分かろうとすること

分かろうとするということはどういうことかというのを深めてみます。

この分かろうとするのは、頭で自他を分けて行うことを分かろうとすることではありません。それでは分かった気になるからです。分かった気になるというのは、相手を見ていて相手はきっとこうなんだろうと相手のことを安易に認識することをいいます。

本来の分かったとは何か。

それは同体験をしながら共感していることを言います。相手の苦しみを分かった気にならないのは、相手と同じところで共感できるからでそれは同時に実体験している最中でなければそれは得ることはできません。例えば苦しいと感じている人を共感するには自分も苦しいと思っていないとできないのです。

自分だけが苦しくなく、何も感じていないのに相手の苦しみを共感することはできずその思いも体験も分かち合うことができなことを分からないというのです。

この分かるというのは、分かち合うことができます。

分かち合うというのは、同時に同体験をしている最中にお互いの心が通じ合う、同じ心を通わせていることをいうのです。どれだけ真剣に生きているかが困っている人たちを救うのは、その人が苦しみの最中にいることから逃げず、それを転じて善いことにし続ける実践こそがその人を励ますからでそれが私のいうコンサルタントであること、その在り方であると定義しています。

どんなことにせよ誰かを導くという仕事は真剣に苦と正対し、それが必ず同じ境遇の人たちのためになる、自分の生が必ず社会の御役に立つと信じているからできることのように思うのです。

自分自身がそれを決めて歩むことがコンサルタントをしているということになるのだと思います。いくら経験を多少積んで、ある程度知って分かったとしてもそれは分かったということではなく分かった気になったよと思えばいいと思います。

同時でいるのは、挑戦の連続ですが同時でいられるということは相手のことを思いやれる強さ優しさを持てる自分で在るということに他ならないとも思うのです。分かろうとするのは、自分の生を強く逞しく生きて自問自答を続けていくことのようにも思います。

つまり同体験をもっと深く掘り下げて引き出してそれを味わい尽くしていく、人生の醍醐味をあるがままに感じ今を究め尽くすことをいうのだと思います。シンプルにいえば、素直に真心で生きることが分かろうとすることであろうと思います。

一生懸命に自分を生き切ることが世の中の御役に立つことを実践から示していこうと思います。子ども達にも、周りをみて自分を決めるのではなく自分のことは自分で決めるように在り方そのもので共感していきたいと思います。