大切にしていきたいと思います。

 

 

理の実践

先日、ドイツ研修の帰国の際に隣の席に座っていた栃木の老夫婦と親しくなった。

その老夫婦は、毎年、この時期にヨーロッパへ旅をするとのことで道中のお話などをたくさん伺うことができました。奥様には、玄米食の話や健康の話、教育の話などをしたり、またどのような人生の歩みをしたかなど話をしてくださいました。

また旦那様は、元々技術職を遣り抜かれて海外指導なども出てご活躍だった生涯のお話をお聴きしながら本物と偽物ということについてのお話を深めることができました。如何に本物の商品を創っても廉価版が出たり偽物が流通するということについていろいろと教えてくださいました。

これには考えさせられる善い機会になりました。

本物と偽物の違いということについては、色々な観方があるように思います。成功事例などもそうですが、嘘がないことをどれだけ持っているか、それが真実かということにどれだけ精通したか、原則や法理に則って取り組まれたかというものがあります。

偽物はあまりそれ自体が考え抜かれておらず本物をなぞるようにしていて、しかもよくその理由もわかっていませんが見た目をあわせてきます。この本物を見極めるというものは、そこには磨き抜かれてシンプルになった答えが必ず存在しています。ここでのシンプルさというものは、理に適うものが誰にが見ても明確ということです。

私はそれを理の実践によって表現することにしています。

もちろん違いが表面では分かりずらいのですから商品がさも本物のように語ることで人々を集めることもできますがそれではどうせ長続きしないからすぐに分かります。本物は理に沿って長く続くし、そこには王道ともいえるものが存在しています。私たちが取り組むソフトなども、発達という法理に沿っているから普遍性があるのです。

そして法則や法理に照らしているものは自然なのだから本物だと感じるように、同じく自然であることが本物だと定義しているのです。何が不自然かというものは、自然から照らせばよく分かります。

それが私の言う、自然をお手本にするということです。

さて、今回の旅では他にも行きの飛行機内ではせっかくなので久しぶりに日頃話をしない話をしようとして充実した会話をクルーとでき、帰国の飛行機内では栃木の老夫婦以外にもドイツ人の11歳の子どもに日本語を2時間も教えたり日本のことを伝え語ったりといった出会いに恵まれました。

あれから2週間の滞在予定とあったので、あの子はどのような体験を日本でして帰国してその人生に影響を受け与えるのだろうかと思うと、誰にせよ運によってその人らしい未来が開けているのを実感します。

このように旅の不思議は余韻にもあります。

旅の妙味と五感の余韻に心は遊び、それをまだまだ楽しんでいます。

ご縁という人生~出会う人々~

先日、ドイツに訪問しふり返りをふり返った際に客観的に自分の人生というものを省みる機会がとれた。離れた場所に身を置くと、それまでの繫がりがはっきり観えてこれが自分の人生なのかと感じることができます。

同時にどれだけ異国の離れたところにいたとしても、自らの人生というものは自分と関係があるものによってできていると感じます。それは、離れたところからのお便りや写真、たとえ時差があったとしても時間や出来事を共有していたりと、つまり自分が何と今も繋がっているのかを省みることで自分の人生が分かるのです。

自分の人生とは、自分がどのような人たちと出会いご縁を結んでいるかのことです。

当然、ご縁が変われば人生も変わるのは自分の周りの人たちとのご縁が人生なのだからそのご縁次第では自分の人生も変化してしまうのです。それは男女でもそう、親子でもそう、師友でも出来事でもご縁によって導かれています。

そしてどのような人たちと道を共にするのか、どのような人たちとのご縁の中に自分を置くのかで自分の人生はさらに彩られていきます。そしてそのように生き方を連なり重ねる人たちによってそれぞれの人生はそれぞれに創られていくのです。

自分がどのような人たちと関わっているか、自分がどのような出来事と共にするか、自分がどのような生き方や働き方をするのか、それは自分がご縁を選んでいるともいえます。言い換えれば、自分の人生を選んでいるのです。

ただし、そのご縁がどのようなものになるのかは自分が選んで繋がり、自分で深め厚くし、それをさらにそれを広げ開いていく必要があると思います。

つまりこれらのご縁を活かすというものは、人生を活かすというものでそれは常に自分から求め得ていく必要があるように思います。もちろん、善い人に巡り合えば善い人生を伴にすることもでき、またそこにご縁を活かしたかどうかの自分が主体となる人生も存在しているのです。

柳生家の家訓に「小才は縁に出会って縁に気づかず 、中才は縁に気づいて縁を活かさず、 大才は袖 ふれ合う縁をも活かす」とあります。

縁があるから一緒にいるのですが、それが自分の人生だったとはみんな思わないことが多いように思います。誰といるかが大切なのは、それがご縁という名の人生そのものであるからです。

それなのに身近にいるのに、あまり深めない縁があるというのはとても勿体ないものです。
お互いの生き方から学び、それを人生に活かすのがご縁を大切にすることのように思います。

どのような人たちに出会った生涯にしていくか、そしてそのご縁を真に深めたか。それはお互いの思いやりや真心の繫がりでご縁は尊く結ばれていくように私には思えました。

このご縁の不思議に魅せられつつも、有難い人たちに恵まれている自分に感動した人生の毎日です。一期一会の人生をこれからも味わい、楽しみ、それを深めていきたいと思います。

 

自然に合い沿う

昨日、九州にある自然農の畑に友人と冬野菜の種まきと玉ねぎの移植を行いました。

種には蒔き時というものがあり、季節と天候を観ながらの判断なのでしょうが五感が覚えているのかいつも気候も恵まれ善いタイミングを得られます。種を蒔いて水をかけるという方法もありますが、ちょうど雨が降る前に蒔くと自然が手助けしてくださいます。

ちょうど種もそういう時期にあわせて自分たちが芽を出す時機を狙っているかのようです。春の雨と秋の雨は、新しく生まれていくいのちをいつも蔭ながら支えています。これもものの観方ですが、種は雨を観ながら雨に合わせてタイミングを計っているかのようです。

自然に合わせるということは、自然の営みの中にいることです。自分の思い通りに合わせようとしても自然とは合いません、なぜならすべてのいのちは自然に合わせて活動するからです。何に合わせるか、これを「自分に」になのか、「天地、自然」つまり法則や法理にあわせるのかで合っているかどうかを学ぶのです。

自然からや法則から学ぶのは、それが本来のいのちの自然体であるからです。

私たちが共生するのも力を合わせていけるのも、絶対的な自然である「一つ」のものにいのちを合わせるからであろうとも思います。自分たちの都合で自然に合わせなくてもいいとなれば、自然の手助けをいのちが効果的に得ることができなくなります。

種を蒔くのは自分なのか、種の手助けをするのは自分なのか、育てるや見守るというものは、自分たちが何かをすることよりも自然に合わせようとするのを少しだけ手助けすることしかできないように思います。

また田畑に出て静かに観察していると、私たち人間よりも植物や動物をはじめ自然にいるものはよく自然の在り様が観えています。そのものの在り様にあわせて、どのように育っていくのかを私たちが客観的に見守ることで自然を学ぶのです。

自然から学ぶのは、どのように自然が学んでいるかを学ぶともいいます。
本来、どのようにしているのか、そこに学び方、教え方、育て方、育ち方があるからです。
これがいのちの学び方です、つまり発達の学び方というものです。

保育や教育というものの原点も、元来、創始から私たち人間はずっと自然に学びました。
幼児期の大切さもこの種からはじめることでさらに実感します。

まもなく辿り着きますがこの仕組みを可視化し、社業に活かしていきたいと思います。

シンプル

思想に遊び、本質でいるために刷り込みを取り除くのはシンプルを目指すからです。

シンプルというものは、全てのものがそぎ落とされ必要であるものだけに絞り込まれるともいいます。つまりは真善美そのままがそのままに顕われたともいえます。言葉では表現しにくいものですが、大変複雑なものを一つのカタチで表したり、一つの言葉で伝えたり、一つの道具で観得るようにしたりとも言うものです。

東洋西洋の垣根もなく、本質やシンプルさというものは人間が自然そのものになったというものに如何に近づけていくかということであるのです。特に今の時代のように複雑に生きている時代は、何が生きる事かということも忘れてしまっているものです。

もちろん山中で仙人のように暮らすのではないのだから、何が本質的に生きるのかということも考え抜かなければ自らの本質に近づくことはできません。周囲から分かりづらいと言われるのはそれだけ世の中がシンプルではないからでもあろうと思います。

何をしようとしているのかというのを、何のためにかを透徹するまで深め磨けばやっている実践はシンプルであることを証明するのですが周りにはそれが観えないだけであるのです。言葉も行動も思想も全部はシンプルであることが本質であるという証拠なのです。

アップルの創業者であるスティーブジョブスもシンプルに徹底してこだわった人のようで著書「Think Simple」に下記のような語録が残っています。

「シンプルであることは、複雑であることよりもむずかしい。物事をシンプルにするためには、懸命に努力して思考を明瞭にしなければならないからだ。だが、それだけの価値はある。なぜなら、ひとたびそこに到達できれば山をも動かせるからだ」

心を打つ言葉やカタチや行動には普遍性があります、それはその人が探求し已まない情熱で究めた真実が存在しているからです。そしてここでの到達するという場所そのものが本質のことです。

子ども達のためにももっと気づきに気づき掘り下げてそこから引き揚げ、本来の真理が観えるところをカタチまでへと昇華しかんながらの今へと辿り着きたいと思います。

そして世の中をシンプルに、商品をシンプルに、自分をシンプルに同時に一変していきたいと思います。

心が遊ぶ

ドイツから持ち帰った気づきの御土産に時めく写真の装飾というものがありました。

これは子ども達に限らず私たちが心が楽しい感じた体験を思い出しやすくしていくものです。一般的には記憶というものは、心が覚えているもので頭で暗記しているものとは異なります。頭で覚えているあれこれという事象よりも心は鮮明にその時の感覚を五感で記憶しています。

そしてこの心というものは、時間も超え場所も超え、垣根も超えて様々なところに行き来することができます。単に名前や記録しておくものと、感動したままに覚えておくものとは人は無意識に使い分けているのです。

以前、子ども心のことをブログでまとめましたがその一つの心に遊び心というものがあったと思います。

しかしこれは遊び心ではなく、「心が遊ぶ」という意味で私は定義しているのです。

つまり心が遊んでいるというものこそが私の言う時めきの本質であるのです。心はいつでも遊んでいますがその遊んでいる心が何を観ているか、何を感じたか、そういうものこそが生きていく上で積み重ねた無二の価値になっていくのです。

いのちも魂もそれを望んでいるように思います。だからこそ時を超えて心が遊んでいる瞬間をどれだけ多く身のまわりに在るかが大切なのです。

先日、ドイツで私が観た写真は子ども心が顕われていました。ひょっとしたらその写真撮影の瞬間に私の心が自由に遊んでいたからかもしれませんが、その遊び心そのものを持ち帰ったのです。

いつまでも自然や身の回りに関心を持ち続けるのも、心が遊ぶからですし心はいつも丸ごとで感じます。もちろんその時その時に心は何を捉えるのかは心が澄んでいなければわかりませんがそのように心が遊んだ瞬間を捉える感性はそれを持つ人によっていつの時代も世の中に顕われてくるとも言えるのです。

思い返せば、生きた記憶というものは心が遊んだものばかりです。

本来、子どもも心もとても自由な存在なのです。
未来は心のトキメキと共に顕われます。

大切なものは大切なままにそのままの心が遊んだ奇跡で歩みを時めいていたいと思います。

発見とブランディング

ものの観方というのは、その時の問題意識次第でどうにでも発見していくことができます。

どれだけたくさんの問題意識を持っているかで、一つのことを見ても一つだけを観ていないといこともできるのです。

例えば、先日のドイツ視察でも同じ施設見学をしますが自分がどのような問題意識を持つのかで観ているものは全く異なります。もちろん見る人でも違いますが、それだけではなく観る人の問題意識の量や質で無限に観え方は持てるのです。

つまり自分が日頃からどのような問いを持ち続けているかで発見していくものは異なるのです。だからこそ、その問いを持つ人たちとの同行での発見がすぐに互いの智慧になっていくように思います。

また同時に、自分自身がどれだけの問題意識と危機感があるかで情報の質量は変わってきます。本気で悩んでいればいるほど、上質な情報が入手できますし、心懸けがどのようになっているかでその観得るものも善くなるのです。

先日、ドイツ視察ではたくさんの発見があり持ち帰りましたが、自然のめぐりのこと、ふり返り響くこと、リアルというものの実験を含めて、せっかくドイツにまでいくのだからと五感を澄ませていたら発見ばかりがあった旅でした。

これも日頃の本気の問題意識が自分を助けてくださっているのだと思います。
如何に本気で実現させようと思っているか、危機感があるかで、心はいつも自分を助けます。

つまり発見があるというのは、そもそもそういうものを探しているということです。
自分が何を探しているのか、何を探そうとするのか、それが「問い」です。

問いがあるというのは、本来ないものを探しているのではなくあると信じているのです。
この差に発見発掘の本質があるのです。

先日のドイツ視察では、大変人気がある施設を視察することができました。

その施設の特徴は、ものや配置が雑然としておらず統一感と調和があり、配置も含めてとてもこだわりが明確に顕現されているように感じました。そこでは、リストを現場から集めてそれを運営メンバーで長期的に合致するものを探し出し配置しているとのことでした。

行き当たりばったりで物を揃えるのではなく、正しい順序、何のためか、どうすれば全体のビジョンやデザインに適うものができるかと、部分最適ではなく全体最適のために取り組むのです。

シンプルさというものは、長い時間をかけて余計なものをそぎ落としてできるものです。
そしてそれは、本物に近づけるという言い方もします。

どこに本物があるのかを発見するという旅路は、一生をかけて行っていくものです。
改善というものの本質は、シンプルにすることと同義であるのでしょう。

一緒に進めていく仲間がいることで、智慧も創意も工夫が生まれていくように思います。
問題意識を共に持ち合う人がいることが、道の友かもしれません。
有難いことです。

これからリブランディングについて本格的な取り組みがはじまります。

 

克己心

人は相手に要望することは、その問題が自分の中に存在することがほとんどです。

こうしてほしいとか、ああしてほしいとか、自己中心的になる時は何かの囚われの中にいるともいえます。 自分が望んでいるように周囲をしようとするのは、自分自身の中の何かが自分を変えることを拒んでいるとも言えるのです。

自分というものを理解するというのは、何よりも難しいからこそ他人の意見を素直に聴き容れそれを実際の現実に照らして観る必要があるのです。

知らないうちに囚われていくのだから、身近にアドバイスしてくださる方がどれくらいいるか、また自分からそれを確認することを怠らないかということが大切なことであろうと思うのです。

例えば、チームという概念があります。

チームには、情報共有というものがあり、御互いに知っておきたいと思う情報がたくさんあります。しかし、それが円滑にいくかどうかは自分自身の意識の壁を取り除けるかどうかというものがあるのです。

みんな相手に求めることを優先しますが、本来は自分がどう思っているかはチェックしようとはしないものです。何かを誰かと行う際も、自他を分けてこれは自分の仕事、あれはあの人の仕事と割り切ってやっていると協力していくことはできません。

全ての仕事は一緒にやっているのだという意識、自分側に一緒に取り組んでいるという気持ちがどうなっているのかをチェックしていくことが協力しようとしているかに関わるのです。なぜなら、相手に合させようと皆が考えるよりも自分から合わせていこうとする方が本質的な協力関係を築き上げることができるからです。

どうしても、人は楽をしてしまい自分の方を変えるよりも相手に変わってもらおうと要求してしまいます。それは、こうでなければならないはずという思い込みであったり、こうあるべきだという自分の価値観の囚われだったりするのです。

大切なことは、自分から一緒にやることになっているかという自分の意識のチェックを相手に矢印を向ける前に行うことができているかを常に自問することのように思います。自分を正していくということが、一番難しいのが人間のように思います。

私自身も焦ってしまい、何のためにかという本質を見失うと迷うこともありますが、自らに省みて克己心を磨いていこうと思います。