変化と感覚

人間の感覚というのはとても鋭敏です。例えば、何かに力が入りすぎたりすると「力む」状態になります。よく緊張している状態で身体が強張ります。すると無駄に力が入ることで瞬発力もなくなり、怪我をしたりします。また肩こりや筋肉痛なども発生します。すぐに緊張するタイプは、力んでしまうタイプともいえます。

しかし力むということが分かるというのは、力んだことがあるからです。力まないがわかるのも力まなかったことがあるからです。つまりはこれは感覚でつかむものです。

いくら頭でわかっても、実際に力まないはわかりません。何度も繰り返し、感覚でその状態に近づけていくしかありません。実際には、自分の身体の感覚というのは変化を已みません。その時の体調の善し悪しもあれば、蓄積してきた疲労とかもあります。また精神的なものや心の中の状態なども変化します。

つまりその時の状況は変化し続けますからその変化に気づく感覚が必要になります。力む力まないというのは、感覚で行うものです。そしてこれは心身だけでなく、その時の今、つまり一期一会の状況を味わうや活かすといった瞬間と場との変化にも適応していることになります。

同じ状況など一切ないというのが感覚の世界です。これは音の世界も同じで、同じ音なども一切ないということです。一度、聴いてしまった音は二回目には同じ音には聴こえません。それは自分の中にその音が入っているからです。これは経験も同じです。同じ経験は二度とありません、一度体験したらその次は別の経験になっているからです。

毎回、自分の感じるその感覚が変わっていることに気付けるか。これが先ほどの力まない状態に近づいていくことに似ているということでしょう。

感覚の世界というのは、全身全霊を活用します。そしてそれは全体最適を目指していることに似ています。別の言い方では、中庸でありバランス感覚、柔軟性ともいえます。

毎回、その感覚の世界を味わい生きている人は新鮮さを失いません。そして最高の状態というものを自覚していきます。これはそのものの持ち味を喜び、徳を引き出すことにも似ています。

感覚を磨くというのは、どの分野においても大切な要素です。身体的な感覚を法螺貝を通して磨いていきたいと思います。

日本人の真心を味わう

お米というのは、私たち日本人にはとても尊いものです。お米を食べて今まで生きてきましたが、身体を支えていただいているだけでなく心や精神までも深く結ばれているように思います。

私たちはお米作りをしながら神事を行います。お米作りを単なる食べ物を物として栽培するのではなくまさにお米を私たちのいのちを深く支える尊い存在として共存共栄してきた伴侶のように大切にしてきたように思います。

お米はそれだけ歴史があるように、私たちとの深い関係性があり私たちのいのりに通じているようにも思います。その証拠に、お米の味わいなどに変化が出てくるからです。化学肥料や農薬を使っているお米は、えぐみのようなものが出てきます。特に私は玄米食ですから、お米を丸ごと食べています。すると、そのお米の味や香りがはっきりとわかります。白米にして削れば、おおよそ味は強くでませんが玄米のままだとはっきりと味がわかります。

その時、生産する人たちがお米にどのような心や姿勢で関わったかで味が変わるのです。以前、北海道にある牛がひらく牧場の斎藤牧場さんにお伺いしてはじめて牛乳を飲みましたがその味は忘れられません。牛をどれだけ大切に共存共栄する存在として接してきたかが味に現れていました。他にも鶏の卵なども同様です。愛情や思いやりといった真心や感謝は確実に味に現れます。

その味を活かそうとすれば、その味のままに加工していく必要があります。つまりは生産した人の心のままに料理をするのです。

私が在来種の高菜なども自分で種を蒔き育てお漬物にして加工して料理して提供するのは、その「まごころの味」をお伝えしたいからです。これは日本人の真心のことをいいます。

「日本人の真心を味わう時間」こそ、私は日本人の甦生になると信じています。引き続き、小さな実践ではありますが求めている人には革命的な気づきがあることを信じて丁寧に丹誠を籠めて取り組んでいきたいと思います。

日本人の本当の心

日本人とは何か、これを何度も反芻してきましたがそれは先祖伝来の懐かしい暮らしの中にあることを感じています。そしてそれを私は「暮らしフルネス」と名付けて実践しています。

そもそも神道をはじめ修験道、茶道も華道も道というあらゆるものは暮らしの中に存在しているものです。その暮らしは、口伝のように人の暮らしの実践の伝承によって人伝えに智慧の継承が行われてきました。

それを体系化し、組織化し、知識として学問にしたことで宗派と呼ばれるような派閥や系統に分かれていきました。仏道と仏教が異なるように、仏教は数多く宗派が分かれています。分かれたものが一つになることは難しく、その違いが諍いになっていたりもします。

例えば、私たちもどこかの国家に属します。国家に属しているから国家が戦争をすればその戦争に国民として巻き込まれます。本来、地球は一つ、世界は一つだったといってもこれだけ国家が分かれれば一つに戻ることはなかなかできません。

しかし遠い先祖はどうだったでしょうか。

そこにはただ、「道」がありました。

その道は争いのない分断のない清らかな心がありました。常に清らかであろうと心掛けました。これこそ私は日本人の本当の心ではないかと思います。そのために、私たちは場を清めます。

私が実践する場の道場では結局はやっていることは、お水を大切にお祀りして場を磨きととのえるだけです。そうすることで、清らかな気持ちになります。清らかになれば分断や分裂がなくなっていきます。

私たちは教義だけでは、そう簡単に清らかになることはできません。だからこそ場に自分を運び、そこで場に佇み共に磨き合うことで道に入ります。これを私は「場と道」として場道と名付けています。それを実践する人を場道家ということです。

時代が変わっても、日本人の本当の心はいつまでも継承していき子孫たちへも伝承していきたいと思います。

徳の伝承

古典、易経に「義は利の本なり、利は義の和なり」があります。また孔子の春秋左氏伝に「義は利の本なり」があります。これは義=利であり、利とは義のことであるという意味です。

現代はこの利と義は別のものになっているといいます。利益は損益と比較されますが自分が損をすることは利ではない、自分が損をしないことを利とも定義しています。また義というのは、大義とあるように全体最適、自分を含めて全体みんなに利があることをいいます。

孔子は「君子は義に喩り、小人は利に喩る」ともいいます。また「利に放って行えば怨み多し」ともいいました。これは自分だけの利益を追うのは本来の人間の徳ではなく、全体の喜び中に自分の喜びもあることが徳の人であるといいます。そして自分の利益だけを追求すると、怨みが増えると。つまりは、世の中がネガティブで不平や不満やネガティブな感情に包まれていくといいます。

経済が道徳であり、道徳こそが経済であるという言葉に道徳経済の一致というものがあります。これは先ほどの利=義と同じ意味です。

そもそもが、本来の経済とは何かを突き詰めていけばみんなの仕合せと徳の循環です。そして道徳を同じく突き詰めれば、自分の喜びがみんなの喜びになるような本来の人間の徳を積むことが全体最適であり大義になるという意味でしょう。

なぜ今、こうではなくなったのか。

それは利と義を反発させようとする力が働いているからでしょう。不和ともいい、お互いに譲り合うことを忘れ、謙虚さを失い、勝ち負けにこだわり、法律ばかりを増やしては権利ばかりを主張する。これに和はありません。そもそも和というのは、思いやりのことです。お互いを思いやるなかでこそ、利も義も調和していきます。先ほどの怨み多しとは、利に放っているからです。

何のための利益かという、そもそもの動機や理念を定めずに単に目先の利益だけを追いかける仕組みになっているともいえます。例えば、長期的な利益、つまり1000年後など何世代も先のためのことやあるいは地球全体のいのちへの思いやりなどといった動機があれば利益は目先にばかりにならないはずです。

現代は何でも近視眼的になり、みんなが目先のことばかりに追いかけられています。それは余裕のなさやゆとりのなさにあるとも言えますが、これは義に喩る活動が減退しているからでしょう。

かつての私塾、懐徳堂や適塾、昌平坂学問所のような仁義を学ぶところが失われ目先の損得ばかりを学ぶところが増えたともいえます。

私はこういう世の中だからこそ今こそ、日本の先人たちの遺徳を偲び、現代にその思想や学びを甦生させていく必要を感じています。

私の取り組みは小さくても、その値打ちは偉大だと思っています。徳積堂を中心に、子孫たちへと徳を伝承していきたいと思います。

古代からの感覚

お山にいくとお水があります。そのお水の清らかさは明らかに平地とは異なり澄み切った冷涼な透明感があります。そしてそのお水の傍から吹いてくる風がまた同様に清々しいものです。

私たちはこのお山のお水を感じるとき、言葉にできない清浄な元氣を味わっているともいえます。これは本質的には、お山そのもの元氣をいただいているということです。

私たちの元氣というものは、根源的ないのちの正体ともいえます。私たちの身体は元氣と一体になって活動しています。元氣がなければ、いくら身体が動いても気力がなく何もしようとは思えません。この元氣を蓄えるのは、お山の元氣をいただくときに実現するものです。

お山を歩いているだけでも元氣は蓄積します。そしてこのお山の元氣を目に見える形にしているのがお水ということです。お水にはお山の元氣が溶け込んでいるということです。

私たちの元氣は、この溶け込んでいるお水を取り入れるときに発生します。お水がいのちの根源ということです。そのお水をどのように取り入れるかは意識に左右されます。

お水に対する尊敬やお山に対する畏敬があれはあるほどにお水の元氣をいただきます。だからこそ、私たちはお山で祈るのです。そしてお水の力は、火によって顕現します。火はお水を反射してそのお水の持つ徳を活かしていきます。

あらゆる古代の信仰は、このお水からはじまったといっても過言ではありません。そしてお水をお祀りするためにお火を用いたということでしょう。火は自分たちの中にある熱であり水が形を変えたものです。

感覚を研ぎ澄ませていくと、古代から伝承されている叡智に気づくものです。

引き続き自分に流れる古代からの感覚を信じて、精進していきたいと思います。

自然体の生き方

昨日は、2年ぶりに故川口由一先生の自然農の田んぼにお伺いしてご供養をさせていただきました。今でもこの場所に静かに腰掛け佇んでおられるような気配が周囲に薫り、「ああ、野見山さん」と優しく爽やかに語りかけてくる声が心に聴こえてくるようでした。

いつもお会いするときは、私の近況のことや取り組んでいることに真摯に耳を傾けてくださりお土産話に花を咲かせその意味を深めてくださっていました。また真善美について、学んだことや体験したこと、すべて自然に照らし合わせてその叡智や知恵を語って見せてくださっていました。

正直で飾らず穏やかで和やかで安らか、その深い優しさからにじみ出てくるお人柄が大好きで心から尊敬していました。お会いするたびに先生の後ろ姿からは、いつも自然体の生き方を学び直していました。奥様も陰ひなたから見守ってくださり、以前までお元氣であるときにご馳走していただいた親子丼の味が今でも心に忘れることはできません。

いつも何が自然で不自然か、そして自然とは本当はどういうことをいうのかということをその生きざまから伝承してくださっていました。「一つの種がでて、その種が芽吹き、成長し花を咲かせ実をつけ種になり、枯れて斃れて新たな種が芽吹いてくる。」そんな当たり前のことを、ごく自然に当たり前に信じてただ一人の道を歩んでおられる先生に恥ずかしくないようにと私も田んぼに一人で立てる人間になろうと覚悟し、ここまで歩んでこれました。今でも迷いが出たときには、一人で田んぼや畑に立つようにその場所で一人立ち覚悟を見つめ直しています。志と革命は、常に裏で一人です。

墓前にてそして先生からいただいた美しい真心の光は、私の心田の中にしっかりと透明に光っています。このいただいた光を水に静め、私の光に換えてさらなる新たな宇宙へと発光させていきたいと改めて誓いました。

今、振り返るとお会いしてからずっと先生と一緒に自然の中にいました。今の私の周囲の自然のなかにも音の中にも先生の自然を感じない日はありません。それくらい自然の生き方の道に、導いてくださっていたことを思い改めて感謝がこみあげます。

「無為自然、いのちが光り輝く自然農、種は空の彼方に、花はこの心に、まきむく未来へ結ばれる。」

一期一会のご縁に心から感謝しています、その感謝に報いるためにも自然の生き方の続きを私も磨き続けます。引き続き風に吹かれて次の章へと喜び勇んで邁進します。

これからもよろしくお願いします。

自然の叡智

もともと文化というのは先人の知恵です。先人の知恵をどのように今でも暮らしに活かしているかで文化人かどうかがわかります。つまりは文化人とは、先人の生き方を尊敬しその知恵を今でも伝承している人のことです。

文化人とは決して何か崇高な職業や有名な伝統文化を継承している人たちだけのものではありません。つまり連綿と結ばれてきた歴史のなかで、知恵を守り続けていることが文化人ということでしょう。

地球のあちこち、つまりそれぞれの地域風土にはそれぞれの文化があります。これは長い年月の中で、その風土の知恵を活かしてきたものです。例えばこの地域を広げていけば、福岡や九州、西日本、日本、アジア、世界というように風土と文化は密接でそのエリアのなかで気候や自然環境によって暮らしと共に変化してきました。

私たちは都市化した生活に切り替えてから風土や文化を尊重するのをやめていきました。自分たち、人間の都合で便利な生活をするなかで最も失われていくものがこの文化や知恵ということでしょう。

知恵においては、私たちは自然の叡智や循環の仕組みをお借りして恩恵を得てきました。この知恵は、深い尊敬から常に産まれてきます。深い尊敬がなければ、浅知恵というようなものになります。

深さというものは、積み重ねてきたものです。経年変化に対して、知恵を活かし続けてきた証でもあります。それはとても深い知恵であり自然そのものの叡智に近づいていきます。

そう考えてみると、知恵とは自然の叡智そのものであることに気づきます。私たちも自然の存在として自然の叡智の結晶の一つです。だからこそ、自然であることを忘れずに自然の叡智を活かすこと。むかしの農家やむかしの先人たちの生き方をよく学び直して今に活かし続けることがその叡智を継承していくことにもなります。

常に新しいことにチャレンジはしていきますが、子どもたちの未来のためにもその根元にはいつも自然の叡智があることを忘れないようにしていきたいと思います。

真心と味わい

私たちの日頃から食べているものというのは、生き方が入ってくるものです。つまりは食べ方が生き方だともいえます。またどのようなものを食べてきたかで今の身体もできていますから、身体から受ける精神的影響もとても大きなものになります。

医食同源といって、食べるものはそのまま体の滋養になります。滋養のために食べるものから、嗜好品のように食べるようになると食べ物も変わります。当然、意味が変われば味付けも料理法も変わります。

食べるという定義も、変わってくるように味の定義も変わります。そうなると美味しいというものの定義も変わります。嗜好品的な美味しいと、滋養的な美味しいとでは味の感覚も異なります。

私たちは同じ言葉を使い表現しますが、その意味は目的や動機、意識によって異なっているということでしょう。

だからこそ味わい深いものは、味の感覚を磨いていくことでより感じられるようになります。それはお水を飲むというだけでも、味は異なり、美味しいお水というものもまったく別の異なる味になるということです。

これは真心というものも同じです。真心も何が真心かというものかは、ある程度の型があったとしてもその心に真心かどうかはその時々で変化します。つまり何が真心かというのは、先ほどの味のように目的や動機や意識で同じにはならないのです。

だからこそ、感覚をいつも研ぎ澄ましている修練や練磨が必要であり真心の生き方を実践するから真心がその都度変化してその時々の最適な真心として実践されていくのでしょう。

味と真心はそういう意味ではとても似ています。

子どもたちや子孫のためにも、真心の生き方を味わっていきたいと思います。

徳の場

すべての物は心を顕しているものです。そしてそれを集めて人はそれを場と呼びます。これは単なる場のことではなく、心の場ということになります。その心の場には、徳が集まります。それを私は徳の場といいます。

この徳の場というものは、人間の心を磨くための場です。そしてそれが学問の道であり、生き方や働き方そのものになります。

それを体験するということが、人生の豊かさに気づくことではないかと私は思います。

聴福庵に来庵される方々は、その場の持つ徳に感動されます。それはその場が心を形にしたものだからです。そしてその場を共に磨くことでその心を学びます。心を学ぶことは、徳を学ぶことです。

なぜ人が徳を学ぶのか、それは忘れてしまった形を思い出すことです。現代は、鋳型に嵌め込まれるように型通りの生き方を押し付けられてきました。本来の自分の持ち味や徳というものは、自らの心が形になっていくものです。そしてそれは懐かしい道具や暮らしなども同様に形として残存してきました。

今ではガラリと変わってしまったその形を、徳の場に来て体験をすることで心の形に気づき直します。

これは一般的な学校や塾で勉強する暗記中心の学問とは異なるものです。つまり実践学問ともいい、自己の徳を学び直す学問ともいえます。古民家をはじめ古いものは単に劣化したものではありません。そこには心の形があり場があります。その場が甦る体験というのは、単に古いものが新しくなったのではありません。

これはむかしも今も「徳の場」になっているということです。

徳の場の体験が、本来の生き方や働き方や人生をよりよく豊かになる学びに結ばれます。人生の豊かさは、徳に気づき、徳を磨き、自らも徳になることです。

この時代の徳を学ぶ場として、世界一の徳の場を体験してみませんか。

託す託されるご縁

以前、後のことを託そうとしていた親友が先に亡くなりました。実際に時間が経って振り返ると託そうとしていたはずが何か別のものを託されたことを感じました。それはどう生きるのか、どう生きてほしいのかというものです。

彼はもう亡くなっていますから現実的には生きていません。なので彼に託すはずだったものも丸ごと呑み込み、さらには彼が願ったことを託された形で今、私が生きているということになります。

この託す託されるというのは、託す側と託された側があるということです。ただ託す側はもうできないから託すのであり、託された側もその人ができなくなったから託されたということになります。この関係は、両方ともできなくなったらそれまでということになります。つまり、できる限りは託されるけれどできないことは託されてもできないということです。

そして託されたものも、同じことを託されたわけではありません。その託されたものをどうするのかは自分で決めることができます。なぜなら、託す側はできないのだから託された側は自分でできることをしていくのです。

同じ託されたものでも、嫌々引き受けるものもあればそれを喜んで引き受けるものもあります。そして願いというか祈りのようなものを引き継ぐものもあれば、負の遺産ともいえる問題そのものの解決を託されることもあります。それは託された人の心次第ですから託した側の責任ではありません。

リレーであれば、バトンを渡すことに似ています。そこまで走ってきてバトンを渡してそこから先はその人が走ります。バトンを返してといっても託したのだからバトンは返せません。バトンを渡した後も、ずっと走ってさらには追い抜いていったりすればバトンを託された人もバカバカしくなってバトンを手放すように思います。

そういう意味で、生死というのは分かりやすい託し方なのかもしれません。いつか、私も私がそうであったようにちょうどいいタイミングで一期一会に託す人が顕れ、その人に託せる日が来たらいいなと感じます。一度きりの道を歩むなかで、たまたま巡り会ったゆきずりの旅路のご縁で出会った善い人に託せることは仕合せなことかもしれません。

善い人というのは、生き方が善い人のことです。

これはきっと、善い生き方をしていた人が引き合うように思います。そういう善い生き方をしてきたからこそ、託す託されるが美しいものになるのでしょう。託された側は、より善いものへと磨き高めていく喜びがあります。

託された以上は、自分の責任で自由に善くしていつの日か託せる人が顕れるその日が来るのを楽しみに味わいたいと思います。