古来からの技術

風というものはお水と同じように不思議な存在です。ただの空気ではなく、そこには確かな氣脈というような氣を感じます。古来より風水とあるように、水と風は表裏一体、一心同体に活動してはいのちを象ります。性質も似ていて、また効果も同質です。

よく考えてみると、地球は水の惑星です。その水は海水や川のように地上を流れるものと、空気や大気といった空中に流れるものがあります。そのどれもがお水に包まれています。

地下では深海の奥で静かに動き、天上ではオゾン層をはじめ宇宙との境界線で静かに厚く調えています。この水の流れを司っているのは、螺旋の力と陰陽冷熱といった偉大なゆらぎです。

ゆらぎの中で、風も水も変化を已みません。無限の組み合わせが宿り、永遠に調和するために循環を続けます。

この循環のゆらぎを通して、ゆりかごがいのちを育み多様な生命が共生し貢献しあい生命を盡します。

風と水はまさにいのちのゆりかごということです。

これは人間の身体で観察するとさらによくわかります。私たちの体内には、血液が常に循環して流れます。そして呼吸を通して酸素を送り込み、二酸化炭素を出すことで活動します。ここでも水と風がゆらぐことで全体の調和を循環が司ります。

循環していることをやめてしまうということは、風と水の流れを滞らせるということです。

組織においても、停滞というものも、風穴をあけるという言葉もあります。

風通しをよくして風穴があくと、それまでの停滞が嘘のように流れていきます。これは風の技術です。また川や海も、水が全体をよく流れていくようになれば循環は快復して生態系が豊かになります。

古来の技術は今でも普遍です。

引き続き、場づくりの甦生を通して日本人や大和魂を磨いていきたいと思います。

初心を育てる

昨日、親しい友人が宿坊に座禅に来てくれました。一緒に掃除などの作務をし、場を清めて調えてからご祈祷をして座禅をします。英彦山の美しく澄んだ風と静けさ、水の音を聴きながら穏やかに心と向き合います。

座禅は、毎回、座る時の心境が異なり新たな発見があります。

座禅が終えたあとは、お茶とお菓子を用意して一緒に内省をします。お互いに心境を吐露したり、相談を聴いたりと一期一会の時間を過ごします。

人生の中で、それぞれに大切な節目や分かれ目というものがあります。

そのとき、どのような覚悟で何を決心して行動するかでその後の人生は大きく変化します。二度とない道だからこそ、毎日、どのような選択をしたかというものが長い目で観て大きな変化の源泉になります。

人生は半分は導かれるように運ばれていきます。

自分がどうしてようが大きな大海や大河の中の小舟のように風に吹かれているだけです。しかし、もう半分は自分の心がどうであったかという主導権を持つことができます。導かれていることを感じて、どのような意味を感じたかは唯一無二の和合です。

折り合いをつけながら生き方をみつめていきます。

ゆるされている自由、思いやりのなかの徳、限りのある役割、無限無数の組み合わせを羅網のように風呂敷をひろげコロコロと転じていきます。

座禅をするというのは、螺旋をめぐる地球のように静かに円環して調和していることに似ています。

引き続き、丁寧な暮らしを心がけ、忙しくても忙しくならないように初心を育てていきたいと思います。

心を調える

人は、何かを決めるとき必ず初心というものが必要になります。これは何のためにという問いとつながるものです。なぜ今があるのか、なぜこうなったのかとよくよく内省しているとそれは自分自身が自己を導いて今此処にいることがわかります。

唯一無二の役割を持ち、自分がそうしたいように今に自分を運びます。

運不運もありますが、基本的には自分でその時々の覚悟を持ち判断、決断したことで今があるからです。もちろん、思い通りにはならないことばかりですし偉大な循環の中で自分の意思でコントロールできるものなのはわずかです。

しかしどのような流され方をしていたとしても、その時々にどのような心の持ち方をするかは決めることができます。

つまり心というのが、その時々で何のためにと自ら問い決心を確認するのです。

人生は目に見える世界は、外側の現実ですが実際には同時に目に見えない内側の世界、つまり心が一心同体に歩んでいるものです。

心を大切にしてきたから心が感応します。

忙しいという言葉は、その心を失っているということを意味しますがこれが如何に一心同体を分離するものなのかがわかります。

どのような状態でも、心が付いてきているというもの。

混乱したり、激しく変化する時こそ、心を落ち着け、心を定め、初心を振り返ることで元の本来の自己を取り戻していけるのです。これを繰り返すことで、迷いも少なくなり、どのような時でも判断を自分で納得できるようになっていけるように思います。

忙しい時こそ、忙しくしない。

忙しいことに氣づいたら、忙しさを手放すこと。

場を調え、よく座り、今をみつめる。

心を調えていきたいと思います。

井戸端の甦生

井戸端という言葉があります。これは井戸の周囲です。その周辺でむかしは人々が集まり様々な話し合いや対話をしていたといいます。それを現代でも井戸端会議ともいいます。もう井戸が身近ではなくなっていますが、その言葉だけが残っているのです。

実際に、飯塚の暮らしフルネス道場の一つの和樂にはむかしの井戸があります。いつの頃の井戸かわかりませんが、手掘りで掘った浅井戸です。ちょうど棚田の下にある藁ぶきの古民家ということもあり、たくさんの人たちがいつも来てはここに集まっていたと地域の方から聴かされました。

むかしは井戸があり、その井戸のお水をみんなで分け合いながら暮らしていました。

井戸はいのちの水が湧く場所であり、そこで地域のこと、それぞれの人生のこと、また助け合いや学び合い、つながりや安心などを得ていました。

つまりお水が、人々の安心の場になっていたのです。

この安心の場で話し合いをすることで、お互いを思いやりながら助け合う風土が醸成したように思います。

今では個人宅に、蛇口をひねれば水が出ます。確かに便利かもしれませんが、その分、この井戸端が失われました。

あるご縁から改めて井戸端の甦生をしてみようと思い、これから新たに井戸を掘ることを決めました。

お水を通して、お水が湧く井戸を甦生することで地域を今一度甦生していくという試み。場の実践を通してさらに学び直していきたいと思います。

甦生

法螺貝のことを本氣で深めていると、この世の原理原則を司る大切な存在であることがわかります。これは法螺貝に限らず、この世の貝という存在を人類がどう観たかという根源的な問いになります。

そもそも貝は、何をしているのか。

閉じたり開けたりしながら呼吸をします。そして空間の中に身をいれて呼吸します。それが失われた後の存在が貝殻です。その貝殻を用いて新たないのちを甦生し人類が活用していきます。

世界では貝はどのように活用されてきたか。日本では、死者を生へ甦生します。インド・チベットでは、神聖な音によって教えや秩序を響かせます。ギリシャでは、海から女神を誕生させ、メソアメリカでは、貝から風・息・雨という生命力が出てくると信じられます。アンデスでは、貝そのものが「海の娘・水の母」と呼ばれ、雨と豊穣をもたらし、アフリカでは、人間の運命・繁栄・神意と結びつけます。エジプトでは、豊穣と守護。ポリネシアでは、暗い祖先界から神々をこちら側へ呼び出す存在。マオリやマルケサスでは、貝の音が誕生・到着・出発・危機を告げる道具です。

貝は世界の境界線を結び繋ぐ、間にあって別のいのちといのちを調和させている存在のようになっています。貝は通じるのです。

仏教では、空間の中に「彼岸と此岸」というものがあります。あちら側とこちら側です。二つの世界で一つであるという観念です。

この宇宙はすべて「二つで一つ」になって存在します。

例えば、お水も二種類のものが調和して安定します。これはお水だけではなく火も、木も光もあらゆる元素は二つで一つになるから私たちはその存在を観ることができます。人間でも、生死があり陰陽あり、男女ありとあらゆるものは二つの存在の境界線を結ぶ「境地」によって着地するのです。

貝という存在をよくよく深め観察すると、貝殻を通してあちら側が響きます。法螺貝であれば、息を吹き込むことで出てくる音の響きは貝の中の空間を通して「こちら側があちら側」の世界へとつながります。

この螺旋の神秘は、宇宙の原理を象ります。

そのうち物理学が証明するのでしょうが、ブラックホールもまた同様にあちらとこちらを結ぶ境界にあるものです。

この境界の境地とは何か、それが「甦生」なのです。

私が取り組む甦生の定義は、この螺旋の空間の妙味を磨くことです。

そろそろ法螺貝づくりも百を超えます。私にとっての法螺貝は、甦生の境地の伝承の一つです。どれだけの人たちが甦生の境地に至ってきたか、縁起と刻が経過していくのを見守れるのが仕合せです。

皆さんに大和魂の循環と仕合せの螺旋の波動が共鳴するようにいのります。

導きの法螺貝

昨日も英彦山の守静坊で新しく法螺貝を吹く羅漢とご縁をいただきました。もう少しで百羅漢ですが法螺貝の御蔭さまで多くの志ある素晴らしい方々に出会えたことを改めて感謝するばかりです。

もともと法螺貝をはじめ貝というのは、神話の時代より人類と共に歩んできた大切なパートナーであり師であり先達です。貝によって人生が導かれ、貝によって守られるという不思議な体験を持っている人たちがたくさんいます。

私自身もまた法螺貝によって守られ、螺旋の道を歩んでいくことができています。よい波動や共振、倍音をはじめ宇宙を包み込む螺旋の法則を身近に味わい暮らしがとても豊かになりました。

世界の貝との関係をよく観察するとどのように貝と人類が道を歩んできたのかが垣間見ることができます。

例えば、スペインのサンティアゴ巡礼では、ホタテ貝が巡礼者の象徴であり、今も道標として人々の進む方向を示しています。さまざまな場所から歩いてきた人々が一つの聖地を目指すことから貝こそ旅の象徴となっています。西アフリカでは、タカラガイが富や生命の象徴となるだけでなく、占いに使われています。貝によって現れた形を読み、自分が置かれている状況やこれからどう生きるのかを考える象徴となっています。インドでは、シャンカ貝はが神聖なものとされ、その音は神々や聖なる世界と結びつき道の覚醒の象徴となりました。

他にも世界では貝に纏わる伝説をはじめ、今でも伝統として大切に関係を続けているものがあります。単なる貝は食べるものではなく、貝によって導かれ助けられた特別な存在として今も歴史に息づいています。

日本では貝は甦生や再生の象徴となっています。古事記において、大穴牟遅神は、兄たちの策略によって焼けた大石に押し付けられ負傷し生命が途絶えます。そのとき天上から遣わされるのが、キサガイヒメとウムカイヒメという二柱の貝の女神です。キサガイヒメは失われた身体を集め、そしてウムカイヒメはそれを受け取り、母の乳汁をもって生命を再び満たし甦生させるのです。大穴牟遅神「麗しい壮夫」として新たな姿を得て再び歩き出すとあります。貝がいのちを甦生させ、新しい存在にしていくのです。

この物語こそ、私が法螺貝を英彦山でつくる理由であり本来のいのちを甦生させようとする試みでもあります。死んで終わりではなく、いのちがカタチを易えて別のいのちとして甦生するという循環の妙です。

今の日本があるのは日本の神話に登場する二柱のキサガイヒメとウムカイヒメがいのちを導いてきたから今があります。

法螺貝の声を聴きながら、その徳が循環するようにこれからも精進していきます。

自然の場の甦生

自然と書いて「じねん」と呼ぶ言葉があります。現在、自然はしぜんと呼ばれ欧米のnatureの意味が強く使われますが東洋では本来、自然はじねんと呼び「おのずからしかり」という意味で用いられてきました。

これは老子の「道法自然」から由来します。これは道は自然を法とするとし、道とはおのずからそうなる働きに則るものだという意味です。全文は、「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」です。また日本では、浄土真宗の開祖、親鸞が「自然法爾(じねんほうに)」という言葉を用いました。この「法爾」の「爾」も「そのようである、あるがまま」という意味です。おのずからしかりとして、人のはからいを離れたところではたらいているものにすべて丸ごと信じて任せるという生き方です。

まず前提として、何が自然で何が不自然かという問いがあります。自然が分かるというのは何か、不自然とは何かということが観えるかというものです。

現代は、あらゆる自然災害が発生します。そこに対して、環境改善や自然保護などという人間の意識もありますがそれは少し離れてみると傲慢ではないかと感じるものもあります。謙虚に静かに自然災害をみつめていたら何が自然なのか、何が不自然なのかが洞察できるものです。

自ずから然りとは、神はからいとも言えます。

何をしようとしているのか、どうしたいのか、自然の法理や宇宙の働きにすべてお任せしていると人間がどうあるべきか、何をすることが自然体であるかに氣づきます。

親祖をはじめ先人たちは人間が自然と共に道を歩むことを智慧として伝承してきました。それを「暮らし」と呼びます。例えば、場が調っていくようにし、いのちが循環できるように調え、多様な生き物たちが生を全うして持ち味を活かせるように見守り、季節の巡りにあわせていのり、日々、供養をして感謝し謙虚に心身を静かに調えていきました。その自ずから然りの実践こそが「暮らし」の本義であったのです。

宇宙をはじめ地球は常に調和を保つようにはたらきます。人間がそのはたらきを阻害して循環を滞らせれば自然はそれに応えます。縁起と関係性によってはたらくのです。滞るのをまた流そうとして自然ははたらきますから、そのはたらきにあわせて人間もまた滞らないようにしていくことがはたらきに任せることになります。

はたらきに任せるというのは、何もしないことではありません。

人間も一緒に「じねん」になることです。

それが暮らしを調えていくことです。

私が実践する暮らしフルネスの根源は此処にあります。

自然のリズムで生きることや、自然のお手入れをすること、自然の循環の邪魔をしないことや、子どもが子どものままあるがままであることや発達を邪魔しないことなどもすべてこの道法自然の意識を保つ智慧と工夫です。

「かんながらの道」という日記もまた、この「じねん」の意識の醸成と習慣、つまり暮らしの一部としての実践なのです。

残された私のいのちはすべて、この「自然の場の甦生」に使い切ります。

いつも一期一会の師の絶妙な声掛けと道しるべに心から感謝しています。

意識と暮らし

自然界ではそれぞれの生存戦略というものがあります。どのように共生し補完し合うことで生き残るか、あらゆるいのちがお互いの持ち味を活かし、そしてお互いに分け合い循環して生命は循環を続けています。そこには確かな生き物たちの暮らしがあり、数千年、あるいは数万年も同じように連綿と続けて継続され戦略は保たれています。

では人類はどうでしょうか。人類もその土地に適応してあらゆる文明が産まれまた文化が興りました。長い時間の中で人類同士の争いが発生したことで統合されたり分離したり、あるいは滅亡を繰り返しながら今があります。

かつての遺跡などを調べていると、その時代の人々の息遣いがあります。場所や道具、そして文字や建造物からその時々の人々の意識や暮らしが観えてきます。

そもそもこの意識や暮らしというものこそが、この文明や文化の本質でもあります。

歴史的建造物があったとしても、そこに暮らしがなければただの古いむかしの建物です。またいくら道具が遺っていても使い方もわからければ失われた技術というものになります。

私が暮らす古民家などでも、かつての懐かしい道具があります。使い方がわからなければそれはディスプレイのように飾るだけのものになります。そこにかつての暮らしが甦生されたら道具たちも本来の姿に回復します。

例えば、日本ではいのちを活かすような道具がたくさん発明されました。大量生産大量消費のような道具ではなく、いのちそのものが失われないような道具を使って暮らしを調えてきました。

ここには、いのちを尊び、大切にいただくという意識が宿ります。

意識と暮らしというのは、分けられるものではありません。本来、意識が暮らしをつくり、暮らしが意識を継続させていくのです。

だからこそ、今の時代もそれが失われないことが日本文明や文化を維持することであり長く子孫まで生き残るための大切な戦略の伝承になっていくのです。

暮らしフルネスは、まさに温故知新した意識と暮らしということです。

引き続き、場を調えて暮らしフルネスを次世代へと繋いでいきたいと思います。

差の本質

この世界には「差」というものがあります。例えば、温度差や高低差、個人差などあらゆる差があります。この差というものをよくよく観察していると、この宇宙は差によってあらゆるものが「流れる」ことがわかります。

熱伝導なども差によって発生します。私の実践する祐徳石風呂はその原理によって心身を深く癒します。

備長炭を使って、特定の周波数を放つ鉱物、つまり石を長時間をかけてじっくりと熱を伝導させていきます。石はその熱を石の内部に取り込んでいきます。振動が熱によって複雑に凝縮され、それがある一定の運動量まで昇りつめます。そして火を落とせば、時間をかけて周囲の温度差に合わせて熱が移動していきます。

時折、植物の生薬やお水をかけることによりさらにその熱伝導の差の運動は複雑な変化を創造します。この時、その熱が体内のあらゆる存在と関係を結び振動させていきます。また地下水のお水をかけ流し、その流れの中に入ることで振動がさらに揺らされ調和を探していきます。

差というのは、つまり調和をもたらすというものです。

これは宇宙や自然の原理の一つということでしょう。差を分けて、差別をするのではなく差があるからこそ調和がはじまるという真理がある。

これは温かいお茶を飲むときでも、自分の健康を保つ温度が36度くらいで保たれているものすべて同じ原理が働いているということです。

流れないものを流すというのは、「差」を産み出すことです。逆に差がないことをマンネリ化などということもあります。大事なのは、何の差を創造するか。この時、その差は関係性であることは自明の理です。

これは冷熱や静動の間、働きそのものの差を見つめるということです。

田んぼの稲を観ていると、最近は熱帯夜が続き夜に温度が下がっていません。つまり差がなくなっているということです。差がなくなれば循環は止まり、流れがわるくなり生命は弱ります。生命はそもそも流れの中に存在するものですから流れをどう澱まず滞らさないようにするのが技術です。

関係性を通しての場づくりに、この差は欠かせません。暮らしフルネスの場づくりの技術を調えていきたいと思います。

普遍的な共通の真理

古いものを甦生していると、古いということの定義が人によって異なることがわかります。例えばある人は、懐かしいことを古いと定義し、またある人は飽きたことや時代に合わないことを古いと定義し、またある人は使われなくなった異物のことを古いと定義します。

同じ古いという言葉であっても、その認識や定義は人によって異なるから当然、古いものが甦生するといってもその意識が伝わるわけではありません。

実際に私は古いというものの定義は、幅広く深くもっています。その定義の一つには、普遍的であるというものがあります。

これは古いと私が直観するときは、普遍的な共通の真理があると実感するときです。そしてそれを今ならどうするかと甦生させていくということです。

この甦生という言葉も様々な定義があります。例えば、寿命を延ばすことを甦生と定義するものもあれば、止まったしまった時を動かすことを甦生と定義するもの、また生まれ変わるものを甦生と定義するものもあります。

私にとっての甦生も古いと同じくらい、定義に厚みがありますがやはり今も生き続けていること、永遠や永久などというようにそこに流れている普遍的な共通の真理を辿ります。

つまり古いものを甦生するというのは、普遍的な共通の真理を実現するということです。

人類をはじめ地球、宇宙などが連綿を結んでつなげてきたものの中で今も在るということでしょうか。

暮らしを甦生するのは、まさにそれを実践しているということです。

だからこそ、場を温故知新していくのです。

古いものを大切にするものこそ、もっとも新しいことができる。

普遍的な共通の真理の本質とは、道理を生きること。つまり道を歩み続け、道であることなのかもしれません。

復古創新こそ私の人生の醍醐味として、遊びながら挑戦していきたいと思います。