風土の民

私たちは少し前の常識を歴史として認識するものです。少し前の時代に、新しい基準を設けそれを3代ほど繰り返せばそれが新しい常識になります。歴史や伝統もまた、新しい基準に合わせて変わればそれが繰り返されるうちに当たり前になるのです。たとえそれが二千年続いたものであっても、ものの数十年で違うものに変えてしまうことができます。それが歴史の姿です。

有名なものに暦の改暦というものがあります。日本も約140年前にそれまで800年以上続いていた旧暦をあっという間にグレゴリオ暦に変えてしまいました。現代ではほとんど新暦が当たり前になり、旧暦の存在すらも忘れ去られています。

季節の移り変わりや、潮の満ち引き、そういうものを一切無視してはそれまでの自然や伝統、暮らしに合わせて先祖が築き上げたものはなかったことにして世界の基準に無理やり合わせようとする。欧米から入ってきたカレンダーをみては季節感もなく、農や暮らしとも関わりがなく、ただそのスケジュール通りに生きていくのが生きることになればそれまで続いてきた自然と共生する智慧の暮らしが失われるのは自明の理です。

本来は変えてみてよくないと気づいたならすぐに原点回帰するというのが歴史の学問ですが、なし崩し的に伝統が消えてなくなってしまったらどこが原点かもわからなくなってしまいます。

グローバル化の中で、本来の変えてはならないものと変えていくものの違いがその時々の責任ある伝承者たちによって正しく継承されなければ文化はその時から次第に失われていくのではないかとも私は思います。

風土というものは、私たちにとっては切っても切り離せないものです。

地球のどの位置にいるか、その場によって気候も環境もそして暮らしも全く異なるからです。先祖たちは何千年もかけてその風土を学び、その風土に適応し、その風土と一体になって暮らしを創造してきました。

その暮らしの伝承があってこそ、私たちはその風土の民となります。

風土の民は、それぞれに独自の文化や信仰を発展させその風土の持つ魅力や価値、その風土から学んだ智慧を人類の未来に託してきました。その智慧は何のためにあるのかといえば、人類を存続するために必要だったのです。

それが急速に失われていくということは、人類が生き残る可能性も急速に失われていくということを意味します。

何千年もかけてきたことが、ものの数十年で消えてしまうという真実を私たちは本気で畏れなければなりません。もう一度、やり直せといわれても遺っていなければ最初からやり直しでまた数千年の歳月を実験していかなければならないのです。

なぜ生き残るためにこれを選んだかは、それが先祖たちが唯一学んだ人類存続の方法であったからです。

知識や情報は増えましたが、それはどれもあくまで短期的な利益をみれば効果はあります。しかし永続的なものや長期的なものを考えたときの利益はほとんど効果がないものです。

だからこそ風土の民として責任を果たすためにも、先祖を学び、先祖が暮らしてきたものを子孫へ伝承する使命とが今を生きる私たちにはあると思います。

引き続き子ども第一義を貫き、分度を守り、風土を推譲していきたいと思います。