徳の道

自然との共生を私は徳循環と定義しています。すべての徳がそのままあるがままに循環するとき、この地球の生命システムはもっとも調和し全体最適により最幸の状態を持続し続けることができます。

つまり徳の循環の邪魔をしなければ自然は次第に共生の方へと恢復していくのです。

しかし現在は、人間にとっての得循環ばかりを追い求めているうちに人類は自然から孤立してわが物顔でいる状態に入っています。一時的な便利さを追求しているうちに、自然の摂理を壊すものを科学とも呼び浮かれています。

例えば、核エネルギーも、身近では防腐剤、遺伝子治療、新薬の開発など、本来、自然ではないものを見つけ出してはそれによって自然を凌駕したとも思い込んでいます。

結局は、自然の一部としてあるのが人間ですから自然のものを使うしかなく、自然に許してもらいながら自然に反するものをつくっては自然を破壊していく。まるで、反抗期の子どものように親に迷惑ばかりをかける存在のようになってしまっています。

親孝行の徳のことを、近江聖人の中江藤樹はこういいます。

「天地の大徳を生といふ、人之を受けて以て孝徳となす」

孝徳、これは二宮尊徳に言えば報徳とも言います。

つまり徳によって生きている私たちは、徳をいただき存在する徳の一部であるということ。だからこそ自分たちもその徳を循環させていく大切ないのちの使命があるということでしょう。

私たちは、自然の徳の教えを受けてここまで育ってきました。今の体も、心も、また豊さを感じる五感も、すべて自然の徳によっていただいたものです。それを存分に発揮して自然界のすべてのために貢献する。

その生を全うして、全体の徳循環を促していくことが人間のお役目であり仕事だったはずです。万物を活かすもの、万物を支え合うもの、万物の徳の循環を促すもの、それが人間の目指す大徳だったはずです。

天地の大徳こそ、人間の志した大徳であったものが、その反動からか真逆の生き方になってきました。不老不死、栄耀栄華、まるで権力にみんなが呑み込まれていきました。社會をつくる動物ですから、その業があるのは仕方がありませんが人間には理性があり、智慧があります。

人格を磨いていく中で、如何にそれを悪用しないように工夫するか。それは先人たちも同様に挑戦してきたことでもあります。今、世界はコロナ後でまた同様の過ちに向かおうとしています。ここで気づく人と、ここで戻る人が分かれます。この分かれ道は見た目はそんなに差がなくても、未来には偉大な差として顕れます。

徳の道を歩む人は、この分水嶺の重要さに気づいているはずです。子どもたちのためにも、勇気をもって変える勇気を実践していきたいと思います。