今を探し求める

古き善きものの理解ということで、温故知新がありますがこれをドイツではロマンティックであると定義していました。

今の日本では明治維新後から、新しいものが良いものであるという価値観が一般的に横行しています。今でも新商品となればすぐに飛びつき、さもそれが目新しければ取りいれるという考え方に溢れているように思います。

どのTVCMも派手なものや珍しいものばかりを取り上げようとしているのもそういう大衆の方が多いということを意味しています。そしてその反対に古いものは価値がないとさえ思われ、もともと先祖たちが遺してきた様々な美意識も今では衰退して陰りをみせています。

私は自然農をはじめ、自然から学びだしてから何が最先端なのかの価値観が逆転しました。

昔は見向きもしなかった道具であったり、家づくりであったり、様々な民芸品、その全てが大変な自然の観察から練り上げたものであるのを実感するからです。なぜ何百年も残っているのか、なぜ今でもそれが本物である輝きを秘めているのかはそれが自然の法則にそって創造されたものであるからです。

本物というのはいつの時代も、余計なものがそぎ落とされ究め尽くした頂点であるからです。

そこからいろいろなものを足していく方が良いはずだという価値観というものは、例えば円い玉に派手な飾りものをしてさも宝石のように見せるかに似ていて宝石そのものではない価値で無理にそれを良く見せるのに似ています。

付加価値というのは大切ですが、本来の価値が観えるというのはもっと大切であると私は思うのです。いつの時代もなぜ本質的な価値を遺しておく必要があるかといえば、それが時代時代にあわせて参考になるからです。

どんな時代も、どこに合わせて修正するのか、どこを視て少しだけ改善するのか、その元となるものを引き継ぐことこそ先祖の遺訓を守ることのように思うのです。

大切なのは新しいか古いかではなく、本物の善きものとは何かという審美眼、言い換えれば真善美が正しく行われることだろうと私には思えるのです。それがどの国の歴史であっても必ずそれを求めて生きた証として様々なものを受け継いでいくことが今を正しく実現することのように思うからです。

真善美というものを理解するには、古きを温め、新しきを知るという両面から錬磨育成していかなければならないと私は思います。一見、矛盾している中にこそその本質を捉える自分の感性が響いてきます。

私の今、もっとも探し求めているものはこの「今」なのだろうと感じます。

さらに直観を高めて、子ども達に遺せるもののを自然から創意工夫し発明していこうと思います。