窮屈と抑圧~社會の在り方~

何かを自由にしようとするとすぐにその自由に対して批判やルールを押し付けられることがあります。本来の自由は、そういう壁や枠を乗り越えて自在に自分を展開していくことですが周囲からの評価や空気を読めといった押し付けられるものに負けてしまえば自分を社会の型に嵌められ押し殺されてしまいます。

この窮屈や抑圧から連想される言葉は他には、マニュアル的や規格的、官僚主義的、制限つき、呪縛される、 自由がきかない、融通が利かない、ガチガチ、こり固まる、役所仕事など、いわゆる息が詰まるような圧迫したマジメさというか狭苦しい不寛容な雰囲気を感じます。

以前、オランダにいったとき教育の自由が保たれ、どんな人でも教育を語ってもよく民間企業であっても官学連携も普通に行われ豊かにその教育の質を議論し合える寛容な環境があったことに感動したことがあります。そのオランダでは私のような人間をユニークだと褒めてくれて、日本にこのようなユニークな会社があることが素晴らしいと認めてくれたことに感動したことがあります。

しかし日本ではすぐに何かをしようとすると、大多数の古い価値観から否定され「こうであらねばらない」というすぐに誰かが決めた社会の固定概念というか封建主義的な風習から語られ、本質的な議論もなされず余計な時間を浪費してしまう傾向があります。

真面目にやりなさいと言われ続けて型に嵌められることが当たり前になると型破りであることはそのまま不真面目であると認識されます。しかしこの型破りというのは決して不真面目にやっているのではなく本質を守ろうとするがゆえに型を破っているのに過ぎないこともあるのです。

なんでもすぐにマジメはいいこと、フマジメは悪いことと認識してその常識を信じ込まされていることこそが自分も窮屈で不寛容な社会の助長をしていることになるように私は思います。

マジメかフマジメかではなく、本質的にどうなのかと質の話に議論がいかないことが成熟を阻害し、民度を下げているようにも感じます。なんでも同じ型に嵌められるほど画一的なものではないのが実際の社會です。

この画一的で規格品ばかりができたことによる窮屈で抑圧された状態で凝り固まっていたら世界に取り残されてしまうのは自明の理です。

もっと純粋な人や、志のある人、本質的な人を助けて応援する気風を国家全体で醸成していくことが本来の国家の品格ではないかとも思います。どこぞの大量生産の規格品ばかりをつくるロボットの工場のような国が果たしてこれからの多様化された自由な世界で一体何をすることができるのでしょうか。子どもが減っているのも子どもの元氣が減退しているのもそれは今の大人たちが作り上げて押し付けてきた社会がいつまでも変わらないままであるからでしょう。

社會は本来寛容です、そして寛容さは広く明るい伸び伸びした自然の環境と心です。

もっと心豊かに生きられる国にしていけるように、子どもたちにはいろいろな生き方があり自分らしく生きていいというロールモデルになるようにどんな窮屈で抑圧された社會であってもそれを乗り越えて新しい今を今を生きる大人たちの選択として創造していきたいと思います。

子どもたちの元氣に貢献できるよう、自分らしく明るく伸び伸びとした活気を放って挑戦していきたいと思います。