徳の実践

現在、伝統在来種の堀池高菜を日子鷹菜としてリブランドしていますが色々と価値や費用のことで考えています。もともと大量生産、大量消費という農業の在り方では伝統在来種の維持や限りなく自然に沿った品質の高いものを作ることとは反比例するものです。

そもそも農業で作物を大量につくろうとすれば次第に農薬や肥料を増やすことになっていきます。みんなが少量を丁寧に手間暇かけてつくるものを、大量にする過程で機械化や合理化、便利な仕組みを導入していきます。一度、そういうものを導入すると大量につくれるようになり大量に消費されていきます。すると、費用や価格は急激に下がっていきます。

この時何が問題なるのかといえば、少量をつくってきた農業や農家が駆逐されてしまいます。それは価格がまったく見合わなくなるからです。少量で手間暇であれば、一つの作物にはその労力や時間、その他の暮らしの中でかけた様々な智慧や工夫が費用になります。その費用は、大量生産大量消費の時の単価と比べたら数倍から数十倍、あるいは数百倍になります。

そうすると消費者は高いということで購入しません。あるいは中間業者も少量だと儲からないからとお店で扱わなくなり流通しなくなります。そうなると存続していくことができずにやめてしまうのです。

本来は農作物というのは、そんなに大量につくることができません。大量に一つのものだけをつくるとそれだけ土や自然に負荷を与えてしまいます。自給自足する分だけで生きていた時代は、日頃よりも少しだけ多めにつくりそれを購入しあっていました。あるいは物々交換をして生業を立てました。

今の時代は、完全にお金を中心にした生活になっているため、お金が流通するのであればそれを是として農業もその基準に合わせていきます。

例えば、大量に生産し大量に消費するための農業が最も正しいという価値になっているということです。

ただ、この弱点は先ほど言った土を疲弊させ、人を疲弊させ、作物の品質を下げ、健康を害するような生き方をするような環境になっていくことです。お米であれば、元氣のないお米が流通していき本来の元氣なお米は流通すらしなくなるということです。その結果として、土は汚れ傷み、休耕田が増え、潰して太陽光発電の田んぼか住宅地になり、高齢化で後継者も増えず、お米の価値は下がり農家がいなくなりました。

この流れをどこかで転換しなければ、最終的には古来から大切にされてきた種も失い、農地も疲弊し、人も失われ伝統も消え最後は人々もいなくなるということになります。今の時代の過疎化をみると、そこには歪な資本主義経済のありようが根本的な原因になっているのがわかります。

どこかで今までの飽和成熟して劣化してきた経済の仕組みを転換する必要性を感じています。真逆にように感じられるかもしれませんが、徳積循環経済はその可能性を感じています。その第一弾として、この伝統在来種のリブランドや甦生はその価値そのものを転換できると信じています。

引き続き、自分の場所で一つずつ徳の実践を積み上げていきたいと思います。

 

大好きなお水

昨日、ようやく浮羽で手掛けている古民家甦生の井戸水が湧いて出てきたのを確認しました。困難続きだった井戸が甦り、お水が湧いてきてくださって心から感動と感謝がありました。

お水はとても澄み切っていて、冷たく、そして清らかでどこか厳粛さのようなものも感じました。私はむかしからお水への感覚が鋭敏のようで少しの違いでも見分けることができます。

特に鋭敏になったのは、30代のころに体調をひどく崩してずっとお水しか飲めなくなったときにその中でも飲めるお水と飲めないお水があることがわかりそれ以来、お水を飲む感覚が鋭くなりました。また肌感覚の方は、3年前に滝行をはじめてから肌で触るとそのお水の感覚が分かるようになってきました。もともと温泉が大好きで、温泉の香りや成分も感じやすい方でしたから今では触るとなんとなくお水の特性のようなものを実感できます。水気や湿気については、石風呂をつくり蒸気をたくさん浴びているうちに空気中の湿気の密度や濃度、また状態なども気づくようになってきました。

特に古民家に住んでいると、お水の質量は一日中変化をして已みません。そのお水の変化を感じながら過ごしていると、次第に風通しや水分補給のタイミングが分かります。湿気においては、蕎麦打ちをしだしてから微細な湿気が蕎麦の水分の影響を与えるので普段から意識するようになりました。また自然農で田んぼや畑をしていると、水はけのよい土を観察しているうちにちょうどいい水分量というものを理解するようになってきました。

またお水の豊かさにおいては、非常に純度の高い鉄瓶のお水を飲んでいるうちにお水が火で変化していくなかで実感しました。

そう考えてみると、私はお水のことが大好きです。お水の御蔭で私があるともいえます。何が好きですかといわれたら、お水が好きですと即答できます。お水の生き方は、私の尊敬する生き方です。

これから新しい井戸とお水と、いよいよ新たな御米のお店作りに入ります。心強い支援を受けて、いよいよ勇んでチャレンジしていきたいと思います。

徳の場

天命や使命というものは、どのようにして訪れてくるのか。これはご縁によってというのは誰もがわかります。しかしどのような人に天命や使命が降りてくるのか、これはその人の徳に由ります。

そもそも人の徳とは何か、そして何をすれば徳を積むのか。天命や使命を生きることにおいてこれはとても大切な実践であることは間違いありません。

孟子は人の徳を仁義礼智の四徳で語り、それを信徳ともいいました。人に信頼されるということはそれだけ徳を磨いてきたということでしょう。ではどのように徳を磨くのか、そこにこの仁義礼智を実践することを説きます。

天命や使命というのは運が決めるともいえます。どのような運命を持っているかはその人がどれだけ徳を磨いたかということです。

徳を磨くというのは、自己を磨くということです。そして何をもって徳を磨くか、つまりその砥石は何にしたかということもとても大切になります。

例えば、ある人は伝統文化で磨き、またある人は自然で磨き、またある人は清浄な場で磨きます。つまり砥石を先人の知恵であったり、自然の叡智であったり、日々の暮らしの中であったりするのです。

徳を積むことで、その人にしかないもの、そしてその人になるのです。

人は勝手に自分になることはなく、常に自己を磨くことで徳を積みはじめて自分になります。

徳がある人は、多くの人がなびきます。これは古今東西の真理です。ないものねだりばかりする世の中ですが、徳は常にその人の隣にあります。その隣徳をどのように大切にしていくかは生き方と実践次第です。

引き続き、徳を磨いて子孫たちへ場をととのえていきたいち思います。

食文化と伝承者

食文化というものがあります。これはその地域や場所で食べ続けられてきたものです。そこには地域特有の風土や人々の暮らし、そして採取できる食べ物の育ち方などで変わってきます。長い年月をかけて変化してきたのは、単なる気候風土だけではなくその関係性や組み合わせなど奇蹟に近いほどに一期一会のものです。

そして食べる目的も、薬としてであったり嗜好品であったりとではまた味も内容も異なります。

つまりはその食文化は、無数に無限に変化を続けて今に生きているということです。この今も、私たちは新しい材料や作り方や道具で変化して已みません。つまり今も食文化を創造し続けているということになります。

しかし何でも組み合わせを雑多にすれば食文化というわけではありません。その食事を食べるにもっともその素材を活かす方法があります。これこそが本来の食文化ではないかと私は思うのです。

その理由に、在来種の高菜をはじめむかしのお米で今、ちょうど新しい食文化を甦生させていますがやり方は無数に試してみても本来の本物の美味しい味がわかるまでに大変な苦労をしました。そのものの味がわかるというのは、そのものの素材の価値がわかるということです。

そのためには、その土地に住み、その風土で育て、共に暮らし、そして食べるというすべてを一貫して実践し通してみてさらに研究を重ねて気づいていくものです。

そういう気づきは、素材そのものとの向きあいになります。その素材を如何に大切に感じているか、そして尊敬しているかで食文化の原点に気づいていくのです。

時間をかけて醸成されてきた味の中には、大切な文化が伝承されています。その人々の思いや祈りや願いも入っています。これからも真摯に伝承者としての役割を果たしていきたいと思います。

誠の道

現在、ご縁あってお米に親しむ取り組みを深めていますがお米はとても偉大な歴史を持っています。その歴史は、縄文時代から食べて育てて共に暮らしその調理方法も変化させてきました。

まさに今、私たちが食べているお米は伝統文化そのものです。その伝統文化をどれくらい本気で伝承している人がいるかといえばほんのごくわずかです、私は自然農にご縁をいただき、川口由一先生の生き方を学び、誠のお米作りを真似てきました。

田んぼに一人で立ち、自然に寄り添いお水をととのえあるがままの美しいお米の徳を引き出す農的暮らし。本来の伝統文化としてのお米作りは、その生き方を伝承する人たちにのみ継承されていくものです。

そしてこれを私は真の歴史と呼びます。現代の歴史は、歴史とはとても呼べるものではありません。過去の終わったもの、あるいはいのちのない物体として分類したものを歴史と処理して専門家たちが言葉によって表現し伝えられるものになっています。

しかし真の歴史とは、今もむかしから継承し継続しているものであり終わったものを歴史とは私は呼びません。私の取り組む暮らしフルネスもまた、今も変わらずに知恵を伝承しているものが中心です。それは生き方の伝承のことでもあります。

古からの生き方を守らずに、今に歴史を語ることほど愚かなことはありません。たとえ知識がなくても、有名でなくても、評価されなくても、専門的な資格がなかろうとも、その人物が古来からの大切な智慧を実践して継承しているのならそれが真の歴史であり誠の今ということでしょう。

今とは、誠実さを欠けては今とは呼べません。お米が今、本来のお米であるためには親祖から大切にしてきた生き方を守ることです。

そのうえで新しくなることを今を生きるともいいます。論語に温故知新とありますが、古きを温めるということがどういうことか。これは生き方の話ということでしょう。

未来の子孫たちのためにも、誠の道を実践していきたいと思います。

お米に親しむ2

私たち日本人はお米をずっと食べ続けてきました。日本の気候風土にも適応し、私たちの暮らしを根から下支えしてきた存在こそお米です。

お米は、元氣を育てるものです。この氣の元ともいえるお米を食べることで私たちはご神氣というものをいただき氣を補充できるともいわれます。むかしから「一粒のお米には七人の神様がいる」とも言われてきました。具体的には「太陽」「雲」「風」「水」「土」「虫」「人」といった自然の恵みであるともいわれます。他にも七福神などという説もありますが、確かにお米はこのすべての存在があってはじめて実をつけますからそれを神様が宿っているといっても過言ではありません。ここでは詳しくは書きませんが、むかしうちの会社のクルーがブログで書いていた記事を紹介します。

日本人が氣力が漲っていたのもまたお米にあるといわれます。そのお米を弱体化するために、農薬や肥料で田んぼを弱らせ、改良された種と育てかたで元氣が失われていったともいわれます。

私は自然農法で、伝統在来種の高菜を育てていて初めて気づいたこともたくさんあります。先ほどの七柱の神様は、お米だけに宿るものではありません。高菜にも同じことがいえます。この太陽、雲、風、水、土、虫、人は、すべてが役割分担して野菜のいのちが育つのを見守ります。

野生のものには人は入らないかもしれませんが、他はそれも存在します。人が栽培するときに、人の真心や手間が神様になります。

特にお米は、八十八の手間がかかるといわれます。お米という字も、八と十と八の合体してできている字です。もともと八というのは、末広がりの意味もありそれだけ多いや大きいという意味にもなります。つまり大量の手間がかかるということで八十八の手間がかかるといいます。

この「手間」という言葉は、元々は動詞「手まねく」から派生した言葉です。 手まねくとは手を用いて何かを作り出したり行動したりすることです。つまりお米作りは、それだけの作業が発生する大変な作物ということです。

お米作りに比べると、高菜の方がそんなに手間はかかりません。冬野菜で葉物、それに高菜は逞しく強いので手間はかかりますがそこませ繊細ではありません。しかし元氣が漲る味があるものは、やはりこの七柱の神様と人の手間がちゃんとかかるものです。

そう考えてみると、私たちの食べ物はすべてこの元氣に通じています。元氣というのは、私たちには決して欠かせないものです。医食同源ともいいますが、本来は私たちは元氣溌剌に活動するためにご飯を食べます。元氣のあるお米やご飯は、私たちのいのちや暮らしを根底から支えていくものです。

お米に親しみ、お米を尊重し、お米を新しくしていきたいと思います。

お水に親しむ

水垢離という言葉があります。これはもともと垢離(こり)といって神仏に祈願する時に、冷水を浴びる行為のことをいいます。別の言い方では水行(すいぎょう)とも言います。

具体的には身体に付着した不浄なものを川水に流してしまおうとするものです。垢離の字は、当て字で川降り(かわおり)の音がこりに変化していったともいわれます。垢離の漢字は「無量寿経」が出典とあり、尊者または清僧となるための修行者に課せられた儀礼のことをいうといいます。

また水垢離は修験道的な言い方で、古神道では禊ともいわれます。その起源は記紀神話に、 伊弉諾尊 が濁穢 (けがれ)を除くために禊祓 (みそぎはらい)をしたとある故事からです。

穢れは、気枯れともいい、元氣が失われていることをいいます。水気がなくなって枯れそうな植物が、また水分を吸収して元氣溌剌としている様子に似ています。つまり水垢離も水行も実際には元氣を甦生するために行われてきたものではないかと思います。

私も滝行や水垢離をしますが、この時期は特に清々しく、澄んだ水に触れることで元氣が出てきます。水に親しむというのは、私たちの先祖から今に至るまで何よりも大切にしてきたことです。

私が居る場でも、常に水が生活の中心になります。朝は必ずお祀りしている神様のお水を換えいのります。榊の水も交換します。日々にお水からはじまり、寝る前にもお水で終わります。私たちは火に親しむよりも、多くお水に親しみます。

お水の存在が私たちの生命の根源であるのは、暮らしを通してもすぐに気付きます。どれだけお水を大切にしているかで、その意識でお水との親しみ方も変わります。

尊敬というものは、この親しみや関係性が重要です。寄り添うことや見守ること、信頼することは親しみからです。親しみの中にはお互いへの深い尊重があります。当たり前ではないことをどれだけかたじけないと実感できるか。

そういう意味で、水垢離は私たちにとても大切なことを教えてくださっているように思います。引き続き、遊行を楽しんでいきたいと思います。

 

徳を積む生き方

アメリカからの懐かしい友との話の中で「発酵道」につて語り合いました。もともと酒蔵、寺田本家の二十三代目の当主、寺田啓佐さんと親しかったこともあり色々と生前のことをお聴きしました。

私はどこか生き方が似ているところが多いようで、共通点がたくさんあります。微生物についても、むかしからずっと親しくしていてお漬物などの発酵食品づくりをはじめ、自然農の田んぼや畑、また会社経営にもその発酵の仕組みを取り入れています。

自然界は腐敗と発酵というものがあります。しかしこれは腐敗VS発酵ではなくどちらも大きな意味では発酵です。腐敗も自然界に循環するための大切な発酵の一つということです。しかし人類にとって悪い作用を施すのを腐敗と呼んでいるのです。実際には、腐敗も一つの浄化作用ともいえます。この辺になってくると、どれが善い悪いではなく愛と調和の話になってきます。

発酵道のなかでもその辺はよく語られています。以前、俳優の窪塚洋介さんが私のいる聴福庵や場に来られたとき私の実践する「腸活」の体験をしていただきました。諸事情があって彼の番組にはなりませんでしたが、腸が活き活きしすぎて大変なデトックスになったととても喜んでおられました。本質的に腸活になったこと、発酵の一期一会になったことを覚えています。

もともと私はこれらの実践を発酵という言い方ではなく最近ではもっぱら「徳」という言い方をします。私にとっては発酵=徳という定義です。発酵について、寺田啓佐さんはその著書「発酵道」でこのような言葉を遺しています。

「それは決して嫌々やっていることではなく、微生物にとってそうすることが快くて、自分の好きなことをしている。そして、楽しく働いている。私には、そう感じられる。生命のおもむく方向へ、自ら進んで行っているのではないかと。きっとそうやって自分らしく生きることが、微生物にとっては自然なのだろう。まさに微生物というのは、本当の意味で自分のために生きている、「自分好き」なのだ。こうやって微生物の世界をのぞいているうちに、生命のおもむくまま、「自分にとって最も快いことを選択していく」ことが、実は自分を生かす最良の生き方なのではと思うようになってきた。」

ここからわかるのは自分の喜びそのものが全体の喜びになっているのが発酵ということです。そして自分が好きなこと、喜びになることに専念している、その自分自身を深く愛しているからこそ自立して自由にこの世界を素晴らしいものにしていく生き方となるというのでしょう。

これが発酵する生き方、私にすれば徳を積む生き方のことです。

自他を活かす、全体快適に生きる、まさに嬉しき楽しき有難きという仕合せないのちの響き合いです。酒造りの智慧は、生き方の智慧ともいえます。日本酒がなぜ神様の大切な供物の一つなのかはここからも気づけます。

今年はお米のことに深く関わる機会をたくさんいただいています。何よりもかたじけなく有難く思います。引き続き、徳を精進していきたいと思います。

七夕と徳

昨日から色々な友人たちが遠くから遊びにきていただいています。ちょうど本日は七夕ということもあり、これからそうめんを茹でてみんなで無病息災を祈り味わいます。

私たちが何気なく暮らしの中で味わっている行事には歴史があります。その意味もわからずなんとなくそれぞれに楽しんでいますが意味がわかるとより一層その行事の効果や伝承の醍醐味も味わえるものです。

形式的な行事よりも暮らしに溶け込んでいるものの方が私たちは素直に伝承していくことができますが、ふとみんなで意味を感じ直すとその歴史に積み重ねられた豊かさに感動するものです。

いつの時代も、物語と歴史と行事はセットで伝承されてきました。失いたくない大切な教訓や知恵、そして記憶は今を生きる私たちの中にも結ばれていますから新鮮さを忘れないでいたいものです。

七夕にそうめんを食べるというのは、色々な説があります。一つはそうめんを織姫が使う糸に見立てたものとあったり、中国では元々病や魔よけのために小麦粉を練って作られた菓子を食べていたというものもあります。他には中国では帝の子が7月7日に亡くなりその霊を供養するためや、乞巧奠(きこうでん)という手芸が芸事の上達を祈る行事で糸を祭壇にお供えするときに似た供物としてというものもあります。天の川に見立てたり、陰陽五行の5色のそうめんもあります。

不思議ですが、私の家族を含め友人たちもこの時期にはそうめんが食べたくなります。長い年月、行われてきた伝統行事は心を和ませる効果もあるように思います。ご先祖様がそうしてきたように、今も私たちが体験できるというのはとても仕合せなことです。

暮らしの中で信仰を保てることは、何よりも自分自身の喜びがあり徳が積めます。引き続き子どもたちの未来のためにも暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

七夕のものがたり

明日は七夕です。もともとこの七夕の行事は中国から渡来したものが日本文化と融合したものです。「たなばた」という言葉も、本来は「しちせき」と呼ばれていました。これが日本の「棚機つ女(たなばたつめ)」伝説と重なります。

この「棚機つ女」は神様を迎えるために水辺に設けた機屋に入り棚機(たなばた)と呼ばれる機織り機で神様に捧げる神御衣(かんみそ)を織りあげる女性の呼び名です。この「棚」は神棚ともいうように神様が籠る神聖な場のことをいい、機はそれを実現する法具や神具のことです。

日本古来の神話によれば七月六日には水辺の機屋(はたや)で神さまの訪れを待ちます。水の神様をお迎えした女性はその夜に天から降りてくる神様の一夜妻になり、女性自身も神さまになると信じられていましたそしてその女性がその夜に織りあげた布を棚に置き機屋を出て水辺で禊をすると町や村が豊穣になり、厄を祓えるという伝承です。同時に川で禊をし髪を洗うと髪が美しくなるともいわれたそうです。

また願い事を「梶」の葉に書く事から書道の上達をも願うようにもなりました。それに技芸の上達及び福徳を願うようになり特に弁財天、弁天様が豊饒と技芸の上達を叶えるてくれるということで弁天祭と習合しました。そして陰陽五行の五色の短冊に願い事を書き、飾り物を笹に吊すだけの簡略化された七夕祭りになっています。また笹竹は天の神様が依りつくところ(依り代)とされていて願いを込めた飾りものを笹竹につるすようになりました。

そう思うと、色々な伝説が集合して今の七夕になっています。

似たようなものに、神仏習合というものがあります。最初のお水の神様が水分の神で瀬織津姫や宗像三女神と呼ばれたり、仏教が伝来しそれが龍神や弁財天や不動明王になったりと混淆しています。祈り方やお祭りも色々なものが組み合わさっています。

そう考えてみると私たちの先祖は、海外から来た神話や伝説も受容してそれを上手に取り入れて味わいました。それぞれの風土で誕生したものも、同じ願いや祈りを持っているものなら共に祈りお祀りして行事として実践をしてきたのです。

私たちはつい簡略化されたものばかりを見知って関心が薄れていますが、本来はどのようにその行事が発生したのかを深めていると先人たちの大切にしてきた真心を感じるものです。

大切な節目として、味わい深い暮らしフルネスを実践していきたいと思います。