協働のはたらき(チームワーク)

人間の持つ一人の力は大したことはないものです。
しかし一人一人の持つ力は偉大なものです。

人は自分くらいと自分のことを過小評価しているものです。自分のつながりや絆を感じないときは、糸が結ばれているという感覚よりも単体で生きているような錯覚をするものです。

宇宙をはじめ自然界は連綿と続いている糸が複雑怪奇に絡み合って存在しています。何度も何度も日々を繰り返し、ご縁を重ねることで次第に鎖が強く結びつくように絆も強固になっていきます。

自然界というのは、一つが滅びればすべてが滅ぶというようにあらゆるものは有機的に折り重なっているものです。例えば、山や木々の土壌が気枯れによって植物などが喪失したならば、川が消え、川が消えればその水が海に流れ着くこともなく、竟には海の生きものがすべていなくなってしまうのです。

このように循環というのは、万物が繋がって存在することの証明でありそれが完全に共に活かし合うからこそ万物が機能するのです。

人間も等しく、自分の存在が周囲の力になっているものです。自分ひとりくらいと思って自分の世界で閉じこもっていても先祖代々から今にいたるまで、また今から子々孫々まで、そしてその時代の仲間や友、関わる方々に大きな影響を与えているのです。

無理と無駄がない世界が自然ですが、それが何をもってそういうかといえばそれぞれが真摯に努力して生きている世界のことです。

西洋では労働という言葉の定義がかつての日本とは異なったようです。日本では働くというのは神様と一体の「はたらき」のことであり、西洋では作業のように捉えているようです。もちろん全ての人がそうとは言いませんが、業務や作業で切り分けて仕事を割り振るやり方をやってきたのだからそうなってしまうのです。

本来は宗教だの仕事だの生活だのと、自然を分解しそれを人間の都合で分けたところからズレてきたのかもしれません。自然は一切分かれることなく、万物は一体で仕事も生活もすべては生き活かされているということの実感であり、働けば働くほどに誰かの御役に立っていることを実感する素晴らしい「はたらき」を知ることになるのです。

共に生きることで人は安心するものです。そして共に生きようとすることで共に生きる者たちの勇気になりその共に生きるものたちとつながっていくのです。

発展というものは、そういう自然造化の法に従って、繁栄していくということをいうのでしょう。それを呼び込むのは、無駄がないということです。自然には一切の無駄がないからですが、これは私たちはどう考えればいいかといえば「一切を無駄にしない」ということです。

つまりは大切な「いのち」を無駄にしなかったからこそ、祖神達は一生懸命に与えられた自分の「いのち」を生き切ってきたのです。自分を生き切りは自分らしくあるがままを貫いたのです。

そしてせっかくいただいたこの「いのち」を誰かのために使い切ろう、周囲の皆様のために生かし切ろうと自他を大切に活かしてきたのです。

活かされているからこそ活かしたいと願う中にこそ、協働の「はたらき」が活きています。皆で一生懸命に真摯に遣り切ることが真のチームワーク(協働のはたらき)を産み出すのでしょう。

クルーの御蔭でまた新境地に出会いました、感謝と共に自然循環を楽しみたいと思います。

生命の価値のまま

人間は他を認めるということで共生するということを本能で自覚している生きものです。

自然界では、他を排斥するのではなく他の存在を認めることからそのものが自分とどのように関連するのか、そして繋がっているのかを確認しています。

例えば、植物から虫、動物にいたるまで自分との関係がどうなっているのかを自然に悟り自明するのです。あるものは食べ、あるものは食べられと交互に役割を交代しながらもそれぞれのいのちを全うしていくのです。

自然の中に生きているときは、文字通り生き残ることに必死ですから自ずからそれぞれが活きることを行えるのです。生きるというのは、活かされるということですから自然はその循環の中に住んでいるのです。

しかし人間は、今のように生きることが保障された中にいると本来の循環を忘れてしまうものです。何をもって認められているのかなども、分からなくなってしまうのかもしれません。競争して一番になることが認められると思っていたり、頑張ってさえいれば認められると思い込んで無理をしている人が増えたようにも思います。

本来の認めるというのは、その人の存在価値のことを言うように思います。

何かをしなければ認められるという意味ではなく、その人の存在そのものに価値があるという考え方です。これは、人が活かし合っている、一人では生きてはいない、一緒に生きているということを直観するからこそそう感じることができるのではないかと私は思います。

今の世の中は、如何に利用価値があるか使用価値があるかで物事を判断していきます。それは物であっても、他人であっても、ビジネスであるからと割り切って付き合っています。しかし短期的に見ればそうかもしれませんが、長期的に観ればそれは複雑怪奇に繋がっているご縁の中で生き活かされた共生の中の仲間ということになるのです。

広く大きな目線で物事を見つめれば、存在そのものの価値の偉大さに気づけます。

自分が活きるのも、誰かを活かすのもどうしているのか、それは自然に活かされているのです。何かをしなくても活かされる、無為自然なのです。自然の中に生き活かされている私たちはいくら都市の中で人間社会を切り取っても、地球の中であり宇宙の一部であることに他ならないのです。

点が線になり面になって形になるように、また人生も同じくそういう連綿としたご縁の糸でつながっています。存在価値に気づけるように、刷り込みを取り除き、人を活かし自分を活かし、生命の価値のままにを全うしていきたいと思います。

寿命を伸ばす

私達の祖先たちは「いのち」というものをどう捉えていたのは、かつての生き方や暮らしに遺されています。

そもそも私達日本人の心にある「いのち」というのは、使い捨てるものではなく遣い切るものという発想が原点にあったからこそ「もったいない」という考え方があるのです。

例えば、宮大工が使う式年遷宮や神社仏閣で使われる木材一つ、それはあらゆるところで再利用されています。今の住宅のように全てを破壊して廃棄するのではなく、昔の人は解体をして再利用します。他にも土壁一つであっても、それが崩れてまた補修し、補修が済めばまた土に戻して粘土にしまた他の土壁として甦生するのです。古人は「いのち」が観えたのでその智慧をもっていのちそのものを最期まで大切に遣い切ろうと工夫したのです。

今の時代は、何でも使い捨てようとします。

そのものの価値よりもその道具を単なる利用価値のある「モノ」として理解しているから使えなくなればいらないという発想です。しかし本来は、その道具は「いのち」としての存在価値で理解しているのだから最期まで大切に活かそうという発想が私たちの本質だったのです。

今の時代のように何でも目に見えるものしか信じないようにと「モノ」の価値に置き換えられてしまうと、目には観得ないものはこの世にはないものだと盲信させられていますがそれでは自分たちは一体何でできているのかということになるのです。モノではないのはすぐに分かります、そこに心があるからです。

自分を粗末にする人が増えるのは、いのちを粗末にしている環境の中に住まうからのようにも思います。それが孤独や孤立、心を閉ざすような関係を拡げてしまっているようにも思います。社會の仕組みとして大量にモノを粗末にしだせば、そのうち自分たちのことも粗末にしだすものです。

本来の循環型社會とは何か、それはいのちを粗末にしない社會のことなのです。

昔は、どんなものでもいのちがあるからこそ捨てようとはしませんでした。

江戸の300年の暮らしは、寿命を伸ばす仕組みだったのです。無駄というものをなくしていこうとするのは、決してそれが単に合理的だったからではなく、いのちを少しでも伸ばしたい、平和を少しでも永続させていきたいという時代の人々の心の願いだったのです。

戦国時代に、沢山の人達が死に、そしてそのことから少しでも長く平和を維持していこう、いのちを大切に皆で寿命を伸ばそう、つまりは「いのちを粗末にしない実践」を行ったのです。

寿命とは、いのちのことです。

大切にされることで寿命は伸びます、粗末にすれば寿命は短くなります。都市であってもそれは単に都市ではなく、先祖たちはその都市ですらモノではなくいのちだとしその寿命を伸ばす工夫をしたのでしょう。日本人の素晴らしさというのは、八百万の神々の思想があるようにすべてのものをいのちある神様の化身としていのちを見出したところにあるように思います。

そしてそれは家という発想の中にも、家訓があるように家をいのちだと捉えているから老舗や家が永続するのでしょう。そこにはどんないのちも粗末にしないという共通の理念が存在しているように私には実感します。

だからこそ家といういのちを伸ばすのもまた、その家に住まうものたちの心掛けと心構えがあってのことなのです。少しでも永続させたいのならば、いのちを大切に寿命を伸ばすことに意識を重ねていかねければなりません。せっかくこの世の楽園に産まれてきたのだからこそ、少しでも長くこの世に止まりたいと思うのがいのちの開花のように思います。

子どもたちのことを思えば思うほどに、いのちを大切にすることを実践で示したいと感じます。
身近なところからの生活を一つずつ見直していきたいと思います。

活かし合う人間社會

先日から江戸時代の生活を色々と調べていく中で、共通するものを感じました。

江戸はその時代はじめて世界で100万人以上が住んでいた都市です。その50パーセントは武家などの大名の家臣たちで、残り30パーセントが神社仏閣、そして残り20パーセントが町人や商人というような構成で成り立っていたそうです。

一年で特に正月から3か月で一日平均3回の火事に遭い、大火で全部消失することもあったのですら、長屋などもあまり豪華につくらず家具も持たないということで狭いところに簡単な作りの住居で生活したようです。

また親は子どものみんなの親、子どももみんなの子どもとして見守りあい、お年寄りや病人の介護も長屋や周囲の町の人達で交代で見守り、近所も家族同然にほとんどガラス張りの協働生活の中で助け合い、認め合い、分かち合い、義理や人情を優先して暮らしていたそうです。

人が他人を信頼するという仕組みを都市そのものが持っていたように思います。都市の中での善い暮らしがどういうものか、そういうものを究めていくと江戸のような文化が発展するのかもしれません。

そもそも都市とは何かといえば、人間が人間同士で創ろうとする理想の社會のことであろうと思います。自然の中にいけば、自然の中の社會ですから人間と自然の共生である天道地理の里山であったりします。

しかし人間が意図的に創造した家という社会の中では、人間同士の理想、そこに人間の調和がありますから義理人情の都市があります。

今の東京のように個々人が個別にお金を持ち個を尊重という名目で他人に干渉せずにバラバラに生活するのではなく、江戸では常にみんなの都市であることを尊重し個が義理と人情というつながりを優先し生活したのが分かります。

これには、自然観の中にある無駄なものは一切ないのだという思想から練り上がった社會だったからのように思います。西洋では、なければ侵略すればいいという発想があります。狩猟民族というのは、場所を変えては資源を探し求めて移動していく遊牧の民です。しかし農耕民族というのは場所から移動できませんから、その場所で如何に無駄のない生活をするかの智慧と工夫で様々な困難を乗り越えてきました。

私達の先祖は、自然と一体になって今いるところをフル活用して一切の無駄を生じない暮らしを目指してきたのです。そこにはお互いに人間同士においても全てを活かし、つながりを切らないように工夫して何かの時には常に助け合ったのです。

このために必要でいらないなら捨てるというゴミを出すという発想ではなく、何時か必要かもしれないから大事にする、そして修繕してより使いこもうとする「勿体ない」という発想だったのです。

少しでも長く都市を活かそうとしたならば、300年以上続いた江戸の文化や文明はとても参考になるように思います。人間は傲慢になってきて豊かになるとすぐに無駄なことばかりをしたくなります。しかしこの無駄というものを避ける中にこそ真の豊かさ、そして平和が潜んでいるように思います。

今の価値観の中に蔓延る「使い捨て」という考え方をやめなければ無駄はなくならないのかもしれません。

利潤を高めるというのは、如何に無駄のない生活をするか、言い換えれば全てを活かすかということなのでしょう。活かされている自分だからこそ活かそうとすることが謙虚のはじまりなのかもしれません。いのちは多いだけがいいのではなく、そのいのちの質が同時に高いことこそに価値があるのです。

今一度、家という考え方において会社という組織を見直していきたいと思います。

心の感覚~直毘感の世界~

先日、祖母が亡くなり通夜の席で臨終のお話を叔母からお聴きしました。

祖母は最期は病院でしたので、呼吸器をつけてもらっていたので声が出せなかったようです。しかし、御縁のある沢山の方々や親族が駆けつけ声をかけると笑顔を浮かべていたようです。その笑顔で万感の言葉を発していたと、口々に語ってくださるのを聴いていると、改めて人と人のつながりの愛を感じました。

古来から人間が死ぬとき、最期まで残る感覚が聴覚であると言われます。最近の脳科学の研究でも脳波を計れば最後まで聴覚が反応することが分かってきているようです。

五感の中で最初に感覚が薄れるのが触覚、その後は視覚、そして味覚嗅覚、そして聴覚と言われます。本来は力が抜けていく中で、もっとも原始的な器官が残るのかもしれません。

しかし耳で声を聴き、それが心に届くというのはそれが対話をするということであるのは間違いありません。

人は耳を使って心を通じ合っていくように思います。話を聴くというのは、心を聴くということです。心を聴くには相手の声を受け止め、そして認め、聴き届けたよという合図があるのです。

言葉は言霊と呼ばれるように心に通じているから心に届くのです。

そう考えてみたら、耳が最期まで残るのではなく「心が残る」と祖母の生き方によって改めて教えられました。

人は人の真心をどんな状況になっても受け止めることができるのです。だからこそ、どんな時でも真心で行動すること真心で実践していくことが愛を通わせることのように思います。

現代の人は頭でっかちになりすぎて頭で考え過ぎる癖を持ってしまい何でも目に見える世界の感覚に置き換えすぎて、本来の五感が分からなくなってきています。しかし本来の六感とは「真心の世界の感覚」なのです。日々に直観を感じるというのは、真心で生きる時にこそはじめて互いに理解できる感覚なのかもしれません。

これを私自身は「直毘感」だと定義しています。

祖母は、あまり口数が多い方ではありませんでしたが美しく優しい瞳を持ち、忍耐強く思いやりのある方でした。大切に箪笥にしまい守ってくださったアルバムに祖母の素朴で純粋な人柄の余韻に今も触れています。

祖母や祖父たちはみんな他界してしまいましたが、いただいた真心、いただいたご縁は大切に御恩返しと自らの使命に活かしていきたいと思います。

 

現実

価値観を受け止めるというのは、現実を受け容れるということに似ています。

世界は知らずしらずに自分の観念で歪んで見えているもので、ありのままにあるがままに捉えるといことは大変難しいように思います。それは受け容れられない現実が沢山あるのと似ていて、それは人によってそれぞれに異なります。

突然考えもしなかったことが発生したりすれば、それを受け容れるのに時間がかかるものです。その時その時には如何に現実をありのままに受け容れることができるかで価値観は柔軟になっていきます。

自分の思い通りということを繰り返していると、現実逃避してしまうことがあります。希望が強ければ強いほどに、期待が強ければ強いほどに現実が受け容れられずそこを見ないようにと勉めてしまうのです。客観的に見ても受け容れなければそれもまた現実逃避になってしまいます。

好悪感情と向き合い、自分にとって見たくない現実をそのままに観るというのは現実というものを正しく認識するということになります。その時こそ、自己認識を変化させていくキッカケになります。

例えば、若い時は自分の実力を過大評価しますからこんなはずはない、自分はできるはずだと思いたいがゆえにどうしても背伸びして現実から避けてしまうことがあります。しかし実際の自分がどのくらいの力があるのかが分からなければ何の努力が必要なのかが分からなくなるのです。

これは不安や自信のなさからも現実が離れてしまいますが、現実を知るところができるなら自ずから実力を磨いていくことができるのです。どうしようもない現実に出会ったとき、人ははじめて強くなります。その現実をありのままに受け容れて、自分というものを知ることが自分を変化させていくということなのかもしれません。

自分の価値をどれだけ正直に理解するか、それが素直ということなのかもしれません。認めることも受け止めることも受け容れることも、謙虚でなければできないことです。現実はいつも助けてくださっている周りの見守りを実感できるものですから現実を知るのは自分の傲慢を知るということかもしれません。

現実の有難さ勿体なさに気づいて日々を感謝で歩ませていただきたいと思います。

価値観~新しい人生の発見~

人は自分の見たいように見て聞きたいように聞いていることがほとんどです。それは自分の価値観の中で世界を作っているからです。そしてそのほとんどは、自分にとって都合が良いようへと解釈しています。

この価値観というもののとらわれが少ない人ほど、物事があるがままに正直に観え、この価値観のとらわれが強ければ強いほど物事は歪んで見えてしまうものです。

よく自分を変えるということを考える時、まさか自分の価値観の方を正そうとはなかなかしないものです。見てる世界観の中で、何かを変えようとはしてもそもそもの見てる世界観の方を変えてしまわないととはならないからです。

それはなぜかといえば、自分にとって都合が悪いことばかりだからです。人は自分に都合が良いことばかりに引き寄せてしまいます、例えば自分を正当化しておかないと不安だったり辛かったり苦しいと感じるからです。物事が発生するとき、自分が正しくて周りが間違っているという解釈を続けるうちにより真実が捻じ曲げられていくからです。

いくら悟ったと智を語っても、すぐにブレルのも、いくら何も考えていないと愚を貫いてもすぐに巻き込まれるのもどれも自分の価値観に執着してしまうからであるように思います。

自分の変化を思う時、如何に自分の価値観を柔軟にしていくか、思い込みを取り除くかということが肝要ではないかと思います。つまりは自分の方の価値観を見つめ、周りの人たちの価値観を認めるということです。

真理を学べば、正しいと思うことは分かります。知識が増えれば統計である程度の正しいことは理解できます。しかしだからといってそれで誰かを批判したり否定したり、もしくは受け止めないとなってしまえば自分の価値観が頑なになっていくだけです。

だからこそ正しいというのは、正直で居ること、素直で在ることというようにあるがままのことをあるがままに受け止めて執らわれないことをいうのではないかと思います。

色々な人たちがいて色々な考え方がある、自分の価値観ばかりに固執せずにそれを受け容れてみる勇気が大切なものを優先して守りたいという真心になるように思います。人は皆、自分の気づかないところを教えてくださる存在だと思います。

自分も相手も正しいという心は、正直でいる執らわれない実践を行うことです。自分の中で勝手に解釈して歪んだことをしないように戒め、自分の価値観を柔軟に変化させていくことで心を広く体もゆったりとし、執着よりも正直であることを大切にしていきたいと思います。

価値観を変えるのは、新しい人生の発見ですから楽しんでいきたいと思います。

発想の転換

先日、発想の転換について思うことがありました。

組織人事のことに携っていると、発想がマジメであるということよりも真剣かどうかということを優先しているかというのはよく考えるものです。

この真面目という考え方については以前、ブログでも書きましたが今回は単に他人からの評価を気にしてやっているのをマジメとし、真剣に遣ることを真面目と書いてみます。

人は何かを行う時に、努力すれば物事は解決すると刷り込まれています。その努力の定義は世間と比較してこれくらいドリョクすればとか、何かと比べてこれくらいドリョクするのだからというように他を意識しながらドリョクする癖を刷り込まれてしまいます。

するとこれだけドリョクしているのにとか、ドリョクしているのだからと努力というものを勘違いしたままのドリョクでは物事が解決していかないのです。本来の努力は、他と比較するものではなく達成するための本気の努力であり、自分に打ち克つ努力のことです。

そういう努力の場合は、今までの自分の発想を転じて新たな努力の境地を見出すことが必要になります。例えば、今までのドリョクの場合は「頑張る」という発想でしたが、これからの努力の場合「楽しむ」というような転換という具合にです。

そしてこれは先述しているマジメというものでも同じです。マジメにやっているよりも、真剣に行うとなれば発想が同じく頑張ればいいではなく、楽しめばいいと変換するのです。楽しむというのは簡単ではありません、周りからみれば大変不真面目なことをしているようにも見えますし、あんな不真面目で遊んでいたら上手くいくはずがないと批判の対象になったりします。

そういうものにいちいち負けてしまっていたら自分との勝負に打ち克つ前に、勝負がついてしまっているからです。人の目を気にして一々取り組んでいたらマジメそうにみえても大変不真面目なことをやっている場合があるのです。

真実はどうかといえば、本人は真剣なのだから周りの評価など気にせずにせっかくやるのだから周りには可笑しなことをしているようでも不真面目に見られてもむしろ楽しみながら遊びながら構わずやろうという発想を転換すればいいのです。

発想の転換とは、本質を維持することに似ています。本質を変えて自分を守るか、本質を守るために自分を変えるかということです。

本来の本質や理念を大切にしようとすれば、周囲の目や自分の中の執着にとらわれなくなるのです。そういうものを気にするところに我が入り込み、本来の努力や本来の真面目であることを遠ざけて対面体裁のドリョクやマジメに陥るように思います。人間には、恐怖心がありますから他人の評価というものはどこまでいっても怖いのです。しかしその恐怖よりも大切なものがあると信じる時、勇気を出して変わっていけるように思います。

自分自身が変わるというのは、自分の発想の方をゴロンと転がし換えてしまうようなものです。今までの自分から新しい自分になるというのは、発想の転換です。

今の時代はマジメにやって正直者がバカを見るとか愚痴ばかりの世の中です。そうではなく、正直者は心もオープンで素直ですから言い換えれば周りから見られることを気にしない程バカになれるのですから決してバカを見ることはないのです。それはバカがないからです、執らわれていないからです。

せっかく世界でたった一人の自分らしいものを与えてくださっているのですから、自分の御役目を有難く感じ、もっと信じた方を優先する真の強さを子どもたちに見せられるように楽しんでいきたいと思います。

どんなことが起きていても丸ごと善いことにしていこうとするのが本来の自然の発想なのかもしれません。自分都合の発想を転じて自然の発想に転じることを楽しんでいきたいと思います。