必死

全ての生き物には感覚というものがあります。人間では五感や六感ともいい、味覚、聴覚、嗅覚、視覚、触覚、また直感なども感覚の一つだと言われます。今は時代的に視覚ばかりを使っていることが多いとも言われますが、古来からこの五感はフル動員してバランスよく活かすことでここまで生き残ってきたとも言えます。

視覚ばかりを使うと目が疲れ肩が凝ります。これは脳ばかりを優先し使っているからそこに筋肉が緊張することで疲れが溜まります。脳は視覚と直結しており、頭でっかちになっていくのも視覚を頼りすぎるから偏るのかもしれません。

この五感というものは、感覚の世界であり頭ではわからないことも察知したり洞察したりコツを掴んだりというように全体活動によって行われます。そしてこの五感というのは必死になることで最大限のチカラを発揮します。

自然界の生き物は、常に食べ食べられる関係でありいのちの危険に晒されています。もしも五感が研ぎ澄まされていなければ、その次の瞬間にはいのちを失っているかもしれません。常に自分の持ち味や得意を伸ばし、五感を最大限活用して生き残ることをしてきたとも言えます。今遺っている生き物たちはみんな、その五感を練り上げ研ぎ澄ませてきた生き物たちです。

都会に住み、安全安心な中で何でもボタン一つで便利に生きていると頭だけを使えばある程度のことは事足りてしまいます。ご飯をつくるのもガスを使ってキッチンタイマーで測り、ボタン一つで風呂も沸き、携帯をみては天気や電車の時間を調整する。これは頭で計算した世の中で感覚で理解している世の中とは異なります。さらに問題が発生しても自分の感覚を用いようとはせず頭で計算している通りにならない時にも周りに文句を言ってお金を払って解決します。これでは、言い訳ばかりの世の中になるのも分かる気がします。何もしないで文句を言えるのは感覚を使うよりも計算通りかどうかが重要になっているからです。

自分の身体に具わっている感覚は、磨かなければ減退していきます。どんなに才能を持った人でも、どんなに特徴がある肉体を持っていても、その感覚を鍛錬し研ぎ澄まさなければ宝の持ち腐れになってしまうものです。

人が挑戦する面白さは、「必死」になることです。必死になるというのは、五感をフル動員しているということです。この五感を使う面白さと楽しさは、いのちが輝いている感覚です。

よく後進国の子どもたちや、ジャングルの中の少数民族の子ども達が目がキラキラとしているのを見ることがありますがきっとあれも「必死」になっていることで出てくるいのちの輝きなのかもしれません。

今の時代、自分で「必死」を掴まなければ必死になる機会も環境もありません。平和というものは有り難いものではありますが、同時に平和にどっぷり浸かってしまったら本来の本能や生きている感覚までも減退していくように思います。そうなると何が大切だったのか、何を忘れてはならないのかすら消失していくのかもしれません。

人が挑戦している姿に感動するのは、その人の「必死」を見るからです。必死になっている人はいのちが輝いていますから、そのいのちの輝きをみると人は勇気づけられ元気が出るのです。頭でっかちに生きるよりも、必死に生きることの方がいのちは歓び、周りも幸せになります。

全てを与えられ、何もしなくても生きていけるようになることは決してその人を倖せにするわけではないのです。

日々に一期一会に生きるのは、その人のいのちの燃焼に懸っています。子どもたちのお手本になるような必死な生き方をして、五感を使うことで生き残ってきた先人の智慧を伝承していきたいと思います。