暮らしと子ども第一義

保育にかかわっていると、子どもから学ぶことがたくさんあります。一般的には大人が子どもに教えるようなことを教育や保育と定義していますが私が一緒に取り組んでいる見守る保育は子どもから学び子どもの発達に沿って環境を用意していくという子どもの主体性を重んじています。

そうすると自然に子どもの発達からの気づきを私たちがどのように解釈をして理解していくかと繰り返していると子どもの持っている人間力のすごさ、また社会形成の知恵を実感するのです。そこから人類は生まれた時から、その環境に適応する仕組みを持っていることを直観しました。

例えば、幼児期の環境というものはその後の人生にとても大きな影響を与えるといいます。生まれてすぐの赤ちゃんは、脳のシナプスも最大でそこから心理学用語で「刈り込み」といって自分の人生に必要なものだけを残し、そうではないものを削り取っていくといいます。つまりは最初に完全体で生まれ、そこから能力を選別して個性を決めて伸ばしていくというのです。私たちは、それぞれで個性が異なりますがそれは幼児期の環境によって決まるといっても過言ではないのです。古語に「三つ子の魂百まで」といわれる中にはその意味も存在すると私は思います。

そこでどのような環境であったかに、「伝統文化」が重要になってきます。伝統文化とは、どのようにその民族がその風土で暮らしてきたかということです。これが環境というものです。

環境を通して子どもたちは学びます。そして子どもは大人と大人、大人と子ども、そして子ども同士の関わりによって人類の知恵ともいえる社会を学びます。社会はこの日々の環境、つまり暮らしを通して学んでいくということです。

人類の保育が伝統的な暮らしであると私が言うのは、人類が長い時間をかけて風土から得た智慧を譲り遺していくものを暮らしという伝承の仕組みにしているからです。幼少期の保育時期が非常に大切なのは、この「智慧の伝承」に深く関係しているからです。

文字がなかった時代、私たちは大切なことをどのように子孫たちへつないで伝承してきたか。それが暮らしであったのは、明白です。この暮らしは、智慧の宝庫でありその民族の人類の中での大いなる役割です。

子どもたちがそれを担っていくことで、人類は保育によって生き延びてきました。まさに人類がここまで生き残り維持できたのは、幼児期の保育が優れていたからということです。

私の取り組む暮らしフルネス™は、この風土の智慧を活かした伝統的な暮らしの仕組みで伝承していきます。子どもたちに先人たちの培ってきた様々な経験からの智慧が無駄にならないように信念をもって子ども第一義に取り組んでいきたいと思います。

リーダーの育成

組織にはリーダーが存在します。そのリーダーは、もちろん最初からリーダー資質を持っている人もいますが実際にはリーダーを組織が育てていくものです。それは国家も同様で、いい国家のリーダーを育成にするには国民一人ひとりによるリーダー育成が必要でもあります。

もしも組織が能力だけが優れているリーダーを求めれば、リーダーは自ずから能力がもっとも長けている人物が選ばれます。それとは別に、もしも組織が徳の高いリーダーを求めれば徳の高い人が選ばれるのです。

そう考えてみるとリーダーはその人だけのものではなく、リーダーを囲む人々があって存在することがわかります。つまり徳の高いリーダーの周りには、徳を磨き続けている仲間がいるということでもあります。これは論語の別の解釈にもなりますが、「徳は孤ならず必ず隣あり」なのでしょう。

自分があるのは、周囲の人間たちの人間学がともに優れているということ。つまり一緒に人間学を磨いていけば、自ずから徳の高い人たちが増えていく。その結果として徳の高いリーダーが誕生し、善い政治を実践してくれるということでもあるのです。

徳を持ち、才を活かしあうことができればその組織は必ず一致団結して目的を達成していけるように思います。そのために、組織は常に学び続ける組織になっていることが肝要ということになります。

それなしに、誰か特別な才能や徳のあるリーダーだけを求めるというのは都合のいい話でそれは単なる依存ということにもなります。自分はやらずに、リーダーだけを勝手に求め、そこで善い政治をしてもらおうとする。そんなことでは自分にとっての都合のいいリーダーを育成したということになります。そうすると、都合が悪くなるとすぐに文句を言って切り捨てて挿げ替える。これをしていたらそのうちリーダーからもそういう対応を取られ自分もすぐに切り捨てられるようになります。相手のせいではなく、自分たちがまず組織を磨いていこうと努力精進するところに組織のリーダーが醸成するものだと認識する必要があるのです。

そのために、リーダーをはじめ組織の一人ひとりがどのような政治をする組織を目指すのかを決める必要があります。私の場合は、子どもたちの憧れるような社会=会社にしていますからそれが実現できるようなリーダーや組織を目指していきます。その中で、どのような生き方をするのか、何を優先して取り組むかなど、自己との調和を通して理念を磨いていく組織になっていきます。

話をまとめると、大切なのはどのような社会にしていきたいか、そのためにどのような人物であろうとするか、それを全員で共有して取り組んでいくことが最終的にはリーダー育成をしたということになるということです。

道を歩んでいく中でみんなで力を合わせて善い時代を築いていき、それを次の世代へとつないでいきたいと思います。

 

尊重する世界

世界にはまだ100以上の外界と接触していない民族や部族があるといわれます。アマゾンの奥地であったり、山の高地であったり、あるいは孤島の中であったりします。そこには独自のユニークな文化や生活様式を発展させ、少数ながらもその風土に適した暮らしを実現しています。

グローバリゼーションの中で、世界はあらゆるところに行けるようになりあらゆる文化や生活様式を一変させてしまいました。工業製品などは、安くて便利なものがあらゆるところに行き渡りその土地の生活様式を変えてしまいます。

今までよりも便利なものが外から入ってくればそれが今まで風土に合った手間暇かかるものよりも価値があると欲を優先してしまうのでしょう。そうやって日本も江戸時代から明治にかけて西洋文化や工業製品などが膨大に流入してそれまでの文化を手放していきました。

特に若い人たちは携帯電話をはじめ、目新しい道具を使って力を手に入れることに敏感ですからあっという間に広がっていきます。そうやって世界はどこにいっても、同じような価値観の社会を広げてきたのです。

しかし同時に、外界と関係を断っていた民族は外からやってくる病気やウイルスに対する抵抗力もありません。なので、あっという間に蔓延して絶滅したところもたくさんあります。またその反対に、今まで関係を持たなかった地域の危険な風土病が世界に広がっていくということも発生します。

お互いを尊重してそっとしておくような関係が維持できれば、その場での平和は保たれるのでしょうが現代のグローバリゼーションはそこに資源を取りにいき、経済成長のために浸食していく仕組みですからそっとすることは不可能です。このまま最後は、世界のあらゆるところに隙間がないほどに入り込んでいきます。

そのうち、宇宙人というものを地球外に見つけそこに向かって移動していこうとするでしょう。そして現在の少数民族とのやり取りのように病気を持ち込み資源を奪い、また経済成長のためという大義をもって浸食していくということは簡単に予想ができます。

よく考えてみると多様性というものは、尊重されることで維持されるものです。尊重せずに浸食すれば多様性というものはありません。その尊重は、無理やり折り合いをつけるのではなくお互いの最適な距離感の中で見守りあっていくことであろうとも思います。これは自然界の仕組みそのものでもあります。

世界は、何で一つになるのか。それがいよいよ人類に問われている時代だと私は思います。

後悔しないように子どもたちの憧れるような生き方を譲り遺していきたいと思います。

人類の分かれ道

最近、天候の変化が著しく誰にでも変化があっているのがわかるほどです。本来、自然は私たちの想像を超えた大きさで変化しますからあまり小さな変化には気づきにくいものです。しかしこれだけ変化が見えるほどの気候変動があるというのは、地球規模で通常にはない動きが発生しているということです。

これは空だけではなく、海、そして太陽、月、地球内部においても同様です。気候が変われば生き物たちの生活帯も変わっていきます。今まで少数だった生き物が爆発的に増えたり、またその逆に大量にいたものが絶滅寸前まで減ることもあります。

私たちはこれらの自然の生活帯の中で自分にとってもっとも快適な空間をつくるために自然と折り合いをつけて調和し共生してきましたから天候の著しい変化はそこに棲む生き物たちにとっても相当な変化を与えるものです。

人類は、本来は多様性であらゆる風土に適応しつつその場所で進化を遂げていきました。熱帯から極寒の土地でも、食べ物を変え、肉体を変え、文化を育みそれぞれで固有の風土と折り合いをつけて調和してきました。

現在では、人類は科学をもって自然と調和することをやめあらゆる場所でも生きていくことができるように流通を改革し、文明を駆使して改造していきました。南極にも快適なホテルが生まれ、今では月や火星でも棲めるように科学を進歩させ続けています。

しかしそんなことをしても、この広大な地球に80億人もの人口がその便利で進歩させた科学で維持し守ることは不可能です。自然との調和や共生をやめればそれだけ不自然になることにより膨大なエネルギーも資源も必要になります。それを賄うことは現在ではできません。

そう思うと原点回帰し私たちは気候に逆らうことが本質的にはできませんから、折り合いをつけてみんなで風土に適した対応をとってでも生き残りをかけた戦略を維持していくしかありません。そのうえで、自然の調和が保てるようにより人類にとって快適な自然を維持する方法を考え直す必要があります。

そうなると、自然の利子分だけで暮らしを充実させていくというかつての先人たちの知恵しかないと思うようになると思います。おかしな話ですが、地球で末永く仕合せに豊かに生きていくために人類はどうすべきかはもうずいぶん前に答えが出ていたともいえます。しかし、それをみんなで破壊して短期的な裕福に舵をきればどうなるかも答えも出ています。

ここに来て、気候変動は私たちに何か大切なことを気づかせる切っ掛けを与えていますがこれがもう遅いのか、まだこれから間に合うのか、それは人類が試されていることです。

暮らしというものの中には、人類の存続という課題が入っています。そしてただ存続するのかではなく、幸福にということが大前提です。

子どもたちのためにも暮らしフルネス™を磨いて発信していきたいと思います。

世界の本質

昨日はブロックチェーンを活用したシステム開発のための打ち合わせを行いました。いろいろなことがつながっていき、徳積の仕組みがそろそろ形になってきそうな段階に入ってきています。

ブロックチェーンという圧倒的な技術の到来によって、私たちは現実としては今まで想像もしなかったようなことが実現できるようになります。それはまるで科学が大進歩し今までスピリチュアルといわれていたような精神世界的な意識の出来事を現実化して証明し活用するかのようです。

そもそもインターネットの到来から私たちは世界中のあちこちの場所が同時に可視化され身近な存在にもなりました。世界の反対で起きていたことやその辺に住んでいる人と同じ場所にいるかのように情報を共有します。都会と田舎の情報格差はほぼなくなり、世界のどこにいても最先端の発信ができ、自分の意見を世界中に伝達していくことができるようになりました。

つまりどんな個人でもこのインターネットの技術を駆使すれば、世界に一人の自分を表現し同時に理解されるようになったのです。SNSがさらに進歩が進めば、ますます世界は一つにつながっていきます。しかしこれは本来、世界はもともと一つであったのだからそれが現実として証明できる技術が追いついたともいえるのです。

同様にブロックチェーンの出現によって、私たちはある一つの真理や世界の本質を現実として証明できる技術を得たのです。それが何であるのかを知っている人が、これからブロックチェーンを真に活用する人間ということになります。

つまり真理としての世界の本質を学んでいる人が、圧倒的技術でなしえることを発明するということです。これは例えば、むかしの伝統の知恵を持った人たちが現代の新たな技術を応用することできるということに似ています。

今日は具体的に何を開発するかのことはここでは書きませんが、これから私は以上のようなことを実現するために集中していきます。「甦生」はいよいよブロックチェーンの分野に入ります。この1年が一つの勝負です。ご縁に導かれながら、世界の本質に挑戦していきたいと思います。

結友の仕合せ

昨日は、また藁ぶきの古民家で結友の仲間たちと掃除やべんがら塗を行いました。大変な作業もみんなで助け合って取り組めば心地よく、家も人もみんなが元氣になっていく感覚があるものです。

また人は一緒に何かをすると、その人の個性や人間性が観えてきます。対面で相手の様子を伺うよりも、一緒になって作業することでお互いの特徴や人柄、そのほかの得意不得意などを知り、心が通じ合っていきます。

掃除の効能は、一緒に取り組むことでお互いを尊敬しあうことができることです。一般的には現在はすぐに比較や競争、評価ばかりが重んじられていてなかなかお互いを尊重して認め合うことができません。一緒にやるよりも、個々の専門分野の人の役割のように配置されているものです。しかし実際には、自分にはない多様な能力や個性がありますから力を合わせた方がいい仕事をすることができます。

ここでのいい仕事は、決して完璧に仕上げることではありません。豊かさやつながり、また楽しみや喜びを感じることができるいい仕事になるということです。一緒に取り組むというのは、それをたくさん味わう時間が持てるということです。

私は、結果よりもプロセスのタイプでみんなで一緒に取り組んだり、味わったり、振り返ったりする方が楽しいと感じるタイプです。終わらせることや目標を達成することだけがいいのではなく、そのプロセスが如何に豊かであったか、仕合せであったかを確認するものです。そのためには、お互いを認め合い、一緒に取り組むという体験を増やす必要があるのです。

それは別に能力があるかないかだけではなくです。昨日は、小学生や大学生が来ていたり、シェフや主婦の方などがそれぞれで一緒に作業しました。みんなで取り組むことで、その人の仕事ぶりが観えてうれしくなります。それはその人がここがダメだとか、ここは直さないととか評価は全く入りません。むしろ、下手でもその人が主体的に取り組んでいることが楽しいのです。子どもたちも最初はみんな上手い人はいません。みんな下手です。そのみんなが協力し合って取り組んだものは下手でもそこには楽しみや喜びがあります。それはみんなの心を通じ合わせて取り組んだからです。

本来の価値とは何か、それは人が仕合せになることです。その仕合せになるために、結果があるのだからあまり上手いとか能力があるかとかにこだわる必要は私はないと思っています。

なぜなら、それが認め合い尊重することになり慢心を戒め、人が謙虚に感謝しあい助け合うための基礎になっていくからです。本来の教育とは何を教えるものか、それは評価や比較ではないと私は思います。なぜならそれで幸福を感じにくいからです。幸福を感じるためには、みんなで下手でもお互いで教え合い知恵を出し合い許しあい、認め合い、助け合うことです。

結友の集まりはいつもそれを実感させてくれます。

こういうプロセスを経て仕上がっていく藁ぶきの古民家は心のふるさとです。子どもたちのためにも憧れるような生き方を増やしていきたいと思います。

ご縁を実践すること

昨日、35年前に近所に住んでいた先輩と久しぶりに再会するご縁がありました。小さいころにソフトボールやラジオ体操などを一緒にやったことを覚えています。思い返すと、小さいときは3つ歳が離れていたら大きなお兄さんです。

後輩や子どもたちの面倒見がよかった先輩のことは心のどこかで覚えているものです。35年も経ちなんとなく面影が残っていると、安心するものもあります。歳をとっていくと3つの歳の差などほとんど気にならなくなってきます。

縁あって再会し、同じテーマで話ができたり、それぞれに困難に挑戦している共通点を感じると不思議な時のつながりを感じるものです。

人間には、ご縁というものがあります。

どのようなご縁で結ばれていくかで、日々は変化していきます。ご縁には場所とのご縁もありますが、時機とのご縁があります、そして人とのご縁です。

最初からその場所、その時、その人と出会う運命であったのではないかと振り返ると思うことばかりです。私は、日々に様々な方々とのご縁がありその時々でそのご縁に対処していきます。時として、あれは夢ではなかったかなと思うようなご縁もたくさんあります。

心の余韻にいつまでも残るような仕合せなご縁もたくさんありました。また同時に、傷つけあって一つの絆になったご縁もたくさんありました。あの人たちたちは今、一体どうしているのだろうかと思っても今は連絡も取りようもありません。ただ、未熟者同士で磨き合った思い出が遺っているだけです。

そういうご縁は、その後の人生でさらに深くし輝かせていくことができるものです。それはご縁を大切にするということに尽きるように思います。人のご縁は意味あって存在し、自分が如何にそれに執着しても思い通りにはならないものです。思い切って諦めてみることで、自分に相応しいご縁が訪れていることを自覚するものです。

それもまたご縁を大切にする一つの実践ということでしょう。ご縁を如何に大事に過ごしていくか、それは日々の内省によります。一期一会に生きるというのは、先人の遺してくださった大切な文化であり生き方です。

子どもたちのためにも、日々のご縁を内省により紡いでいきたいと思います。

 

風土の縁

先日、たまたま「風土舎宣言」という言葉を知りました。元信州大学名誉教授で農学者の玉井袈裟男さんという方の遺した言葉です。とてもリズム感もあり、読んでいてしっくりと来るものがあります。ご紹介します。

風土という言葉があります

動くものと動かないもの

風と土

人にも風の性と土の性がある

風は遠くから理想を含んでやってくるもの

土はそこにあって生命を生み出し育むもの

君、風性の人ならば、土を求めて吹く風になれ

君、土性の人ならば風を呼びこむ土になれ

土は風の軽さを嗤い、風は土の重さを蔑む

愚かなことだ

愛し合う男と女のように、風は軽く涼やかに

土は重く暖かく

和して文化を生むものを

魂を耕せばカルチャー、土を耕せばアグリカルチャー

理想を求める風性の人、現実に根をはる土性の人、集まって文化を生もうとする

ここに「風土舎」の創立を宣言する」

身土不二のように風土不二のことを語っているように思います。これを和して文化を生むとも。魂と土を耕すことが農の本質でもあります。意訳ですがその土地で人が集まりそれぞれに根をはり作物になるのならそこが一つの文化創生の風土舎という意味かもしれません。

以前、私が故郷に戻ってまちづくりとは何かと悩んでいたときに逆手塾の和田芳治さんに私がこの場でとことん尖がることを応援・支援していただきました。あのことがあって吹っ切れたことは今ではとても財産になっています。その和田さんのまちづくり理論歌という替え歌もいいリズム感で読んでいて心地よさを感じます。

打てば響く 君がいてさ
話に花咲く この宴

まちは舞台さ 主役は君さ
スポットライトは お天道様

丸い地球の ど真ん中は
君が住んでる このまちさ

ナイモノネダリを やめたら見える
君とまちの オンリーワン

有るもの探して 知恵と技と
汗で咲かそう まちの華

自然にゃいいも 悪いもないさ
活かすも殺すも 君しだい

名所名物は 名人が創る
何はなくても 君がいる

花を華に するのは君さ
君が咲かせる 汗の華

こうやって、それぞれの人たちが逆境を逆手にとって本質を語り面白い発想で風土を醸成する啓蒙をしていきます。その土地には人がいて、そして場があります。その場の徳をどう引き出してその土地での地元を真に創生するか。

それはその覚悟をもって取り組む人たちの生きざまや生き方があります。人はそういう人たちと出会うことでより自分自身の徳も磨かれていきます。

最後に、森信三さんの言葉で締めくくります。

「人間は一生のうちに 逢うべき人には必ず逢える。しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に。縁は求めざるには生ぜず。内に求める心なくんば、たとえその人の面前にありとも、ついに縁は生ずるに到らずと知るべし。」

これからのご縁がどう転んでいくのか、楽しみつつ徳を磨いていきたいと思います。

ゼロウェイストの理念

先日、友人から「ゼロ ウェイスト」の徳島県上勝町の取り組みの動画を拝見する機会がありました。美しい町や村が汚されないようにゴミをゼロにするという活動そのものが故郷を守る気持ちと合致して美しい風景になっているようにも感じました。

美しい場所には美しい人たちがいるというのは、原風景を守るために何よりも重要なことかもしれません。少しこのゼロウェイストというものがどのようなものかを深めてみたいと思います。

日本大百科全書(ニッポニカ)にはこう書かれています。

「イギリスの産業経済学者マレーRobin Murray(1944― )が提唱した概念。2003年(平成15)7月に、マレーの著書『Zero Waste』の日本語版『ゴミポリシー――燃やさないごみ政策「ゼロ・ウェイスト」ハンドブック』(グリーンピース・ジャパン翻訳、築地書館刊)が出版され、日本でも注目された。「ゼロ・ウェイスト」とは、ごみを焼却、埋立て処理をせず、資源の浪費や、有害物質や非再生可能資源の利用をやめて環境負荷を減らしながら、堆肥(たいひ)化などの物質回収や再生可能エネルギー利用、リサイクルによって、ごみをゼロにする考え方。「ゼロ・ウェイスト」の目的はごみの発生回避であり、エネルギー消費が少なく、環境負荷が少ない自然代謝を最大限に活用した社会を目ざしているといえよう。」

ゴミを発生させないためにどうすべきかをみんなで考えて取り組むという概念です。これは解体業の方などはみんな仰っていますが、焼却できないものをつくるせいで捨てることができずに大変なことになっているといいます。保健所が細かく分類わけするように指導が入るといいますが、とても分解できるようなものではない状態で解体されていくのでゴミを処分する方法が末端になればなるほどできないのです。

例えば、原発などの放射能などはその最たるもののように思います。何億年も処分に困るものを大量につくり、捨てるところがないので国家や自治体間で押し付け合ったりしています。福島原発の燃料棒なども、冷却した水なども捨てることすらできません。ゴミの究極の姿ともいえるあれは、実は身近なゴミ問題でも発生していて捨てられないものが増えているのです。プラスチックゴミなども同様に、海洋汚染、空気汚染、この世はゴミだらけになっています。また、続けてこうも書かれます。

「ゼロ・ウェイスト」の三大目標として、(1)有害物質を排出しない、(2)大気汚染を生じさせない、(3)資源をむだにしない、が提唱されている。また、「ゼロ・ウェイスト」の重要なポイントである4Lとは、Local(地域主義)、Low cost(低コスト)、Low impact(低環境負荷)、Low technology(高度の技術にたよらない)を意味している。1996年、オーストラリアの首都キャンベラが初めて「ゼロ・ウェイスト」を政策として採用し、その後ニュージーランド、北米やヨーロッパなどの各都市に広がっていった。」

有害物質を出さない、大気汚染をさせない、資源も無駄にしない、この3つがあるかどうかを確認するということです。そのために、地産地消、自然循環、文明の化学をあてにしない、エネルギーを大量に消費しないということを重んじています。

本来の日本の里山のような状態を目指そうということでしょう。美しい風景は、自然との共生と循環の中にありますからこの取り組みの姿として理想は里山ということになります。

私の故郷にもまだ棚田が遺っていて、藁ぶきの古民家を甦生していますがそこにはまだ日本の原風景の気配が遺っています。本来、そういう場所には「結」という組織もあり人々が助け合い美しい風景を創造し守り続けてきました。

ある意味で私が取り組んでいる暮らしフルネス™も、このゼロウェイストの理念に共通するものがあります。そもそも自然が分解できない人工的なものを極力避けるのは、それはほかの生き物たちの暮らしを阻害しないということでもあります。

人間だけがこの地球に住んでいるのではなく、この地球は無数無限の生き物たちがお互いに自由な環境を与えられて暮らしを豊かに営んでいます。すべてのいのちがみんなが幸せを感じて豊かになれるようにするには、人間が中心の人間だけの世の中にしていかないことが肝要です。

すべての生き物たちが喜び暮らしていけるように、自然との共生や循環をさらに実践していきたいと思います。

いい仕事とは

世の中には「善い仕事」というものがあります。これは言い換えれば本質的な仕事のことです。本質的な仕事とは、何のためにやるのかという目的が明確でありそのために真剣に取り組んで成果を出すものです。

しかし実際には、本質的ではない仕事がこの世の中のほとんどを占めているように思います。例えば、税金を使う仕事なども本質的ではないものに溢れています。本来、税金を無駄にしないかどうかで評価をしたりする仕組みもありますがそれは正しく税金が使われたかどうかの査定をしているだけで本質的にいい仕事だったかどうかは評価する仕組みがありません。

そもそもどの仕事にも目的というものが存在します。目的がある以上、手段は無数にあるわけであり手段を限定されたら目的に達することがさらに困難になっていくものです。

何のためにやるのかを決めたら、そのための手段は試行錯誤して失敗を繰り返していくうちに目的地に達する道筋がたっていくのです。現代は、何のためにというものはほとんど議論されず、何をするのかやどのような手段なのか、周囲はどう評価するのかばかりを気にしたものばかりです。

本来、みんなが目的意識をもって事に当たればこの世は善い仕事で溢れていきます。目的が善であれば、動機が善であればそれを忘れないで取り組むことはほぼすべて善になっていきます。それが善い仕事です。悪い結果が出ても、最善を尽くしていればそれは必ず善いものとして福に転じていくものです。

問題は、目的をはき違え、善悪、正否などで第3者が評価する仕組みのみで判断しているから本質から外れていい仕事ではなくなっていくのでしょう。

いい仕事をみんなが取り組むことが、世界をいい世界にしていきます。何のためにやるのか、これをみんなが考えること、深めること、そして確認すること。シンプルに言えば、思考を停止せずに自分で目的が何かを考えることをやめなければ必ずいい仕事につながっていくのです。

だれかの持っている正解ばかりを探すから前例踏襲になっていますし、いい仕事が何かを考えなくなるから客観的な意見や第3者の評価ばかりを気にするようになるのです。

動機や目的が善であるのなら、自分自身をやり切ること、最善を尽くしていくことでいい仕事になりその報酬が訪れるように思います。

子どもたちのためにも本質的ないい仕事を磨いていきたいと思います。