自然の心

昨日、かねてより理念を共にするお客様と改めて初心についての確認を行いました。本来の開園の目的やその意味、また理由や内容を一つ一つ解いて結び直していると私自身がなぜここに御縁があり、永く一緒に取り組んできたのかも自明しました。

ここは仏教を信じる保育園で、その理念の根幹には仏陀の教えに沿っています。また具体的な実践として、自灯明法灯明によって仏性を内省により発明し、その仏性の思いやりによって平和な心を育てていこうという願いがあります。

もう私たちの実践する生き方の一つである「一円対話」をはじめ、他の仕組みも導入し、一緒に同じ方向で取り組んで9年目になります。9年間、何をやってきたのかに思いを馳せるとき、そこに仏陀の偉大な見守りや恩恵を感じました。

私たちの一円対話では、隣の人の善いところを観てそれを賞讃するというものがあります。その一円対話を進行する「聴福人」たるもの、常に善いところを観てその人の善いところを信じる生き方を実践していることが肝要になります。それは常に人の中には真心があり、その真心の気づきを聴いてその真心の声から御互いに学び、御互いを思いやり大切に敬っていくという心得があります。

そのための心がけとして自戒すべきは何よりも「人を見下さない」ということです。自分を特別視する人は他人を見下してしまいます。何でも分かったとなって自分が真理を知ったかと勘違いしているうちに自分の特別視が強くなるものです。そういう自他を分けて考えたところに思いやりや真心はなく、自他一体のところに有り難さも感謝も存在するように思います。

本来、どんな人でもその人の中には必ず魂や心があります。そしてその人間の本性に善悪はなく、そこにあるのは自然そのものです。自然に善悪はなく、自然はそのままで美しく素晴らしいものです。その美点、その美化したものを人が観るとき、それは全て善いことになり福になるものです。一円観は、その人の善いところを観ることで持ち味を発見し、その持ち味こそが自然の価値であると賞讃しているのです。

人が常に人の善いところを観ることができるということは、常に持ち味をみてその持ち味の素晴らしさを実感しそれをみんなで愛してみんなで活かしていこうといった自然慈愛の心であろうと私は思います。その慈愛の心はすでに仏陀が語り尽くしているように思います。

その一つに、不軽菩薩という話を聴きました。

「不軽菩薩 其の所に往き到って 而も之に語って言わく 我汝を軽しめず 汝等道を行じて 皆当に作仏すべしと」

これは私の意訳ですが、「不軽菩薩はいつもどんな時も語り聞かせていた。私は誰一人見下さない。みんな一緒にこの世に往生して日々修行している仲間であるから、みんな仏そのものにかわりはない」と。

この世に産まれてくるというのは、どんな人でどんな体験をするかも人それぞれ異なります。それにその人の姿容、また性格、持ち味も異なります。これは自然界と同じように、万物はそれぞれに自然の一部として存在しているということです。

あの植物は上で、あの植物は下、あの虫は善であの虫は悪などとの道理は自然界に一切なく、すべてのいのちはいのちそのもののありのままの姿です。そのありのままの姿こそが仏性であり、そのありのままを禮讃美することは自分の中の刷り込みを取り払い、本来の自然の姿を思い出すことになります。

人の善いところを観て、人の善いところを賞讃し、その人の気づきから学ぶことは自然界が共生し合う真心に近づいていくことのように思います。平和というのは、自然の中にこそ存在するものですからその平和を人々の間に築こうとするならば一円観の理念が私にとっては何よりも重要なことになっています。

私の自然の心はどんな生き物であっても偏見を持たず、まるで家族や古い友人のように接し、さらにそのものが持つ持ち味そのものを深く尊敬し、そのものの価値をそのままに活かせるような自然の心に近づきたいと願っています。

子ども達の為にも、人としての生き方をもっと形にして譲り遺していきたいと思います。こういう時代だからこそ、道徳や福徳といった人間の中にある善いもの、その徳を明らかにしその徳に気づかせその徳に報いる生き方を精進していきたいと思います。