言葉の原型

人間同士は言葉が使えますから言葉と単語を使ってコミュニケーションを取りますが古代は言葉がなかった時代があったといいます。それは今の動物や昆虫、そして植物と同様に単語以外の方法でコミュニケーションを取っていたそうです。

先日もある動物番組を見ていると、サバンナでライオンが空腹を感じて襲いはじめるとき周囲の動物はそれを事前に察知して逃げ始めます。しかし満腹で襲う気配がない時は、その真横で餌を食べるほど安心して素通りしていきます。この察知するや気配を感じるというのは、言葉以外のコミュニケーションとも言えます。

ある説に、人間は言葉を使うようになったのは心を隠すためというものがあります。自分の心が相手にわかってしまうと都合が悪いことで、人間の自我が自分を守り自分を隠すために言葉を使い始めたという説です。いちいち単語を並べては回りくどい言い方をすることで、自分の本心を隠し相手に読まれないようにと工夫するようになったといいます。そのことからコミュニケーションが次第に難しくなって発達して今にいたるというのです。

確かに人間関係での相談のほとんどが相手が何を考えているのかがわからないというものが多くあります。言葉の一端から相手が何を考えているのかを読み合おうとしては、お互いが疑心暗鬼になってしまうのです。心を開いていれば通じ合うものを、心を閉ざすことで読み合わなければならなくなるのです。

相手が何を考えているのかが分からなくなると人は不安になります。特に言葉を信じてもその行動が全く別であった場合、人は人を警戒するようになります。さらには不信になり、何も誰も信用しなくなるものです。

心を開いてくれたと思っても、それが本心ではない場合は後であれはなんだったのかと責め合うことにもなるのです。心を隠す技術として生まれたこの言葉は、人間の自我が創出したものかもしれません。そのことから生きづらくなって苦しくなったようにも思います。さらに今では、文字だけが独り歩きするような時代になっていますから言葉を操り民衆の感情を巧みに利用するようなことも増えてきています。広告や宣伝も言葉を使い過大に表現することで余計に言葉が歪んでいるようにも思います。

鳥や虫のように、そのままに発する言葉は言葉の原型でありその心のままに発する声が本当の声です。本当の声が聴けなくなったのは自分が心を閉ざしたからであり、心の中にある疑念が勝手に相手を歪める原因にもなっているのです。裏表なしの真心からの声が聴けるとき、人は自分が真心の声を発する人になっていることにも気づけます。

自分の心の声のままに従い生きている人はみんな正直です。正直とは素直であり、直は謙虚であるからさらに声なき声まで聴こえてきます。自分の心を開くというのは、声を聴く耳を持つということです。そして自分を守るのではなく、本心を守るという覚悟がいるのです。

人の話を素直に聴ける人は、自分の心の声も素直に聴けるようになります。そしていつも自分の本心と対話し続ける実践が必要です。

一人一人のその言葉の壁が取り払われるとき、安心した居場所ができます。それぞれが自分らしくいられて無理に感情を誤魔化さないでいられるような自然体で安心した居心地の善い場所を子どもたちに譲っていきたいと思います。

社會を創る

人は「できるできない」刷り込みがあると、できないことは悪いことでできることは良いことだと思いこみます。幼少時からできる人になるよう教育を受けていけば、皆と同じことができることが当たり前でできないことは悪いことだと思い込まされます。

しかし個人として一人で生きるのならばできることを目指すのでしょうが、社會全体で見た時はどうかということです。私は社會全体で観た時は、「できるできない」よりも「助け助けられる」関係を築くことの方が重要ではないかと思います。

本来人間は、できるかできないかで自立しているかどうかを評価する前に、助けてもらったり助けてあげたりといった相互扶助の心を持ち合うことができて自立した社會を築けるように思えます。もしも一人で生きていくのであればそういう社会を目指していくのでしょうが、一緒に生きるのであればまた別の社會を目指していくものです。将来、どのような社會を創造するかはその人たちの生き方や行動に懸っているとも言えます。

現在の社会では能力が低くできないことで病み、一人ぼっちになり鬱になっている人が増えています。できるようにならなければ生きられないと思い、能力が他と比べて低い場合はそれで絶望している人もいます。それは「合わない」と思って他の人に力を借りればいいのでしょうが実際は何とかできるまで無理にでも頑張ろうとします。またそういう無理強いしなければならないような空気も社会の中にあります。勝ち組負け組などもそういう空気間から出てきた言葉です。

無理をして頑張れないのは向いていない、合わないということですがそれではダメだと思い込むとさらに辛いことになります。それに人は弱さを出せず弱いことが悪だとし自分を傷めつけもっと強くなれと無理強いをさせていけば心に深い傷が残るものです。短期的には感情的に頑張れますが楽しくなければ長続きはしないものです。それにその傷がうずくたびにもっと強くならなければと発奮しもっと一人で頑張ろうとします。するとできるようにはなっても同じように周囲に無理強いをさせる社会の一員に自分がなってしまうかもしれません。

人は弱さを持てば周囲に助けてと頼めます。そして助けてと頼めることで周囲はその人を助けます。お互いにそうやって頼み頼める関係ができれば信頼関係が深まり、社會は安心した繋がりが生まれます。人間の赤ちゃんが最初は一人では生きていけないのは最初から周囲に助けてもらうことを優先して生まれるからです。

長い時間をかけて赤ちゃんのままでいるのは、それだけ助けてもらったり助け合ったりする力を身に着けるためです。逆に今では早期教育なども流行り、なんでも結果主義で速成ばかりを強いますがそれは個人ではできるようになっても社會がよりよくなるかどうかは別なのです。人間とは人の間と書きますが、これは人と人とが助け合い生きていく動物だという本性を記したものです。

どんな社會を築いていきたいか、それは今の大人たちが実感しているものの中で取捨選択して残したいもの譲りたいものをよく向き合って子孫へつないでいく必要があるように思います。

人間とは社會を創る生き物だからこそ、その社會に人間性は出てくるものです。

引き続き、子どもたちが自然に創る社會を見つめながら学び直しを進めていきたいと思います。

商人とは

今では商人とは何かということが曖昧になり、いわゆる商売をする人たちをみんな一括りに商人と呼びますがかつての商人とはどのようなものだったか近江商人の家訓や心得から深めてみようと思います。

近江商人は、鎌倉時代から昭和にかけて活躍した滋賀出身の商人集団のことを指しました。この商人の理念には「三方よし」という思想があります。これは「売り手よし、買い手よし、世間よし」というものです。

この三方よしの考え方は現在の日本的経営の一つにも例えられ、如何に世間の皆様によって最も善いことになるかを常に考え行動することが商人であると理念を定めています。また「利勤於真」(利ハ勤ルニ於イテ真ナリ)という実践徳目もあり、これは商人の利益はその任務に懸命に努力したことに対するおこぼれに過ぎないとし、勤労を優先し利益はその結果として出てきたものに過ぎないと真心を優先することを大事にしました。

近江商人には、商売十訓というものがあります。ここには近江商人の生き方の事例が紹介されています。

・商売は世のため、人のための奉仕にして、利益はその当然の報酬なり
・店の大小よりも場所の良否、場所の良否よりも品の如何
・売る前のお世辞より売った後の奉仕、これこそ永遠の客をつくる
・資金の少なきを憂うなかれ、信用の足らざるを憂うべし
・無理に売るな、客の好むものも売るな、客のためになるものを売れ
・良きものを売るは善なり、良き品を広告して多く売ることはさらに善なり
・紙一枚でも景品はお客を喜ばせばる
・つけてあげるもののないとき笑顔を景品にせよ
・正札を守れ、値引きは却って気持ちを悪くするくらいが落ちだ
・今日の損益を常に考えよ、今日の損益を明らかにしないでは、寝につかぬ習慣にせよ
・商売には好況、不況はない、いずれにしても儲けねばならぬ

ここに商人とはどういう生き方をすべきか、そして商人の志すものは何かが記されているように思います。特に近江商人は「陰徳善事」というものも掲げ、人知れず見返りを求めずに徳を積むことを重要視したといいます。

今ではすぐに職業や肩書、人気や流行から評価して人を観ますが、本来はその生き方をする人が何の職業をやっているかとその「人物の生き方」を観ることが本来の働き方の確認なのです。つまり古来の日本的精神、士魂を持った人が商才を使っただけでその風土の日本人の生き方がどうだったかということです。

世の中では働き方の改革と言われますが、その前に自分の生き方がどうなっているのかを見つめることが必要だと思います。単に会社の制度や取り組みを換えればいいのではなく、その根幹にある生き方を同時に換えることが働き方改革の本質だと私は思います。

商人として自分の生まれ落ちた天命の中で、しっかりと日本の心を持って働くということが商いを通して社會を善くしていくということです。その働き方は、常に自他も善く、そして世間も善く、それを喜びにして生きていくということです。

世の中の平和平安の祈りに生きたその生き方、働き方こそ商人の基本なのでしょう。日本の商人の道に私は誇りを思います。

引き続き社業を見つめながら日本的経営を学び直していきたいと思います。

民家甦生

私たちは日本語を用いる日本人ですが、世界には様々な民族が存在します。その民族はその風土と歴史によって独自の文化を発展させ、それをそれぞれの個性として大事に守ってきました。

その中には衣食住をはじめ、宗教、精神、生き方に至るまでそれぞれの独自の価値観を持ち先祖たちの生きざまが私たちの生きざまに色濃く滲み出ています。現在はどこの風土であっても、均一に画一的に同じ環境を用意することで金太郎飴のようにどこでも同じ風景になってきました。それは衣食住に限らず人間の精神も価値観もまた同様に単一化してきています。

これはある文明がそれまでの自然を征服し、どのような自然環境であっても自分たちの文明が凌駕しているという価値観の証明でもあります。この一つの価値観のみで世界を包むというのは、その気候風土の多種多様さを無視して自分が頂点として支配しようという考え方です。支配というものは、一つの価値観にしてしまうということです。そこから人間の中にある差別もまた生まれ、戦争の種を蒔いていきます。

お互いを尊重するというのは、それぞれの価値観を尊重するということです。それは多種多様な気候風土を尊重し、その中で暮らしてきた民族の精神と生きざまを尊重するということです。

民族の個性というものは、支配の歴史で語るものではなく自然との共生で語られるものです。その自然が風土として顕現してきたその土地の民族、それは生物多様性がある豊かで仕合せな永続する社會の実現です。

地球環境においても生物多様性は、それぞれがお互いを認め合い尊重し合う中で生み出してきた「自然の恩恵をみんなで分かち合う自然の仕組み」です。「誰も損することもなく、誰も得することもない世界。」それはお互いが思いやり豊かに地球と共に永遠に存在していくための唯一の方法です。

文明と文化は丸ごと自然そのものとも言え、それは破壊と創造によって甦生していくものです。これは歴史が語るように、病気から回復し健康になり再び病気になるように常に繰り返しを已みません。調和は常に破壊と創造によって行われます。現在、人類の歴史で私たちが知っているのはまだまだ短いものですが、今は時代の転換期を控え長い目で観てもう一度色々とこれからどうなるのかを子どもたちのためにも見つめる必要があるように思います。

しかしそんなに遠い遠い先の将来のことを考えなくても、現在の多種多様な個性、また生物多様性が失われてくればそのうち絶滅の危機に瀕することは火を見るよりも明らかです。だからこそ自分の個性を大切にし、日本民族の個性を大切にし、大切な自分たちの風土を醸成し続けることを已めるわけにはいきません。

私が文化や暮らしを子どもたちに譲ろうとするその根底には、この時代の調和や転換期にどのように風土の歴史を伝承していくかということの一点に由ります。初心伝承とは、民族の初心の伝承です。

原点が失われればそれはもはや個性とは呼びません。

常に原点・初心を忘れず民家甦生を楽しみつつ転じて子どもたちにちゃんと受け渡したいと思います。

おかげさま

人間は感謝の中で暮らしていくことで自然の恩恵を受けることができます。これは人間関係でも同じく、御蔭様の中ではじめてお互いの存在の有難さの恩恵に気づけます。御蔭様という心は、何の御蔭で自分があるのかを忘れていないということでありそれは社會の一員である自分を自覚しているということでもあります。

相田みつを氏の詩にこういうものがあります。

『私の、このヘタな文字、つたない文章も、見てくれる人のおかげで書かせていただけるんです。〈おかげさん〉でないものは、この世に一ツもありません。みんな〈おかげさん〉で成り立っているんです』

また有名なものに『いいことはおかげさま わるいことは身から出た錆』というものもあります。おかげさまでないものはなく、全てはおかげさまであることを忘れたところから錆が出てくるというものです。

鉄製品を持っていればわかりますが、鉄は空気中の水分で必ず錆が出てきます。そのままに放置しておけばどんどん錆びついて朽ちていきます。刀なども錆びてしまえばもう輝きも消え切れないものになります。手入れをして磨き続けることで鉄は錆びません。

これを人間で例えれば、何が錆させていく原因になっているかということです。そして何を忘れると心がそうなっていくかということです。

もう一つおかげさまで有名な詩があります。私たちの会社にも玄関の近くにこの詩が掲げられています。

『夏が来ると「冬がいい」と言う
冬が来ると「夏がいい」と言う
太ると「痩せたい」と言い
痩せると「太りたい」と言う
忙しいと「暇になりたい」と言い
暇になると「忙しい方がいい」と言う
自分に都合のいい人は「善い人だ」と言い
自分に都合が悪くなると「悪い人だ」と言う

借りた傘も 雨が上がれば邪魔になる
金を持てば 古びた女房が邪魔になる
所帯を持てば 親さえも邪魔になる

衣食住は昔に比べりゃ天国だが
上を見て不平不満の明け暮れ
隣を見て愚痴ばかり

どうして自分を見つめないのか
静かに考えてみるがよい
一体自分とは何なのか

親のおかげ
先生のおかげ
世間様のおかげの固まりが自分ではないか
つまらぬ自我妄執を捨てて
得手勝手を慎んだら
世の中はきっと明るくなるだろう

「俺が」、「俺が」を捨てて
「おかげさまで」、「おかげさまで」と暮らしたい』

不平不満や文句は、自分中心で世の中がまわるのが当たり前だと錯覚しているのかもしれません。社會がなければ今の自分が今のように暮らしていくことはなく、今までの御恩がなければ今のように自分が育っていることもない。自分のことばかりを心配して自分のことばかりに執着して、自分の周りにある御蔭様に気づかなくなれば必ずその欲において自分の心から錆が出てくるように思います。

自我が強くなり、自我妄執に囚われれば自分我優先されてしまいます。そういう人が増えてしまったら感謝の循環が失われ社會が暗くなっていくかもしれません。

だからこそおかげさまを忘れないことを初心に据えることが、全てのことを福にし全てのことを転じて感謝に換える妙法だと思います。

引き続きおかげさまの磨きの旅を味わっていきたいと思います。

 

心の燃え方

炭を深めていると炭の置き方で火の保つ温度、その燃焼時間が変わってくるのに不思議な感覚を覚えます。炭にも一つ一つに個性があり、その個性をどのように配置すればどのような火がつくのか、そしてお互いが活かしあうのか、大きさも形も密度も異なる炭だからこそその置き方に熟練の洞察力や観察力が必要です。

また燃焼にも、乾いている炭と湿っている炭があります。炭には炭を置く順序というものもいります。何を中心に据えて何を周囲に配置するか、その間合いと関係性の順序がズレれば火は熾りません。

私の尊敬する柔らかく優しく落ち着いたか穏やかな火は、水と和し、心に沁みいる美味しいお湯にしていきます。この穏火を扱えるようになるには奥深い日々の炭実践が必要です。火に同じ火は決してなく、火はその時々の環境、そして心境、また気候、気温、具合によって多種多彩に無限に変化しますからその時々に語り合うように接していくことが大切であると私は感じます。

炭本体からは少し離れますが、火の熱にも熱の種類があります。

これを人に置き換えれば、心の熱というものがあります。この心の熱は同じ熱はありません。怒りの熱や喜びの熱、哀しい熱や楽しい熱があります。このどの熱も燃えるためには必要です。

火はこの変化あらゆるところで発生させています。火とはこの熱量のことで、火を観るように熱を観ればそれがどのような熱を帯びているのかが伝わってきます。人はその熱によって周りが変化していきます、自分がどのような熱を帯びているか、その熱の手入れは自分でやるしかありません。

毎日、楽しそうに喜びの中にある火はとても快活で周囲を明るく朗らかにしていくものです。好奇心に満ちたその火はワクワクドキドキ、子ども心にも火をつけてたくさんの子どもたちが遊ぶように学び、その火を世の中に広げていきます。

怒りや悲しみの火は、対照的に子どものその火を暗く覆いかぶさっていくものです。

どのような火を燃やすか、どのような熱を発するかは、自分自身の心の持ち方にあります。自分自身の燃え方が心の持ち方ですから、心の持ち方を学ぶことは心の燃え方を学ぶことでもあります。

私は炭のことが大好き過ぎて炭のように暮らしていく楽しさを味わっていいます。炭道楽はまだまだ始まったばかりですが、炭から学んだことを実用の仕法へと昇華していきたいと思います。

自分の道、自分にしか歩めない道

今月の致知の社内木鶏の記事で桂歌丸氏と中村吉右衛門氏の対談がありました。その中で伸びていく人と途中で止まる人ということが語られていました。大変印象深い文章で桂氏は「その差は自分自身にある」といいました。「自分自身の勉強の仕方、自分自身の努力の仕方。」であると。そしてこう続きます。

「自分自身のことがよくわかっていないで他人のことはよくわかるという人がいるんですけど逆だと思うんです。他人のことばかり気にしているのは大変な間違い。」そして中村氏は「自分をしっかり見る」と応答されると「ずっと見ていないとダメですよ」と語っておられます。

人間は自分で考えることをやめてしまえば他人軸や世間の評価でばかりにあわせて生きてしまうものです。自分が分からないという人が増えていくのも、自分と向き合うこともしないで他人のことばかりを気にしていることでますます増えていくように思います。自分が自分自身と正対し自分を丸ごと認めることなしに、他人から認めてもらいたいことばかりを求めても自分の道を歩んでいることにはなりません。

自分自身の道を深めていくということが学問を実践することであり、自分の道を往く中でそれぞれ人として大切なことを修得していくようにも思います。

松下幸之助氏に自分の道を歩むことの大切さが語られた詩があります。

「自分には 自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。広いときもある。狭いときもある。のぼりもあれば、くだりもある。坦々としたときもあれば、かきわけかきわけ汗するときもある。この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまるときもあろう。なぐさめを求めたくなるときもあろう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。あきらめろと言うのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、とにかくこの道を休まず歩むことである。

自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。

他人の道に心を奪われ、思案にくれて立ちすくんでいても、道は少しもひらけない。道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。」

自分の道に気づくのは、自分の道を覚悟したときかもしれません。その姿勢が本当に自分が受け容れた道であるのなら、この道を歩ませていただきたいという謙虚な心が定まるように思います。こんなはずではないとか、もっとできるとか、環境さえあればとかないものねだりをしては他人の道を羨み自分自身のことを自分自身で深掘っていこうとしないでは自分自身のことが分かるはずがありません。

自分自身のことが分かるというのは、自分の心が分かってくるということです。自分の心を大切に生きている人は、必ず自分自身のことが結ばれていきます。自分と自身が結ばれるとき、人は他人軸が気にならなくなり本当の自信を持てるようになります。

自信とは何か、それは結果が出てから持てるものでもなく、評価されたからもてるものでもなく、それは自分が自分を信じられるとき持てるようになるものです。そのために信念があり、その信念によって磨かれて磨がれているうちに本物の輝きを放つようになるように私は思います。

自分の心をお座なりにすることがないように、自分の心の声をずっと聴き自分の心を見つめてその心と最良の関係を築くことで自他を認められる人格を育てていけるように思います。

人格形成はまず自分の道を定めることなのかもしれません。

引き続き、人生の先輩に学び直しながら真摯に自分の道を歩んでいきたいと思います。

 

差別の本質

私たち人間は栽培をすることで自然の恩恵を多くいただいてきました。本来は野性にあったものを時間と愛情をかけて育てることで人間に恩恵があるように培養してきたとも言えます。

それは植物に限らず、身近な動物にいたるまで人間が一緒に生きる仲間を増やしては共に助け合い生きていくパートナーを育ててきた歴史であるとも言えます。栽培するといっても、そのものが望んでいるように、そのものが育つようにと見守るように栽培するのはお互いに尊重し合い生きていくという意味で道徳に適っています。

しかし今では大量生産大量消費によって植物に限らず身近な動物までそのものが望んでいないような成長をさせられ、効率優先に速成するように改良され、また抗生物質や遺伝子組み換えなどそのものの本来の姿がまったく別のものにさせられるように粗末にされています。

人間にとって都合が良いか悪いかが全ての判断基準になり、そのものにとっての意思は尊重されていません。これはそのうち人間同士においても必ず同様になっていくように思います。少し前の南北戦争の頃のアメリカでは奴隷制度があり、白人が特別で黒人は白人のための奴隷になっていた時代があります。人権も権利も与えられず、いのちも粗末に扱われていた歴史があります。白人と黒人と差別しお互いに尊重し合わないことで共に人間らしさが失われていくのはとても苦しいものです。

この差別というものの本質は、「自分だけを特別にする」ということです。先ほどの栽培であれば、植物も動物も自分たちのために存在させればいいという考え方です。相手も一緒に育つ存在ではなく、自分たちのためだけにあればいいという考え方。利己主義で自利のみを考える、都合が悪くならないようにそこは別のものとして差をつけるということです。

これは上下関係でも同じく、上と下を分けることで特別をつくるのです。この差別がなぜ問題なのかはお互いが尊重されなくなることでお互いの心が通じ合わなくなります。誰かが一方的に誰かを支配し、誰かが一方的に支配される。これが差別とも言えます。上下が問題ではなく、尊重し合わないことが問題なのです。

人間がごう慢になるか謙虚であるかは、この差別心のあるなしに由ります。

共に歩んでいく仲間で、いつも自分を手伝ってもらっている感謝の存在だからこそ大切に相手のいのちも自分と同じように尊重する。違うから別れるのではなく、お互いの違いを尊重して認め合えば自ずからお互いの持ち味を活かし合おうという境地に達して自然の恩恵を皆で一緒に享受していく仕合せな風土が顕現するのです。

改めてこの差別という刷り込みをどのように取り払いお互いが自由になるか、さまざまな風土改善の方法を深めながら仕法の開発に取り組んでいきたいと思います。