刷り込みを取り除く意味

人生を振り返ると、いつも思いもよらない偶発的な出来事によって運命が変わったことの連続でした。単に目標に向かって一直線に努力をすれば、今のようになったのではなく、どちらかといえばそのほとんどが寄り道や遠回り、もしくは親切といった間接的な出来事によって今があります。

自分の思い込みや刷り込みは、そのほとんどが自分以外の誰かの言葉や知識によってそうなるはずと信じ込んでいます。しかし実際の自分の人生は、脳や頭が認識するよりも正確にそして現実に即して歩んでいこうとします。

私たち人間は、脳と心(魂)なるもののバランスを取りながら前進していく生き物です。その脳が何を思っているのか、そして心(魂)は何を感じているのか、その両輪のバランスによって人生を充実させていくことができます。

しかし脳だけを優先して歩んでいればいるほどに、思いもよらない偶然のことを避けるようになり、保守的になっていくように思います。心(魂)を優先して歩んでいく人は、敢えて思い切って脳や知識で先に考えずにまずは行動をしてそのあとの振り返りや改善に脳を使おうとします。すると次第に積極的になり、偶発的な出会いを味わい楽しみながら自分の人生の展開を創造していくように思うのです。

この偶然という必然は、思い込まない、刷り込みのない状態の時にこそ発揮されていきます。自分自身が今、どちらを優先するか、そしてどのような順番で取り組んでいるかを内省すれば自分自身の人生の舵取りを間違わずに実践していくこともできるように思います。

子どもの頃に、親や大人、そして自分自身の声で自分を信じ込ませ刷り込ませたことに縛られ続けている人たちはたくさんいます。本当はそんな真実は存在せず、それは勝手に誰かが自分の価値観を刷り込んできたのをそのまま鵜呑みに信じただけです。

私であれば、幼少期に父親が世界を股にかける商社マンになりたかったらしく私も将来世界で活躍するビジネスマンになることを信じて疑わない自分がありました。それがいざ、海外でそれを実現してみると何とも言えない空虚感があり、自分がしたかったのはこれだったのかと見つめ直したものです。その後も、人間関係における刷り込み、組織における刷り込み、お金に関する刷り込みなど親の影響をかなり受けてしまったことを実感したものです。

その後は、自分自身と正対し内省をし本当に自分が心(魂)から望んでいることを優先して、脳が嫌がることばかりをやっていくうちに自分を取り戻して今があります。つまり自分が解放されていったのです。

自分を解放するためには、思い込みや刷り込みを取り払うために挑戦をして学び直す必要があります。そして素直になり謙虚になり、本当の自分の声に耳を傾けてそこに脳や知識を味方につけていく必要が出てきます。

私は自分の体験から、子どもたちを刷り込まない教育としての保育の価値を実感しています。子どもが刷り込まれなければその子は必ず自分の人生の目的を味わうためにその後の人生で自分を信じられ、偶発的な出会いをものにし奇跡の日々に恵まれていきます。

出会いの哲学は、この刷り込みのない純粋無垢な世界に生き活かされていくように私は思います。子どもたちにとって自分という存在を誇らしく思え、生まれてきた仕合せを味わえ喜び合えるように私にできることを挑戦していきたいと思います。

自然から学ぶ生き方

昨日は、天日干しをした堀池高菜を仮漬けする作業を行いました。いつも驚くのは、自然農の野菜の生命力の強さと元氣さです。虫がまったくついておらず、さらに食べられたあともほとんどありません。無農薬で無肥料ですが、大きさも立派でイキイキとしています。手で持つと、その生命力に圧倒され自分の身体の方まで元氣が伝わってきて力が湧いてきます。

まるで天然自然の野生の中で育ってきた、人が関わり育てた野生児という感じでしょうか。地球の厳しさと愛情をそのままにあるがままに受けたものの生命は逞しく健やかです。

私には、この自然農を通して原体験と積み重ねてきた実践がありますから何が元の姿であるか、何が生命力の根源になっているのかを理屈ではなく事実として理解しています。この理解があるかないかが、実際の生活の中で大きく影響しています。

つまり抽象概念としてあるだろうという認識か、それとも実際に実体験として具体的事実としての認識か。それによって現実の受け止め方や取り組み方が変わっていきます。

私は内省オタクなので、やってみたものを観察してその本質を洞察し、それを改善するのが好きなタイプです。日々に学ぶのが好きですから、起きた出来事は最高の教材であり、その中で本当は何かということを見つめることに喜びを感じています。いわば、人類が最初になぜと考えた時のように余計な知識を排除して原点や初心と出会うことに仕合せを感じます。

人間の叡智だけではなく、自然の叡智は原点と初心の中にあり、常に事実と現実、具体的な結果として私たちにその仕組みや原理を教えてくれます。それがまた非常によくできていて発見すると喜びと感動の連続です。

子どもの頃、私はなんでも興味が湧き、自然の仕組みを遊ぶことが大好きでした。大人になり、人間社會に入ってからもこの自然の仕組みとの乖離から自然を見つめることに楽しみを覚えています。

発明や発見は、日々の暮らしの中にあり生きているだけで私たちは新鮮な学びとの出会いがあります。生きている喜びは、この発見と発明の中にこそ存在するのかもしれません。

高菜はこれから塩漬けして1週間ほど、水があがってくるのを待っていきます。そしていよいよ杉の大樽に本漬け作業です。9年目に入りますが、今年の出来栄えを観察し学び直すことが楽しみです。

子どもたちに、自然から学ぶ生き方を伝承していきたいと思います。

故郷の先生

昨日は自然農の畑で無事に堀池高菜を収穫することができました。昨年は、ほとんど収穫ができず種どりだけをして今年につなぎましたが今年は大収穫の一年になりました。

特に今回は、大勢の方々が植え付けや除草に協力していただき色々と豊かさや温かさを思い出す感謝の収穫を味わいました。本日、天日干しをしそれから洗浄して漬け込み、仮漬けして一週間で水があがったら本漬けという流れです。

思い返せば、東日大震災から自然農の畑を借りて高菜漬けをはじめました。気が付くともう9年も、最初の種を守り続けて育ててきました。そう考えると、種ともに生きて、種と共に様々な体験を乗り越えて今があります。

この種を見守るという行為は、先祖たちが子孫たちを見守り続けることに似ているような実感があります。時には、繁栄し繁茂しますがまた時には滅亡寸前にまで陥り、衰退することもある。

しかしそれでもなお、見守り続けていくなかでまたその種が甦り強く逞しいいのちとして実をつけ花となり子孫を増やしていく。それを先祖がどのような気持ちで見守っているのかを実感したのです。

私たちは自分のことを生きている時は、一代限りの人生を感じているかもしれません。しかし実際に自然農に取り組むと、種を毎年大切に保管しそれをまた蒔き育て新しい種を見守り続ける中では何代も過ぎたこと、何代も先のことを見据えて田畑に出ていきます。

田畑とは、自分たちが暮らしを営む舞台でありその舞台が充実していく中でイキイキといのちは甦りそこで先祖から子孫まで場に存在し続けていきます。私たちの故郷、風土もまた然りであり、風土と一体になって存在し、風土の中で種を見守り続けていきます。

自然本来のいのちの姿を学び直すことは、現在のグローバリゼーションや資本主義の歪みを見つめるいい材料となり、自分の抽象概念を正常に戻すためのいい訓練にもなります。

人間は刷り込み、刷り込まれていきますから、何が本来の自然であるか、何が本来のいのちであるかを知ることは、人間社會を持続可能にするためにも何よりも重要な気づきの源泉です。

私は有難いことに、この郷土の伝統野菜が師匠になって私を導いてくれています。故郷の先生は、自然の風土と共にいつまでも生き続けています。謙虚に自然から学び直し、本来の生を全うしていきたいと思います。

覚悟力

現在、報道では厳しい生活の状況を伝えるものが増えてきています。業種によっては、善い時と悪い時がある仕事があり大変なときに善い時にどのように危機に準備していたかが問われてきます。

私たちは今の安定した生活が当たり前に続く、いや続いてほしいと心で願っているものですが実際には努力の上ではじめて安定はあるのであって何もしないで安定を維持することはできません。

どうしてもマンネリ化してくると、今の環境や状況が当たり前のようになり感謝を忘れたり、謙虚さを見失ってしまうものです。しかし有事の時、改めてそれが当たり前ではなかったことを知り反省して人間は成長していきます。

過去の失敗や過去の怠慢な自分をいつまでも忘れないで自戒している人は、困難に強くまた現状を打破していく底力を持っているものです。そしてその底力の源泉とは何か、それは「覚悟力」なのかもしれません。

松下幸之助氏は、著書「道をひらく」の中でこういいます。

『すべてのことにおいて、いろいろの姿で刻々に「覚悟はよいか」と問われているのである。そのことをみずから察知して、自問自答するかしないかは、その人の心がけ一つであろう。ましてや昨今のわが国の社会情勢、経済情勢は、世界の動きとともに寸刻の油断もならない様相を呈しつつある。つねに「覚悟はよいか」と問われることを、おたがいに覚悟したいものである。』

覚悟力の源泉は、「覚悟はいいか」と自分に尋ね続ける力であろうと私は思います。それは言い換えれば、当たり前になるなよ、マンネリ化するなよと、殷の湯王が「日々新たに、また日々に新たなり」と毎日に自分に問いた実践と同じことです。これはあの土光敏夫さんの座右の銘であったとも言います。

人間の最も怠惰になり堕落なところはこの覚悟をしなくなるということかもしれません。覚悟を忘れれば人生はそこで自分のものではなくなります。また主人公でもなくなります。そうなると、たった一度の自分の人生が誰かのものにすげ変わってしまうのです。

そうならないように歴史の先輩たちは「覚悟力」を日々に磨いたように私は思うのです。私もまた道を志すものとして覚悟力を身に着けたいと思っています。こういう時だからこそ原点に立ち返り、覚悟を磨いていきたいと思います。

道は無限にある

人類はまた歴史に遺るような困難に見舞われています。新型コロナウイルスを発端として、いつ来るかといわれた株の暴落。今回は実体経済の方まで自粛と閉店、活動休止により急激に停止させられています。

過去の歴史を省みると失業者で溢れ、食べ物がなくなり不満がたまりそこから戦争の火種が出てきます。特に現代のように平和ボケしてしまった状態では、何が起きたのかすら気づくのに時間がかかるように思います。

本来、リーダーの役割は危機に対して敏感に迅速に行動をすることです。いつか来るであろう日を周りが楽観視して誰も考えもしなくても、ただ一人でその孤独と向き合い、みんなを守るために粛々と自重しながら対策を練り続けるのです。

戦国時代であれば、いつだれがどのように攻めてくるのかがわからず、どんな時でも生き延びることができるようにと常に八方に注意を払い最善を盡してきました。その歴史を生き延びて今の私たちもいます。

そして世界中で自然災害に巻き込まれたときには、みんなが飢餓を乗り越えるために協力し合って助け合い連携してきたから今の私たちがあります。

困難はある一方から観れば人類が大きく修正し、成長するかけがえのない機会でもあり、それをどのように乗り越えるかで子孫へいのちをどのようにつなぐかの未来が懸かっています。

困窮するとき、困難に陥るとき、先人はどのような智慧をもってそれに正対したか。松下幸之助氏は「道は無限にある」の中でこのように語ります。

「われわれ人間の歴史をみても、おそらく三十年前には想像もできなかったと思われることでも、今日、現実の事実として次つぎとできていることがあります。これはいいかえると、人類の限りない発展の過程の一コマであるというようにも考えられるのです。ですから、決して困難なことはないというようにも考えられます。ただ困難にするかしないかということは、それを困難なこととして認識するか認識しないか、認識してそれを打破する道を見出すか見出さないかということだと思うのです。」

困難だから困窮するのではなく、困窮するから困難が悪いものになっていく。困窮するのではなく、こういう事態だからこそ道を拓こうとする。そうして道を拓く人は、困難を認めたうえで困難を打破することでより発展向上し成長するのであるということでしょう。

今までなんとなくずるずるとやってきたことをここで決別するいい機会であり、方向を完全に転換する最良の好機という見方もあります。大切なのは、ただじっとして困窮するなということです。

困難を前にしてあなたはどうするか、道を拓く人か、それとも道にどうする人か。

道は無限にあるのだから、自分の決めた道を歩むことが困難を乗り越える覚悟でしょう。子どもたちのためにも、道を拓いて新しい時代の幕開けを楽しみたいと思います。

人が集まる場

人が集まる場というものがあります。なぜか、そこには場があり大勢の人たちが往来しているうちにコミュニティが生まれてきます。パリのカフェのように、様々な思想の共有であったり、芸術家たちの学習であったり、新しいことを始めるきっかけや出会いを創造するところであったり人の集まる場には確かな「場」が生まれます。

ではなぜその場が生まれるのかということです。

人は場に引き寄せられ移動していくものです。これはすべての生物が、環境によって拠り所をもっているところに似ています。そしてそれは生きていく目的によってまたその場を選んでいきます。

これは動物だけではなく植物でも同じく、どのような環境に自分が適合しているかを無意識にも理解しているのです。逆を言えば、自分に合わない環境のところには近づくことはありません。

そう考えてみると、「場」というものは目的に合わせて環境を創造することであり、その環境が生きものたちを集める力を持っているということです。

場を研究するにあたり、どのような「場」をここに創造したのかという場を司る人物の目的を確認する必要があります。その場には、その目的にあわせて最適な場を創造した人の思想や生き方が空間や環境に凝縮されて存在しているからです。

人々が集まればそこに自然に不思議なつながりが生まれ、その偶発的な出会いによって運が変わります。運とは、循環であり天機であり、命の変化です。

現在、場の道場を創造していますがこの場がどのような命の変化を創発するか、そしてどのような人々を集めていくかとても楽しみです。子どもたちのいのちが輝く舞台になるように譲り遺してにしていきたいと思います。

共生の伝道

私たちの先祖は自然との共生の中でいのちを繋いできました。共生というのは、一緒に生きるということでありすべてのいのちと共に生きていく道を模索するということでもあります。

人間は人間中心の世の中にしていく過程で、様々なものを排除していきました。そのうち自分の都合の悪いものはすべて取り除いていくという具合に人間優先の世界に換えていきました。

しかし現代の様相をみてもわかる通り、殺菌や滅菌ですべて取り除こうとして耐性菌ができてそれがさらに人類を追い詰めたり、農薬などで殺虫することでさらなる別の害虫や問題を、気候変動などの原因ばかりを増やしています。

これだけ排除することが如何に問題なのかということを自然に見せつけられてもさらにそれをいつまでも已めようとはせずに排除し続け共生しようとはしない。ここに人間の本当の問題があるように私は思えるのです。

現在のコロナウイルスの件も、今回のことから人類は何を学び直すべきなのか。そして如何に今の自分たちが大切なことを見失っているのか、そして先人たちの智慧や歴史から何を正していくのか、そういうものを世界のリーダーたちは正対し話し合っていく必要を感じます。

私は日本からはこの共生の智慧を世界に発信し直していくことだと感じています。日本人は、自然と共生していくなかで万物との折り合いをつけていく間合いや場づくり、そして和などの叡智を自然から獲得していきました。

自然から乖離して遠ざけて拒絶するのではなく、自然と絶妙な距離感でお互いに折り合いと距離を保ちながら共に尊敬し合って暮らしていくということ。ここが人類がこれからも永続してこの地球で生きていく上で必要不可欠なことであることを伝えていくのです。

先祖たちは過去の歴史の中で何度も何度も、絶滅の危機を体験してきました。その中で、どのようにすれば長くこの地球に存在して暮らしを営んでいくかをあらゆることの体験を通して「暮らし」に注力していきました。

それが長い目で観て、そして全体的に観て、地球にとっても善いことになっていくこっとを言葉にせずとも暮らしを使って伝承してきたのです。それを欧米の文化が流入し、文明を優先してきたことで消えかけてきています。

まさに今こそ、暮らしを甦生し、日本人としての智慧を世界に伝える時機だと私は思います。徳積財団もまた、そのために設立したものであり、気づいた人たちが手と手を取り合って世界に発信していく必要を感じます。

智慧者のリーダーたち、今こそ、それぞれの場で立ち上がってもらいたいと思います。そして人々は気づいてほしいと思います、今しかなく、ここが時代の分水嶺です。

宗教といわれても、変人といわれても、子どもたちの未来のために当たり前に気づいたことを当たり前に言葉にして伝えていくことが今は大切だと私は思います。自分にできることを、真摯に取り組んでいきたいと思います。

食生活の暮らしフルネス

今週のはじめから胃腸の具合がわるく、玄米がゆなどで整えています。今回のように調子のわるいのは久しぶりで、日ごろの食生活を見直す必要を改めて感じています。

日本の諺に、「腹八分で医者いらず」というものがあります。これはお腹いっぱいまで食べるよりも、腹八分目程度に抑えて食べるほうが体には良い、そして暴飲暴食を戒めるためのものです。

他にも似た諺がたくさんあり、小食は長生きのしるし、節制は最良の薬、大食短命、腹八分に病なし、腹八分目卑しからず、また腹の身の内というものです。

分かってはいるものの、会食が続いたり、外食が増えるとすぐに食べすぎる習慣がついてしまいます。かつて一汁一采に取り組んでいた時は、食べてもすぐにお腹が空いて腹八分を実感しましたがその習慣が外食続きで失われるとまた食べ過ぎてしまいます。

脳や口や舌で食べるものよりも、実際にはお腹で食べるものが食事であったはずですが現代のような飽食が当たり前の時代は気をつけなければすぐに刷り込まれてしまいます。

この腹八分は科学的にも様々な実験で検証されており、平均寿命を延ばすだけでなく、健康寿命(病気にならない健康な期間)も延ばすといいます。老化が進むなかで、若い時のように消化吸収してすべてエネルギーに還元できるわけではなく、過剰に摂取すればそれを還元するためにかえってエネルギーを使い過ぎて老化します。

生きていく上で栄養上必要としていた食事が、好きなものばかりを食べるようになっていく中で食生活が変わってきました。むかしは飢餓があり、食べたくても食べれない時代があったなど今の時代では想像もつかないかもしれません。人類はどちらかといえば、飢餓の時代の方が長く、それを何度も乗り越える苦労を積み重ねてきたのです。

一時的に飽食の時代で、ありあまる食料があり日本ではそれを日々に大量に捨てていますがそれが健康を害する原因になっているのだからこの問題は文明病でもあります。

この機会に、腹八分の実践を積み、時代の転換期に新しい食生活の暮らしフルネスを試行錯誤してみたいと思います。

徳の正体

私たちの身体には、長い年月で積み重ねられてきた「徳」があります。この徳は、生まれ変わることによって甦生を続けて今の私たちを支えています。この徳は言い方を換えれば「いのち」ともいい、いのちは何度も甦生することで新しくなっていくのです。

このいのちの本質は、「その徳を磨き続ける」ということを顕します。

私が様々な甦生を手掛けるのは、隠れていく徳を顕現させ、日本古来からの先人の徳や風土の徳を伝承し続けるために必要だと思っているからです。

神道はまさにこれを実践するものですが、私はそれは宗教だとは思っておらず文化であると感じています。そしてこの文化は自然が醸成してきたものですから、私は文化は自然であると考えています。つまり自然とは、風土の姿であり風土がカタチになったものです。そして自然とは徳ですから、その徳をもったものを如何に共生の中で活かしあっていくか。万物の徳を磨き合って調和させていくかが、私たちのいのちの本来の姿であろうと思うのです。

現代は、自然からも離れ風土からも離れ、そして文化からも離れ、日本人が日本人であったことを忘れかけてきています。その中で、かつてから連綿を続いてきた徳を積むという生き方も忘れかけてきています。

今の自分が存在するのは、一体何の御蔭なのか。

それはずっと徳を積み重ねていのちを磨き甦生しここまで紡いできてくださった先祖や風土の御蔭であるのは誰でもわかります。その存在を自覚すれば、自然に恩返しをしたいという気持ちが湧いてきます。

この恩に報いるという心が、徳の基本であり徳を実践するための原動力です。

子どもたちにも先祖がしてきてくださったようなことをそのままに伝道していけるように丁寧に徳を積み重ねていきたいと思います。

本当の復興

昨日は、「大切なことを忘れないDAY」として東日本大震災で犠牲になった方々のことを忘れずにその教訓を活かし続けて子どもたちに祈りを伝承するために毎年カグヤではみんなで黙祷を捧げ振り返りをしています。

あの時、東京で被災した私たちは自然の猛威を感じそして暮らしを見つめ直す切っ掛けをいただきました。それが今では暮らしフルネスという生き方と働き方の一致にまで昇華されました。

また原発で行われた人災を深く見つめ、人災の根本的原因は何かと向き合ったことで今では神家防災5か条や暮らしフルネス10か条などが生まれました。そして数々の実践を積み重ねて、今回の新型コロナウイルスでも迅速に率先垂範した行動がとることができました。

いつの時代も、正確な事実が伝えられず隠蔽や嘘が蔓延れば人災はますます複雑になり不幸が拡がっていきます。また民衆を大切にし人を信じた道徳的な判断ではなく、問題が起きないような自己保身で判断すれば思いやりや真心の社會から遠くなりさらに人々の復興は廃れていきます。

何をもって復興かという定義が、単なる形だけのものであればそれは復興とは呼べるものではありません。本来の復興とは、以前よりも福に転じることができたこと。そしていただいた教訓がのちの世に活きたこと、そして失われたものがさらに発展して甦りみんなが喜んでいることなどは最低限必要なものです。

目先の復興を急げば急ぐほどに、真実は復興とは逆に進んでいきます。これはまちづくりも同じく、目先の政策ばかりでみんなが補助金に群がってしのぎを削っていたら町はどんどん廃れていきます。

歴史や過去に学び、本当の復興とは何か、見つめ直す機会もまたこの「大切なことを忘れないDAY」には入っています。私たちの会社は、どんな時でも目的意識を忘れない会社です。何のためにやるのかにいのちを懸けています。初心を忘れないということは、先人たちへの感謝報恩であり、今を生きる自分の責任を果たすということでもあるのです。

世の中は、機会があって変わる人と、機会があっても一向に変わらない人がいる。それだけです。如何に機会を真摯に捉えて、大切な声に耳を傾けていくか。そこに生き方が出てきて、それを実際の社會に活かすことで働き方が出てきます。

子どもたちのためにも「暮らし」の意味や本質を実際の姿で伝えていきたいと思います。