人の願い

人は願いを懸けたあとそれが成就しますが、長い年月をかけて成就したものへの感謝を忘れるものです。しかしよく考えてみると、願いは一つの思いになって祈ったものですからそれが巡り巡ってまた元のところに戻ってくるものです。

この世の中は、反射の仕組みによって成り立ちます。私たちの眼に見えるものも反射の仕組みです。音が聴こえるのも反射、それが出入りすることが陰陽ともいえます。そう考えてみると、願いもまたどこかに届きそれが戻ってきているともいえるものです。それを別の言い方では波動ともいい、仏教ではご縁ともいいます。

決して消えてなくなったものではなく、永久的に反射している存在としてありそれが響き合い重なり合うことで増幅したり或いは和合したりして存在を続けています。そしてその存在があるところを私は「場」と呼ぶのです。

善い場には、善い場を創造した波動があります。その波動は常に何か日々の暮らしの中で研ぎ澄ませてきたものがあります。

場を調えるというのは、願いを聴き届ける場でもあります。私たちが鏡に祈るように、私たちの存在は過去の願いで仕上がっているものです。その願いは悠久の年月、先人や先祖たちが願ったものです。

そのことに対する感謝と、また同じように子孫へ願うことが私たちの最も反射する仕組みが増幅したり和合するために大切になるように思います。不協和音を消していくと、澄み切った和音が聴こえてくるものです。それはまるで夜明け前の静かな夜であったり、瞑想をして無心のときに聴こえているものです。

願いに生かされているという実感は丁寧な暮らしと共にあります。暮らしフルネスの実践を紡いでいきたいと思います。

種の使命

昨日は乾燥していた伝統在来種の高菜の種取りを行いました。今年は有難いことに多くの健康な種を確保することができそうです。これから少しずつ故郷にまた伝統高菜が増えていくように種を丁寧に弘めていこうと思っています。

現在、何でもお金にする世の中で空気もですが種もお金で売買されるようになりました。種苗法が改正してから登録されているものは種苗法による自家増殖原則禁止になったときは色々と物議をかもしました。

そもそも種を所有し、その権利を奪いお金儲けをしようとする人が出たからそれを法律で防ごうということです。もともと種は誰のものかということを深く考えてみると、種はみんなのものであることは自明の理です。

そうやって人類は、種を分け合いみんなで育ててきたから地域の伝統在来種が守られてきました。これは決して種だけのことではありません。現在の地域の文化財なども等しく、あれは一個人で所有して守ってきたものではなくみんなで守ってきたものです。

この所有権というのは、用い方や使い方が間違えると色々と人間の欲望と結びつきかえって世の中を暗くしていきます。経済の在り方が現代のように、個人の所有と大量と消費、世間大多数の正義を優先するようになってから破壊は増え続けています。

そもそも分け合うことや贈与すること、あるいは徳を積むということは何のために行うのか。それは単なる物だけが循環しているのではなく、そこにいのちや感謝や恩徳の循環があるからです。

種はこれから人類を目覚めさせる大切な存在として役割を果たしていくでしょう。それぞれの地域で、守る人たちが立ち上がることだと私は思います。

私は私の使命を全うしていきたいと思います。

すべては種のために

私がこの在来種の高菜を販売していくようにしたのは、故郷の伝統野菜を子孫へと引き継いでいきたいからです。そしてこの美味しい味を後世に残していきたいからです。現代では、大量生産大量消費、そして農薬や肥料や改良された種の野菜が出回るなかで本物の古来からある種や味を食べてもらいたいということもあります。

伝統在来種がこの種と味になるまでに千数百年、あるいは数千年の年月を経てこの土地と風土でここまで辿り着いてきたものです。これは先人たちの汗と涙と苦労の結晶ですし、共に厳しい自然を生き抜いてきた仲間としての愛情もあります。

今さえよければいいと、安易に改良をして歴史を途絶えさせたり或いは安価で便利だからと先人の智慧よりも目先の科学技術を優先すれば取り返しのつかないことになってしまいます。

これはこの伝統野菜だけの話ではなく、人類の話も同じです。

今の私たちがあるのもまた、人類がはじまってから遥かな歳月を経て今に至ります。私たちの身体をはじめ、智慧の数々は先人たちの汗と涙の結晶です。その大切ないのちをどう次のために使っていくかというのが私たちの本来の使命です。

すべては種のためにあるといっても過言ではありません。

その種を守るためには、伝承をこの時代でも丹誠を籠めて取り組むしかありません。その方法は、伝統の革新、また本物を提供するということです。伝統の革新については、この時代でも美味しいものをさらに追及するということです。美味しければこの時代でもたくさんの方々の賛同が得られみんなで食べ繋いていけます。費用も時間もその価値に見合うものになります。そして本物については、誤魔化さずに正直に取り組むことです。作り方から育て方、そして加工の仕方に至るまで先人たちの智慧、自然の仕組みにこだわることです。

そうすればこの種をいつまでも守っていくことができます。そして同様にこの種の道を守る仲間が増えていけば、そのうちお米が田んぼ全体に広がっていくようにこの種もまた広がっていきます。

この日子鷹菜にはその未来へ種を託す願いが込められています。

民主主義をはじめ資本主義の中では民衆が賛同したことが正義です。主義というのはそういうものです。しかし、先人たちへの深い感謝と未来の子孫へ恩を譲るために徳を積んでみようとするのがこの試みです。

購入ではなく喜捨のつもりでこの日子鷹菜に関わっていただけますと幸甚です。徳積堂でも、この日子鷹菜を美味しく食べられる場を用意しています。また一緒に農作業のめぐりを体験し種を持ち帰ることができる行事も実施しています。ぜひ、足を運んでいただけますと幸甚です。

ありがとうございます。

美しい味~日子鷹菜~

日子鷹菜にはたくさんの乳酸菌が入っています。この乳酸菌とは「糖を利用して乳酸を大量に作り出す微生物の総称」のことをいいます。

簡単に言うとヒトの腸を通して健康に善い影響を与える「善玉菌たち」のことです。一般的にはお漬物やお味噌、醤油など古来から発酵して和食を支える中心になっている微生物のことです。

この乳酸菌は、科学的には乳酸発酵によって糖類から多量の乳酸を産生して悪臭の原因になるような腐敗物質を作らない作用があります。常に樽の中で微生物が数分から数時間で生死の巡りを何度も繰り返して新しい菌と死菌が蓄積していきます。お漬物はこの発酵作用によって発酵して熟成します。

世間で売られているような浅漬けで余計な旨味調味料などを添加しなくても、長時間木樽で熟成すれば次第に乳酸菌たちの醸す自然の滋味や旨味も出てきます。

それに植物由来の高菜の乳酸菌は、常に塩分濃度や酸度が高かったり糖が少なかったりと過酷な環境でも生き抜けるため動物由来乳酸菌と比べて強い生命力を持つといわれています。

実際にはこれらの乳酸菌は腸まで届く前にはほとんど死んでしまいます。たとえ腸に生きたまま届いてもすぐに消えてしまい乳酸菌がそのまま腸に住み着くことはほとんどありません。

しかしこの乳酸菌は、『触媒』といって腸の中の他の善玉菌たちを元氣にしてヒトを腸から健康にする大切なお役目を果たします。乳酸菌を日々の暮らしの中で摂取し続けていれば、それだけ健康が長く保てるということになります。最近の研究では、むしろ死菌の方が触媒としての効果を大いに発揮するともいわれます。

私たちの伝統在来種の高菜漬けは、少なくても180日間、長いものは15年ほど森の中にある漬物小屋の木樽の中で漬け込んでいます。お塩も天然天日塩で精製塩ではありません。また余計な添加物は一切なく、お水とお塩のみです。木樽の中の乳酸菌は何千億、何兆という数が今も発酵を続けています。

それをそのままに半日かけて乾燥させ、日子鷹菜スパイスにするとその数千憶単位の乳酸菌を日々に摂取することができます。本来、この乳酸菌はどれだけ日常的に摂取するかで腸内フローラや免疫、および健康を左右します。

最後に私たちが心から美味しいと感じるものは、私たちの腸内をはじめもっとも健康に保てるものを感じたときに一番深く感じられるものです。舌先三寸を誤魔化すような化学添加物で味わう「オイシイ」ではなく、心身全てで「美味しい」と感じられる美しい味わいを楽しんでいただければと思います。

むかしながらの大切な在来種の種でもっとも真心をこめてつくる味のなかには先人たちの知恵と美しい生き方があります。この美しい味をいつまでも子孫へ伝承していくために引き続き精進していきたいと思います。

お山のお手入れ

梅雨に入り、英彦山ではあちこちで豪雨の影響で水路が壊れています。水路が変わると、本来のところに流れずに別の水路ができそこから道が壊れていきます。ある意味で自然の自浄作用だと放置することもできますが人が住んでいますから舗道や宿坊までの通路などに流れ込むと人が入ってこれなくなります。それに先人たちが設けてくださった石垣も水が流れることで次第に崩れていきます。そうならないように、早めに水路を復旧して回復しないといけません。

むかしは各場所に人が住んでいた宿坊があり、その周囲はそれぞれの宿坊の主人や家人たちが整備してお手入れしてくださっていました。それが今ではほとんどの宿坊が失われ石垣だけが残っています。

先日も宿坊への通路に大量の土砂や水が流れ込んでいて水の流れが変わっていました。雨が落ち着いてから水路を辿ると上流には大量の木材が流れ込んで水をせき止めていました。水路が変わる原因は、木材にこそあります。また誰かが粗大ごみを捨てており、車のタイヤやそのほかの農機具などもありました。ひょっとしたら空き家や周辺の放置されているものが流されてきたのかもしれません。

それを一つ一つ片付けながら水路を復旧していきます。とても一人でできる作業ではありませんが、できるところはこまめに手入れをすれば何とか復旧できます。これも高齢者になると難しいのかなと思いまながらお手入れをしています。

先のことを考えていくと、今のうちに手を打たなければならないことばかりです。この英彦山は福岡県のお水を全地域に流し込む大切な場所です。そのお水の聖域や聖地をどう守るかというのは、下流の人々の暮らしを守る為にも大切でした。

現代は、治水工事も場当たり的になっていますが先人たちは水源のあるお山、つまり上流域を大切にお手入れすることで下流域を守れると信じていました。その証拠に、私が水路を復旧するのも上流からやらなければ下流だけ治してもまた根本的な解決にならないからです。

上流まで辿ると、どこで木材が詰まっているのか、何が流れを悪くしたのかがわかります。それを取り除かないから次の豪雨で水路や地形事破壊されます。むかしは木材は子孫のためにと植林をして伐採をしてお手入れをしていましたが今は、その木材が倒木して子孫を苦しめる結果になっています。

林業や治水が荒廃すると、即座に人々の生活が荒廃します。何がもっとも大切で、何を子孫のために伝承していくのか。それはお山に住めばすぐにわかります。都市化する社会のなかで、今ではそのお山も都市化で毒されてきました。観光という名の破壊は続き、お山にも都市の原理を押し付けてきます。

本来は逆で、都市にお山の原理を押し付ける方が世の中の暮らしはととのっていくのでしょう。引き続き、お山のお手入れをしながら学び直していきたいと思います。

安心と信頼

私たちは、生まれてすぐ赤ちゃんからはじまります。自分だけでは生きられず、親など信頼できる存在があることで生きていくことができます。

ほんの小さな子どもが親がいないと必死に探し回るように、親がなければ不安で生きていけないからです。それだけ、私たちはまず信頼する存在、安心できる存在を求めます。

自然界では、その期間がとても大切な循環の仕組みになっているようにも思います。

この安心や信頼は、この世で成長していくための原動力になります。はじめてこの世に出てから、この世は安心できるや信頼できると思うと自分でいられます。そう考えてみると、自分であること、自分でいるのとは全て安心から始まっているということです。そして、そうさせてもらえる存在によって信頼が始まるのです。

不安や不信はもっとも成長を阻害していきます。

だからこそ、安心や信頼の環境は成長を見守ることにおいて何よりも大切で優先されるものです。

子どもたちや子孫のためにもその環境や仕組みを場で伝承していきたいと思います。

暮らしの中の遊行

ここ数日、遊行を行いました。そもそも遊びというのは、とても奥深いものがあります。子どもは遊んで育つものです。それが次第に大人になって遊ばなくなっていきます。この遊ばなくなることを大人になったといわれることもあります。しかしそんなことはあるはずがありません。人生というものは、遊びがあってこそ喜びや豊かさがあるからです。

この遊びとは何かということです。

遊びとは、遊び心から産まれます。遊び心は、何もないところから発生します。何もないことが楽しいということ、つまりはないことの中に遊びがあるということです。

現代の価値観では、予定があることや何かする理由がないことはしてはいけないような空気感があります。何をするにも何かをするためにあります。何もしないために何もしないということはありません。

本来は、遊び心はその理由がないところから自然に発生してくるものです。何もないから遊んでいるだけという具合です。遊びは無の境地ともいえます。無であるというのは、単に何もないのではなく無尽蔵に遊べる中にあるということでもあります。

遊びの大切さは、行の実践の中にこそあります。その遊びの行とは、一期一会の今のなかですべてを深く味わう境地でもあります。改めて道中をぶらぶらと歩いていくところに、すべての発見や成長があるということです。

子どもたちを見倣って、暮らしの中での遊行を味わっていきたいと思います。

場の記憶

本来、聖域や神域というものは誰でも入れるところではありませんでした。これを結界ともいいます。それだけその場には、特別な何かが宿していると信じられていました。

例えば、穢れというものを入らせない場というのはそれだけその場を大切に守ってきた場面というものがあります。以前、鹿児島の富屋旅館で兵士たちが家族と最期のお別れをする和室の居間があってそこにいくと凛として佇まいを覚えました。これはこの場所を聖域として大切に守り続けてきた人たちの意識と、そのかつての場面の大切な何かがこの場に宿っていると信じられているからです。

場所というのは、その場所でかつて何が発生したか。そしてその場所のその思い出や場面をどれだけ真心で守ってきたかという「場」の記憶があるのです。

場の記憶こそ、本来の場で守るもので私たちは今でもその場の記憶に感覚的に触れることができます。

肉体や精神や色々なものは生まれ変わることで失われていきますが、記憶というのはその空間にいつまでも宿しているものです。消えたのではなく、その場に永遠に遺るのです。しかしその記憶は、乱雑に穢せばその記憶が感じることができません。雑然として物に溢れかえった部屋で何かを探そうとするのと似ていて見つけられないのです。

しかしシンプルにその場が調っていれば、その記憶を直観することができるのです。

場を調えることが分かる人は、記憶を蘇らせることができる人ともいえます。私の甦生家としての本懐はこの一点に由ります。

引き続き、この時代の役割を果たしていきたいと思います。

もったいない

昨日は、BAのお庭にある自然農の野菜を収穫して手間暇をかけて調理をしてみんなで食べました。採ってすぐのものを、そのままあるもので調理をする。当たり前のことですが、採るところから調理して食べてそれを味わい振り返る喜びは食の仕合せを実感させるものです。

毎日の食事をどのようにしているかは、毎日の生き方をどのようにしているかということと結ばれています。

むかしの人たちは、今のようにスーパーに気軽にお金で買い物をするという具合ではありませんでした。特に田舎では、そんな便利な場所はすぐに近くにはありません。というより、家の庭で採れるのでその方が便利といえば便利だったでしょう。

今のようにパソコンやスマホで1クリックすればすぐに品物が届くなどという奇妙な便利さなど存在することはなかったでしょうから便利の意味も変わってきます。便利が人間の欲望にあまりにも近づいてくると、不便というものが敵のようになってきます。

本来は、便利は不便という豊かさを感じさせる大切な要素で敵ではなく仲間のような存在だったように思います。手間暇をかけることは敵ではありませんし、滅多にないものは貴重な体験だと大切にしたように思います。

なぜこうなっているのかというと、忙しすぎるからです。なぜ忙しいかというと、忙しくあることが価値があると社会的に信じられているからでもあります。そういう忙しくしている人々のために便利さは開発されていきました。不便だと敵なのは、より忙しくなると思われているからです。

この時代、物理的にも忙しくなるのは仕方がないことともいえます。しかし心まで忙しくなる必要はありません。心を忙しくしないと決めると、敢えてする手間暇やお休みはとても豊かな時間になり喜びになります。

そしてそれは日常の足元にある不便さに気づくチャンスでもあります。不便というは、それだけ何かをする行程が増えるというものです。しかし、一度しかない人生で一期一会のご縁と時間でそれを達すると終わってしまうと思えば少しでも味わいたいや覚えていたい、楽しみたいと願うものです。

駆け抜けるように振り返りもしないまま、ただやることを増やして前進するというみんなで忙しい社会や環境づくりに没頭していたらとても「もったいない」ことをしているかもしれません。

この「もったいない」とは、単にまだ使えるものをもっと大切に使おうとすることや単に捨てないということではありません。これは豊かさの本質に気づけずにもったいないという意味もあるように私は思います。

暮らしフルネスも今の時代は、なかなか理解できないこともあるかもしれませんが本来は暮らしがあるだけで充分という仕合せの話です。子どもたちや子孫たちに、徳を譲り遺していけるように実践を楽しんでいきたいと思います。

新たな食育

エネルギーというのは、不思議なものでその活用において等価交換するものではありません。少しのエネルギーでも大量の活動をすることもあれば、膨大なエネルギーでも少ししか活動できないものがあります。

エネルギーにも気力体力精神力というようにそれぞれの力のエネルギーが存在します。エネルギーは、他にも徳力や場力、生命力など様々です。

私たちの暮らしではそのエネルギーをあらゆるところから転換して活用しています。これは自然界も等しく、すべての自然はそれぞれにエネルギーを発揮しあい交換しながら循環させています。つまりエネルギーは、私たちの活動のすべての根源ということになります。

このエネルギーという言葉の由来を調べるとギリシャ語で「仕事」を意味するergon(エルゴン)とあります。そして活動している状態のenergos(エネルゴス)を古代ギリシャの哲学者アリストテレスがenergeia(エネルゲイア)と創作したといます。アリストテレスは、種のように動きのないものを「デュナミス」、花のように活動しているものを「エネルゲイア」と呼んだのが起源です。

このエネルギーを一般的に私たちは力とも呼びます。「力」という漢字の成り立ちは、畑を耕す農具である「すき」の形をかたどった象形文字です。そしてこの力のことを私たちは別の言い方で「はたらき」ともいいます。そのものに元々具わっている活動力のことです。

力はそれぞれに性質も種類も異なりますが、すべてのいのちははたらきを以って活動しています。

一汁一菜や一汁三菜というものがあります。これは日本の和食の生き方が形になっているものです。今のように西洋の栄養学が当たり前になっている現代では、高カロリーで肉食をはじめ贅沢なものを摂取することでエネルギーが発揮されるといわれます。しかし実際には、日本人の古来の食文化の方がエネルギー効率も活動も現代よりも数倍から数十倍発揮されます。

私たちは一つのエネルギーを何によって増幅するのか。その一つにお米があります。むかしの人は玄米のおむすびと梅干しやお漬物があれば、相当な活動ができたといいます。

私たち現代人がなぜ疲れたりだるかったりするのか、そこには本来のエネルギー転換の仕組みを忘れてしまっているからかもしれません。本来の食育の伝承は生き方の伝承だったはずです。その一つにこのエネルギーが関係していることは間違いありません。

子孫たちのためにも、古来からのエネルギーの生き方を伝承し、新たな食育を実践していきたいと思います。