ただ坐ること

先日、「普勧坐禅儀」という書に触れる機会がありました。これは曹洞宗の祖である道元禅師が中国より帰国して最初に書き留めた書物であるといいます。日本の世相の価値観、時代の流れとともにくすんできた真理を甦生すべくその当時に座禅というものの価値を用いて真実の目を開き直させようとした取り組みのように思います。

私もオランダで学び、帰国して一円対話を考案して今に至りますが時代は変われど同じ問題意識であったのではないかと深く共感します。

やり方ではなくあり方、そして本来はどのような仕組みであったのかを探求したのです。つまり教えるのではなく、救うためにどうするべきかを突き詰めたということだと私は思います。

いくら世の中で便利な道具を用いて、あの技法やこの技術などを指導してそれが広がっても救われていなければ意味がありません。今の時代も同様に、これだけの情報が氾濫している世の中でも知っていても救われない、教えているけれど救えないということが往々にして発生していることに気づきます。

そんな世の中に嫌気がさして、どうすれば救い救われるのかと真摯に向き合われていたのが道元禅師ではないかと私は感じました。それがこの座禅の書、普勧坐禅儀の中に詳しく記されていたからです。

あまりにもこの世の嘘に触れていたり偽物ばかりの環境の中にいると、本物であることが分からないだけでなく本物や真実を恐れるようになっていきます。きっと、あらゆる便利なものが増えてきてあれもこれもとやり方が複雑になっていくなかで元が何かもわからなくなっていたのでしょう。元を尋ねて元本を知り、元々に回帰してみるととてもシンプルなものだったということでしょう。

それは例えれば、いのちの源流が水であったり、循環とは遍くすべてを通過することであったり、光も闇も一体であったように、或いは身も心もそもそもは一つであったりと、辿り着けばはじまりを知るという具合です。そこからもっともシンプルな仕組みを取り入れることで時代の価値観に流されず普遍的な生き方を保とうとしたものかもしれません。

あの手この手で悟りを語る宗教者の前に、只坐れというのはその時代はとてもセンセーショナルなものだったように思います。しかし、坐ればわかるとし実際に坐った人たちが感覚が変わる体験をして気づき目覚めていきましたから今でもその道統は燦然と輝き続けているようにも思います。

時代を超えても、坐れば道元禅師の目覚めに気づけるというのはとても有難いことです。場の道場では、目覚めをテーマにしていますからこれらの目覚めの仕組みを色々と探求し、本来の生き方、本質をシンプルに顕現させていきたいと思います。

一期一会の素晴らしい機会になりました、ありがとうございます。