実践の意味

昨日、永い間お会いしていなかった方とお会いすることができました。もう16年ほど前にご一緒してから、何度かご連絡したのですがすれ違いようやくお会いすることが出来ました。

ずっと永い間、お会いしていなかったものの会ってみるとすぐに懐かしく心が温まる有り難いお時間をいただくことができました。あの頃には分からなかったと、あの頃にはこんなに近くて同じ方向に向かって御互いに一生懸命であったことなど気づきませんでした。

お会いしてみると、子どものためにどれだけ深めてきたのか、また社会のためにとどれだけ盡してきたのか、どれだけ実践を積み重ねたのかが全身全霊の感覚で伝わってきて有り難く嬉しい気持ちに包まれました。

ご縁はとても不思議で、立場がどうであっても志が同じくしている人との出会いは本当に仕合せです。論語に、「遠方より朋来る・・」がありますが御互いに実践していることを学び合い語り合えれば瞬時に仲間であることを思います。改めて、学問の醍醐味に感謝します。

昨日印象深かった話に、レッジョエミリアの保育の話です。これを現在は、レッジョ・アプローチというが、実際はレッジョ・インスパイアであるということ。つまり、イタリアを真似ても意味がなく自分で実践してものにしていかなければならないということです。

自然農を実践していく中で、私も試行錯誤して取り組んでいますが真似しようとすればするほどに真似できず、何回やっても同じようにはなりません。その時、自然農の川口由一先生にどうしたらいいのかと尋ねると「田に独りで立ちなさい」と言われたことがあります。

その時から私は「田に独りで立つ」と覚悟し、自分で実践して咀嚼し自分で味わい自分でものにすると決心して今でも取り組んでいます。教科書があるのではなく、誰かが教えてくれるのではない。自分で学び自分で感じ取るものが本来の姿なのです。そのために教えてくれる先生は自然、自然から学び直し自分の中にある知識を削除していく作業をしていくのです。

昨日のお会いした方が「やるからこそ課題が観える、やるからこそ本では得られないことができる。そういう世界で生きている、臨床とも言う。子どもと向き合うのが仕事であれば、子どもに向き合ってみないとわからない。実践の意味はそこではないか。」と仰っていました。

人はやりもしないのに分かるはずがありません、それは知識や頭で分かったものは所詮分別された単なる切り取られた部分であって全体を掴んだわけではありません。コツを掴むこともなく、頭で知っただけでは焦りばかりつのって実際には現実がカタチになりません。

だからこそ分かった気にならないでいるには「実践する」しかないのです。実践というものは知識とは違って「積み重なる」ものです。つまりは集積していきます。ある程度、実践が集積すればその時からはそれが現実の世界で活用できる智慧に変化します。

知識を智慧に昇華するには、場数しかなくトライアンドエラー、そしてまたフィードバックという回数を徹底するしかありません。量がある一定の量を超えるまでやるということですが、質はそのあと自ずから転換されていくように私は思います。

どんなに大変であっても実践を怠らない理由はそこに在るのです。本来の力とは継続のこと、継続とは自分に打ち克つこと。そういう実践をするもののみが、現実の世界で真実を継承し次世代へ伝承していけると私は信じています。

改めて始まった御縁から、色々とまた御役に立てるように関わっていきたいと思います。御縁は本当に何度も何度も容を変えて、機会を得ては顕れますから感謝の心で引き続き精進していきたいと思います。

真心を磨いていく

人は真心を磨くことによって徳を高めていくように思います。その中に智慧もまた生まれてくるようにも思います。そう考えてみると、人間関係というものの中に思いやりが必要でその思いやりに気づくためにも人間関係を学び直しているのかもしれません。

かつての古民家を調べていると、人と人との距離感の中に真心が入っているのを感じます。自分だけでは生きていないのだから、相手への配慮や相手への関心を持つこと、また自分が7割の居心地の善さに留めておいて3割は謙虚に自省していることなど、かつての暮らしには御互いを思いやる真心が随所に残っています。

今の時代は、明治維新以降の湾曲された西洋化が進み歪んだ個人主義が蔓延しているとも言えます。ちょうど町家を調べていたら様々な記録が残っているものも発見し、どのように日本が変わってきたかも次第に深まってきました。その中でもっとも大きかったのは、自分さえよければいいといった我儘な押し付け合いのような社会が広がっていったことのようにも思います。

現在のように人間関係で特に悩み、周りと隔絶しようとする人が増えるのも社会の影響を受けているのかもしれません。本来、人間関係というものは自分勝手なことをすればするほどに周りに迷惑をかけるものです。何もしなくても迷惑はかかるのだから、御互いに思いやりながら相手に尋ねて相手に聴いて自分自身の勝手な思い込みで動かないように気を付けなければなりません。

そのためにコミュニケーションがあり、対話を通して智慧を高めていくように思います。御互いが相手の気づかないところで相手を思いやることで徳が高まり、そして問題があって深く反省し自分を変えていくことで真心は磨かれていきます。

人は人を通して仕合せを感じますから、より仕合せを感じて豊かになるには真心を磨いていくしかないように私は思います。そして真心には終わりがありませんからこの真心を磨くというのはどんな人でも平等に一生涯の使命なのでしょう。

時折、感動し、また苦労し、悲嘆し、歓喜し、心を痛めたり平癒したり、いろいろありますがその中で真心が磨かれていることを忘れないようにしたいと思います。引き続き、真心を磨いていくことに専念し日々の内省を深めていきたいと思います。

職住一体

町家の再生をしていると職住一体という言葉に出会います。今の時代は職住を分けて生活をしていて、よくビジネスとプライベートは違うという言い方をします。特に最近ではメリハリをつけてというように、あくまで仕事は仕事、私生活は私生活というように分けなければ問題になっていたりします。

しかしかつての私たちの先祖はどのように暮らしてきたか、それは生活の中に仕事があり、それが分かれていたことはないとも言えます。今のように金融を中心にした社会が形成されると暮らしや生活のみが切り離されて働くことだけになってしまうのかもしれません。日本人はよくエコノミックアニマルと海外では称されますが、これは働くだけで暮らしをしていないという言い方をされていることです。

改めて職住一体について少し深めてみようと思います。

そもそも職住一体とは何か、昔でいえば農家や商人などは暮らしの中に仕事がありそれを分けることなどありませんでした。農家であれば土間を使って仕事をしたり、農作業を共にする馬や牛なども家の一部に一緒に住んでいました。また商人についても、店先というのは路地側のところを開放しそこで商いを行い家の奥の方で暮らしを営んできました。本来人は、暮らしを立てるために農を行い商を行ってきたのです。

昔は大切な守るものがあって、それを守るために暮らしを立てていました。本来の守るものとは、それまでの先人たちの生き方であってそれが暮らしを通して伝承されてきたとも言えます。それが今は間違った個人主義が蔓延し、自分さえよければいい自分のことだけでいいと、守るものは自分となってしまう風潮もあります。

家というものを守るというのは、単に家系を維持すればいいのではなくその家の理念や初心を守っていくということです。その一つ一つの暮らしの中に、その家の理念が隠れているとも言えます。家を感じるとき、暮らしを見つめるとき、私たちはその先人の理念に触れているのです。

職住一体というのは、自他一体と同じく分かれていないところに立ってみて気づく境地でもあります。どんな理念を築き上げて、どんな理念の実践をしていくか、それが家の定義なのです。

家になるというのは、理念を実践する家族や仲間と共に暮らすということです。一家の一員として、如何に理念をカタチにしていくか、生き方を見つめ働き方を改善していくか、それが職住一体ということだと私は思います。

引き続き、家としての本命を深め新たな暮らしを温故知新するため毀すものは迷わず毀し、日々新たに創造していきたいと思います。

似て非なるもの

先日、似て非なるものについて書きましたがこれはどの分野においても発生しているものです。例えば、自然農でじゃがいもを収穫しましたが全体的に丸く小ぶりなものばかりです。スーパーで買えばどれも大きく長い形のものが多いですがそちらの方が昔からあるじゃがいもと思っているものです。世間で流通し、いつも見ているものが本物というように思いこみます。

またこの場合の農の在り方も異なります。同じ農業であっても、そもそも野菜は育つものと信じて手入れをしていく考え方と、そもそも野菜は育てるものと信じて手入れをするのではそのかかわり方が異なります。

現在の慣行農法で肥料農薬と機械を使って行う方法から見れば、手で草を刈って被せて余計なことをなるべくしないのをみると、あれは農業ではないと言われるものです。しかし本来の日本人古来から野菜の姿というのは変わっていないものです。その野菜の姿を変えてまで収穫量を変化させようとするのは、どちらが本来の農業であったかは野菜を観れば明白なのです。

これは教育でも保育でも同じことだと私は思います。

昨日、ある人と話をする中で子どもの発達を信じ関係性を見守る保育をプレゼンしたところある大学の教授から「こんなの保育ではない」と言われたそうです。何をもってその言葉を言ったのかの真意が分からないのですが、きっと先ほど書いた農業の定義、慣行農法と自然農の違いを認識することと同じようなことが起きたのではないかと感じました。

もちろんどちらがいいとか悪いとかを議論しようとしているのではなく、野菜の姿まで変えていいものか、子どもの姿まで変えていいものかということに疑問を感じているのです。

本来の姿が合って、その本来の姿のままに育ててあげることがそのものらしさでありそのものの仕合わせだとも言えます。無理やりに、こちらの都合で相手を変えてしまうことで相手は本来の姿や本来の生き方ができなくなるかもしれません。

自然界というものは、それぞれに活き活きと伸び伸びと自分らしさを発揮して天から与えられた役割を楽しく生き切っているとも言えます。そういう太古から今まで連綿と続いてきたいのちの連鎖や魂の邂逅、そういう仕合せを享受される場がこの地上の楽園であったはずです。

それを無理やりに姿かたちを換えさせ、本来のことができなくなるというやり方が御互いを尊重しているとは私には思えません。

詩経に「鳶飛魚躍」という言葉があります。これは「鳶(とび)は飛んで天に戻いたり、魚は淵に躍る」という言葉です。辞書には「万物が自然の本性に従って、自由に楽しんでいることのたとえ。また、そのような天の理の作用のこと。また、君主の恩徳が広く及び、人々がその能力などによって、それぞれ所を得ているたとえ。鳶とびが空に飛び魚が淵ふちにおどる意」とあります。

本来のそのものの姿を守っていくことが、太古の昔から大切に絆を守りながら共生した仲間たちとの暮らし方です。今のように何でも人間の思い通りに変えてしまおうとするのはとても傲慢なことだと思います。知らず知らずのうちに刷り込まれていないか、他にもおかしなところはないかと学び直し見直す自戒の日々です。

自然の姿を守ろうとすることが自然に逆らわないことであり、自然と寄り添い生きる謙虚な姿勢でもあります。日々はまさに選択の連続、自分の布置がどうなっているのか、刷り込みを憎み人を憎まず刷り込みを取り払って精進していきたいと思います。

人間同士の自然とは

古民家の再生を行いながら今の時代が便利な道具によって価値観が変容していることに気づくものです。昔は手間暇かかることを良しとしたのは、その方が豊かで仕合わせであることに気づいていたからです。

例えば古民家は夏は涼しいのですが冬はかなり寒いものです。今のように気密性が高く、断熱材を入れているような部屋ではなく、隙間風も多くまた壁もとても薄いものです。これでは冬は風がしのげるくらいで寒さは外と変わらないほどです。しかし、ひとたび誰かが来ると火鉢に火をいれ、豆炭で行火を用意し、半纏をそっと肩からかけてあげることができます。また温かい御茶と、やわらかいぬくもりの表情と言葉をかけてあげれば次第に心はあたたまってきます。

もちろん今の時代のように、暖房をつけ部屋全体を温かくする方法があります。しかしこの方法だと先ほどのようなおもてなしをする手間暇はスイッチ一つで完結してしまいます。もちろんおもてなしは暖房だけではありませんが、昔は心のぬくもりを感じられる人たちと、心のぬくもりを味わう人たちが多かったとも言えます。敢えて自然から離れず、自然に寄り添っていきていくことは決して便利なことではありません。しかしその分、謙虚に自然と共生しながら人間同士の中にある「自然」とも心で触れ合うことができたのでしょう。

人間にとっての自然とは私は「つながり」にあるとおもいます。そしてその人間のつながりにどのような心の触れ合いを見出していくか、そこに真の豊かさがあるように思うのです。

人間関係も同じく簡単便利にスイッチ一つで完結させていいものかと思います。今ではすぐに御縁に対しても切ったとか切るとか簡単にいいますが、本来の御縁は切っても切れないものです。その一つ一つに手間暇をかけるのは、心の触れ合いを味わうことです。

古民家再生をしながら、これは決して家や道具だけの話ではなく「もったいなく」生きていく生き方の再生だと感じます。

心を触れ合せていくことは、自然の姿です。どんなものとでも、どんな人とでも心を触れ合せながら大切にしていけるよう、暮らし方を学び直し改善していきたいと思います。

恩顧地心

昨日、久しぶりに故郷で旧友に会いました。もう18年前に、故郷で創業し不可能と言われてきたことをやり続けている方です。私たちの郷里は炭鉱で有名な場所で、一時期は日本国内のエネルギーの半分以上を担っていたこともありましたが今では石炭の需要の減退とともに衰退したところです。

栄枯盛衰というものは、時代によるものでいつの時代もこれは繰り返されているとも言えます。しかしそこに住んでいる人たちが希望をもって温故知新していくのならその場所はまた発展を続けていくのです。

しかし実際はバブル経済の時と同じように、「あの頃はよかった」と昔の思い出に浸るばかりで今をみようとはしなくなるものです。昔を思い出して懐古することは悪いことではありませんが、それにいつまでもしがみつくのは温故ではないと私は思います。

よくよく考えると衰退していくというのは何が衰退するのか、それは希望が衰退しているとも言えます。それは心の持ち方次第で、何をやってもうまくいった右肩上がりのサイクルから何をやってもうまくいかない下がるサイクルの時もあるのです。それは山登りのように上がるときもあれば下がるときもある。本来は、山を味わい上がっても下がっても愉しめばいいのですが、実際に人は下がることを嫌うものです。

下がり始めれば何をやってもうまくいきませんから、そのうち「どうせ無理」と諦めてしまいます。特に上がっていく人たちを羨み、下がっていく人を同情し、比較をしては嘆き節では決して主体的に自ら前進することもありません。

温故知新は、新たに価値を再定義することでもあります。

本来、何もないと思っていたものがもう一度見渡してもう一度見直してみれば魅力はいくらでも発見できるものです。昨日、友人が郷里の善いところを見つめその郷里に育ててもらった話をしてくれました。改めて自分がこの郷里をもう一度見つめ直すことからやり直し、ここから恩顧していくことを決めました。

改めて自分が育ててもらったことへの御恩にどれだけ感謝しているか、環境にお世話になってその環境が良くなっていくことがどれだけ有り難いことか。教育に携わりながら育ち育てられる環境が大切かはいつも感じているところです。

町づくりというものや、町興しというのは其処に住む人たちの生き方が決めていきます。自分が成長し成功し発展すればするほどに、環境に育ててもらったことへの御恩を感じます。そして人はその環境への御恩に対して御恩返しがしたいと思うようになるのかもしれません。それは言い換えるのなら温故知新ではなく、恩顧地心があるから郷里は継承されていくのかもしれません。

場というものの中にある深い慈愛、場の中にある有り難い関わり、それらを大切にいただいている御縁に感謝しながら少しずつでも明るく謙虚に素直に進めていきたいと思います。

似て非なるもの

昨日、自然農の田んぼの草刈りを行いました。この時期は初期の見守りの大切な時機で、1週間田から離れただけであっという間に稲だけではなく周りの雑草も勢いよく伸びてきます。肥料も農薬も使わない農法というものは、見守ることによって育つのを支えていく農法です。だからこそ、田んぼの中に入り自分の手と眼で触りながら稲の様子を一つ一つ確認していくことが自然農をするうえで何よりも大切なことです。

草刈りにおいていつも気づくことがあります。それは稲の周りにとても稲によく似た草が沢山集まってくることです。例えばイネ科のノビエ(イヌビエ)などは酷似しており、慣れていないと間違って稲の方を刈ってしまうこともあります。この稗(ビエ)は田植え前後に芽生えたらほとんど稲と同じサイクルで育ちます。さらに稲が刈り取られる前にすべて種を散らしますから毎年かなりの量の稗がまた翌年出てくるのです。初年度の取り組みのときはこれにかなり苦戦したものです。今では、苗の時にしっかりと関係性を築いてから本田に入れますから自ずから稲の気配のようなものも感じ間違えることが少なくなってきました。

しかしこの「似て非なるもの」が如何にこの自然界の摂理であるのかをこの時期はいつも痛感するのです。ほとんど見分けがつかないこの稲と稗ですが、実際は収穫においてとても大きな差が出て来ます。

この「似て非なり」という諺は孟子の言葉です。孟子は「似て非なる者を悪む。ゆうを悪むは其の苗を乱るを恐るればなり」といい、これを徳の賊であり道の人ではないと言います。似非(えせ)ものという言い方もここから来ています。

この孟子を引用し、佐藤一斎の「言志四緑」ではこう言います。

「匿情は慎密に似たり。柔媚は恭順に似たり。剛腹は自信に似たり。故に君子は似て非なる者を悪む」

つまり感情を表に出さない匿情は、慎み深い親密な様子に似ている。物腰柔らかく媚びる柔媚は、うやうやしく従う恭順の様子に似ている。剛情でいじっぱりの剛腹は、自分の力を信じて疑わない自信のある人の様子に似ている。それで孟子に、「孔子曰わく、似て非なる者を悪む」とあるのは、このことを言っているのであるといいます。

見た目がいくら君子に似せていても、当然その本質や中身は本物の修養と人格によって異なります。見た目君子や見た目良い人は今の時代、見分けがつきません。それだけスピード社会で情報化が進んで、時間をかけずに世間の評価や見た目で誤魔化しさも本物のように振るまいそれが本物に取って代わったような時代になっているとも言えます。先日からブログで書いている「家」のことでは、ハウスとホームの異なり、リフォームとリメイクも異なりと同じくそれが混同されて間違って使われているのと同じです。本や知識が横行し、頭でっかちになればなるほどに本能が減退してくるのでしょう。

だからこそ常に本質は何か、本物とは何か、そういうものを見極める目は自然の中に入ってこの「似て非なるもの」に気づく感性を磨くしかないと私は思っています。

 
また森信三先生はこう言います。「すべて物事は、平生無事の際には、ホンモノとニセモノも、偉いのも偉くないのも、さほど際立っては分からぬものです。ちょうどそれは、安普請の借家も本づくりの居宅も、平生はそれほど違うとも見えませんが、ひとたび地震が揺れるとか、あるいは大風でも吹いたが最期、そこに歴然として、よきはよく悪しきはあしく、それぞれの正味が現れるのです。」

古民家再生を深めていく中で、如何に近代建築が永くもたないことに気づきます。見た目の強度ばかりを誇り、実際に天災がくれば天災が大きかったからという。しかし何百年も今でも顕在する古民家のことは議論にもしようとしない。こういう浅はかな考え方が偽物をこの世にたくさん生み出していきます。偽物とは、歴史や自然の篩にかけられればすぐにバレます。こういうものを付け焼刃の刀とも言い、必ずメッキは剥がれるように思います。

後世の人たちにわらわれないように常に「似て非なるもの」を自戒し、本来の姿に立ち返り実践により本物になることを目指したいものです。子ども達は本物を直感的に察知しますから、その子どもたちに恥じないように着実に成長していきたいと思います。

 

教養とは何か

「教養」というものがあります。

これは、イギリスでは「Culture」と呼び、ドイツでは「Bildung」と言います。辞書によればこれは単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる学問や芸術などを持つ人のことを言います。その他、社会人として必要な広い文化的な知識であってそれによって養われた品位であるとも書かれます。社會をつくる人間を教育する理由、その教育の本質は「教養」を身に着けることにあります。

これは単なる知識を持っている人を教養とは訳さないことが分かります。教養があるかどうかはグローバル社會において何よりも大切です。単に学校などで知識を得た人が世界に出てもそれは今の時代ではパソコンをもってインターネットがあれば膨大な知識は瞬時に使えますからそれでいいとも言えます。では世界で活躍するためには何が必要か、そこには必ず「教養」が要るのです。

有名なジャーナリストに池上彰さんがいます。この方が教養のことをこう言います。

『たくさん本を読んで、知識が豊富になれば、それで「教養がついた」ことになるかというと、ちょっと違うような気がします。自分の得た知識を他人にちゃんと伝えることができて初めて「教養」が身についた、と言えるのだと思うのです。』

自分の得た知識を他人にちゃんと伝えることができるか、それが教養が身に着いてきたという一つのモノサシです。ではなぜ伝えられないかということです。知識をものにするにはやってみなければ本当の意味で分かったことにはなりません。さらにその知識を深めて追及し、自分の中で咀嚼し自分のものになってはじめて伝えることができます。そしてちゃんと伝えるためには、その知識を語るための膨大な経験や暗黙知、そして理論や形式知が必要です。そのためには徹底して取り組んで深めていかなければ伝えることが出来ないのです。

また最近、古民家再生で知ったアメリカ出身の東洋文化研究者のアレックス・カー氏が教養について同じように話しています。

『知識が豊富なだけでは、教養とは言えません。いろいろ知っていたとしても、「その知識のどの部分をどう伝えれば人の心を動かせるか」が分からなければ意味がない。』

そしてこうも言います。

『残念ながら今の日本からは、世界中の人の心をつかむような商品やサービスが登場していない。これはビジネスパーソンの多くが、すぐに通用する仕事のスキルを身につけることばかりに熱心で、真の教養を身につける努力を怠ってきたからではないでしょうか。』

真の教養とは何か、本当の教養とは何か、それを身に着けない限り世界に出たとしてもその人は世界で通用する人物にはなりません。世界で活躍しようと大志を抱くのなら、まずは自分の根元を深掘ることが大切です。その上で、世界共通の物差しを自分の中に確固として持つ必要があります。それは単なる自分の価値観ではなく、普遍的なものを自分に持つということです。言い換えるのなら、真理に精通するといってもいいかもしれませんし、文化そのものになるといってもいいかもしれません。そういう本物の自然体の人物こそが世界でははじめて価値観を超えて話し合いができる人に成り、世界の中で自分を活かし世界について語り合えるリーダーになるのです。

そしてアレックス・カー氏はこう言います。

『教科書に書いてあったり、一般的に言われたりしていることをそのまま鵜呑みにし、お行儀よく「枠」に収まっている限りは、自分の血肉にはなりません。疑問を持って調べ、「枠」から出る。筋力トレーニングと同じで、その繰り返しが教養を高めてくれるはずです。』

自分の手で触り、自分の眼で見て、自分の耳で聴き、自分の声で伝える、そういう全身全霊の感覚をもって直感しコツを身に着けていきつつ、それを言語化して伝達できてこそはじめて本当の教養の入口に入るのでしょう。

そして教養は真に日本人になったとき、はじめて身に着いたといっていいのかもしれません。時代は変化していきますが、子ども達のために本来の姿、本来の生き方、死生観、歴史観、大局観、等々、それに和魂洋才、和魂円満、学び直すのにキリがないですが自然と子どもをお手本にして理念を明るく取り組んで味わっていこうと思います。

誠の成長~いにしえのいま~

現在、古民家を復古創新に取り組んでいく中で日本文化について観直しています。今の時代は、どこか西洋が新しく日本が古いという考え方があるように思います。古いか新しいかという二者択一の分別されたものは所詮は新古です。温故知新というものの語るのはその新古の違いではなく、その中心にある繋がりやむすびのところです。

明治維新以降、日本はそれまでの日本文化の中に西洋の文化を取り容れるという時間をかけた進化を手放し、一気に西洋化するというように日本文化から西洋文化への入れ替えをしました。その際、今まで大切に紡がれ大事に守られてきた精神性やその生き方なども排除し、まったくもって西洋の考え方や精神性が優れているとし、無理やり総入れ替えを行いました。

それは今まで時間をかけてじっくりと日本の文化の中に取り込んでいくということで行われる温故知新の発達と発展を否定したものでした。そして今ではもっと早くもっと便利にと手っ取り早く手に入るスキル的なものばかりが価値があると思い込み、より一層、かつての日本の文化を否定するようになっているともいえます。日本文化は今、まさに消失の危機に瀕しています。

これは私たちの生き方や暮らしが変わってきたともいえ、それは学び方も変わったということです。例えば武士道といっても、今ではほとんどがそれが日常で語られることもなく、日本人が古来から大切にしてきた美意識や美学というものも今ではほとんど身近に感じません。

しかし古民家再生をしていく中で、いにしえの先祖たちと対話を続けているとそこに暮らしてきた人々の持つ高い精神性に触れる機会が多く出てくるのです。そこには何でも時間をかけてじっくりと取り入れて成長させていくこと、真の意味での成長と発展があり、まるで木々が年輪を経て大樹になるように確実に進化しているのを感じます。

本来の進化というものは、とってつけたような付け焼刃でするものではなく永い時間をかけて何度も振り返り自らを修養していきながら行われるものです。すぐにスキルに頼り、すぐに便利なものや楽なものばかりを探そうとするのはとても温故知新しているとは言えません。

温故知新の古さと新しさは、単なる古い新しいではなく古来の真心を持った人物が今の時代の成長に合致して自然に理に適ったものを創造するということでしょう。普遍的なものや本質的なものは、自然美が観えなければ知り得ることはありません。

自然の持つ変化と成長は、便利に楽にその場しのぎで行われるものではなく永い歴史と循環、そして順応と発達、発展により地道に行われるものです。それは私たちの行う理念の実践に酷似しています。

ちょっとずつ成長していくことは決して遅くてダサい古いことではありません。むしろその中で着実に成長するのならそれは温故知新しているということです。そういう観点は自然の中に入ることで気づいていきます。古民家や町家の中にある自然を感じる暮らしは、私たちに変化の大切さを教えてくれます。何でもスピードを出せばいいのではなく、自然循環の速度と合致することが「はじまりを知る」、いにしえのいまに触れることなのです。そういう日本古来の生き方や暮らしを繋ぐ存在によって子ども達にいにしえの初心は伝承されていきます。

もう一度、日本人の暮らしとは何か、与えられた機会に感謝して学び直していきたいと思います。

何のため

何かに関わるときや、大切なことを決めるときにそれが何のためかという自問自答は何よりも大切なことです。方法論ではなく目的の確認というのは、御互いに必要なことで方法論に終始してしまうと目的から離れていくものです。

そもそも目的というのは、その初心や動機でもあります。そういうものを知ることをやめてしまい、それぞれの専門分野で好き勝手話していたとしても本来何のためにそれをやるのかを議論していなければ単なるそれは方法論ということになります。

例えば、やり方や方法というものはこの世には無数にあります。それは宗教から科学、または研究などありとあらゆる分野でそのものの真理に辿りつこうとするものです。しかし真理を知ったからといってだからどうなることではなく、その真理を知るのは何のためかというのが何よりも大切なことのように思います。

現在、知識社会ともいえる知識によって優劣をつけている時代ともいえます。大学をはじめ知識の長ともいえるそういう学術機関には知識が溢れるばかりに満ちています。そしてその方法論についても満ちています。人は知ることで方法論を使い便利になったとしてもそれを活かすとなると目的が何よりも重要になるのです。

以前、ある方が「知識を必死に蓄えていたのは楽をしたかったから」という話を聴いたことがあります。体験をせずに済み、体験をしたことを知れるから学んでいたと言います。これこそ何のために学ぶのかということがなくなっていることに気づきます。

知識を詰め込まれて知識があるから分かると錯覚してしまうと、体験よりも知識ばかりを持とうとするものです。そして知識は方法論ばかりを求めては膨大な量のノウハウや事例を体験もしていないのに知っています。食べたことがないことを食べる前に知っているから食べないといい、やってみたことがないのにやったらどうなるかについて議論します。おかしな話で、知識をもっていない幼児の子ども達の方がどんどん楽しそうに取り組んでいきます。楽をしたいから知識で済ませようとはしないものです。

何のためにというのは、物事の根幹です。

学ぶ理由も今では反転して学ぶことが本来の学ぶとは異なっていることが常識になっています。人がやったことがないことでも果敢に挑めるのは、そこに目的がはっきりするからです。何のためには生き方と通じているし、道と繋がっています。

引き続き、本来の目的意識を忘れずに日々に本質を自問自答し子どもたちのために活かしていきたいと思います。