共感

人は一緒に居たい人と情報共有するものです。これは情報共有とは、人生の中で一緒の体験がしたいからです。あるいは、一緒に体験がしたいというものです。

ドイツの詩人、フリードリヒ・フォン・シラーの「友情は喜びを二倍にし、悲しみを半分にしてくれる」というものがあります。

人は一人だけでは喜びも一つです。しかし心をゆるす友がいたらその喜びは二人分になります。それはその友が自分のことのように喜んでくれるからです。同時に、悲しいことがあるとき、同じように悲しんでくれる友の御蔭でその悲しみの半分を引き受けて悲しんでくれます。

つまりまるで自分のことのように感じてくれるからです。共感とは共に在ることです。共にというのは、本来は自他一体の境地です。相手がもしも自分だったらと共感し、もしも自分が相手だったらと共有する。共存するというのは、自他の別を持たないで心を一体にしているということでしょう。

例えば、痛い思いをしている時に痛かったねと心から共感してもらえると痛みが和らぎます。またよかったことがあり苦労が報われて感動して泣いたときに一緒に泣いてくれたら感動が一生の思い出になります。

そしてこれは生きている人間だけで起きることではありません。例えば、一緒に暮らす動物においても昆虫においても植物にも同じことがいえます。お野菜を育てているなかで畑の作物を見守るときにも感じるものです。

また神様やご先祖様のような目には観えない存在であったとしても、心を澄ませば共に喜んでくれたり悲しんでくれているのを感じることがあります。これは共に在るからです。

共感というのは、本来は一緒に生きているといういのちの和合のことであり徳の循環と同じです。共にあるからこそ、苦しみも痛みも共にし、喜びも感謝も共にする。地球ではこの徳のめぐりを共にすることで私たちはいのちを分け合い、時には与えあい結び合い存在しているのです。

共感の素晴らしさは、人生の妙味そのものです。

共感するには、共感しあう相手があります。これは大変貴重な存在で一期一会です。人間らしさや人間の優しさはこの共感するという行為から育つものです。共感しあう存在に感謝して、人生の歓びや妙味を楽しみ子孫たちへその仕合せの徳を結んでいきたいと思います。

聴されて聴く

徳の真髄の一つに「聴されて聴く」というものがあります。この聴く(きく)は、聴す(ゆるす)とも呼びます。私は、聴福庵という庵を結び、聴福人という実践をしています。この実践は、あるがままを認め尊重して聴くという意味と共に自然にゆるされているという徳が循環するいのちを聴すというものです。

私が創造した一円対話という仕組みは、この聴く聴すという生き方をみんなで一緒に取り組んでいこうとしたものです。

そもそも私たちのいるすべては分かれているものはありません。人類は言葉の発明から文字が誕生し、文字を使うことで複雑に無限に分けて整理していくことで知識を得てきました。本来の言葉は、言霊であり精霊や霊性、つまりは自然あるがままでした。

自然からいのちや霊性を切り離して分析し、単なる物質や知識として認識することによって私たちはこの世の仕組みや真理を分かるようになりました。しかし同時に分かることによって本当のことが分からなく、あるいは分かった気になるようになりました。この分けるという手法は、分断の手法です。本来、和合したものを分けて理解する。しかし分けたものは元に戻りません。なぜならそもそも分かれていないものを分けているからです。そのことで、人類は争い続け、お互いを認め合えず尊重できず苦しみや憎しみが増えていきました。

例えば、ご縁というものも分かれていたり切れるものではありません。最初から永遠に結ばれ続けていてあらゆるご縁の導きによって今の私たちは生きています。つまり最初から分かれているものはこの世には存在しないのです。それを仏教では、羅網という道具で示したりもします。私はそれをブロックチェーンや自律分散の仕組みで示します。

私がこの聴すという言葉に最初に出会ったのは、高田山にある親鸞さんの手帳のメモ書きです。そこには、「しんじてきく、ゆるされてきく」と書かれていました。

これは何をいうものなのか、全身全霊に衝撃を受け感動し、そこから「聴」というのを真摯に深め続けて今があります。この聴は、聞くとは違います。徳に耳があります。よく自然や天や自分の内面の深い声を聴くことを意味します。

人類が平和になるには、聴くことです。聴けばほとんどのことは自然に解決します。何かきっと自分にもわからない深い理由があると心で認めるとき、お互いを深く尊重しあうことができます。それが「聴す」なのです。

私の故郷にある聴福庵には、その聴で溢れています。そして徳積堂では、その聴福人の実践、一円対話を場で実現しています。

百聞は一見に如かずです。真剣に対話に興味のある仲間は訪ねてほしいと思います。

最後に、「聴福人とは聴くことは福であり、それが人である」という意味です。

子どもたちがこの先もずっと人になり幸福を味わいゆるされていることに感謝して道を歩んでいける人生を歩んでいけることを祈ります。

お山縁

久しぶりに鞍馬山に来ています、このお山は私を形成していくのに本当に大きなご縁とお導きをいただいたお山です。現在の英彦山での暮らしにも深く結ばれ、お山縁を感じます。

もともと鞍馬山は、天狗大僧正がいるお山です。大地の魔王尊、鞍馬天狗です。今日は、その鞍馬魔王尊がある光明神殿の護摩供養があります。

鞍馬弘教では、鞍馬寺に祀られる尊天の一尊である大天狗、護法魔王尊、またの名を鞍馬山魔王大僧正が鞍馬山僧正坊を配下に置くとするとあります。大僧正というのは、僧官の呼び名の一つで最初が行基とあります。

私は幼い頃から源義経が大好きで義経に剣術や生き方を教えたのが鞍馬天狗とあり、心にずっと残っていました。英彦山で育ったのもあり、天狗はとても身近な存在でした。破邪顕正といって、邪道を戒め、清らかで美しい生き方を実践することを尊ぶのは正義感溢れる幼少期には憧れの存在でした。

ご縁あって、約20年以上この鞍馬山にお世話になりご指導をいただいてきました。御蔭様で、霊性を磨くことの大切さ、いのちに包まれている安心感、そして丁寧な暮らしと実践の重要性を学びました。

今の私の半分は、この鞍馬山でできているといっても過言ではありません。そしてもう一つが英彦山ということになります。

霊峰と呼ばれる霊山には、大天狗が鎮座します。

この大天狗とは何かということです。

山伏や修験者たちは、この存在を「権現」と呼びます。権現とは、自然が顕現した姿そのもののことです。この世のすべて、宇宙からあらゆるものに至るまでそのものにはそのものの徳が具わります。その徳を観つめて、徳を引き出すとき私たちは自然の叡智を感得します。

霊峰霊山は、まさに徳の蔵です。クラマ山は、文字通り、魔の蔵です。大自然そのもののいのちの塊です。このお山に来ると、何か暖かく凛とした空気を感じます。懐かしい心の故郷、日本人の自然のままの源流を思い出します。

こういう場が、いつまでも変わらずに大切にされていることに感謝ばかりです。信仰は、宗教や教義ではなく自然あるがまま、自然そのもののお姿、まさに地球のいのちです。

ありがとうございます。

石から学び直す

英彦山の守静坊の石垣を修復して甦生していますが、情報量が多くてなかなか技術が追いつきません。今では機械でもなかなか持ち上がらないような巨石をどのように石垣に配置していったのか、運び方、積み方一つにとても繊細でダイナミックな意識があることがわかります。

私は元々、こういう技術を倣ってはいませんが先祖はノミを用いて石工にも関わっている一族でしたし石の研究はずっとしていましたから石の声を聴いて石と対話するのは得意な方です。

自然石を積み上げていく仕組みは、石を見ながらやっていくのですがまるで生き物のように周囲に顕れてくる英彦山の石をどのように組み合わせるかはなかなか至難の技です。それを先人たちの智慧や組まれた様子をよく観察して組みあげていきます。

組んでいくのは、しっくりと来るまで何度もやるのですが問題はその石の重さです。合気道を倣って石を運ぶことが少しは楽になりましたが、それでもとても一人二人で運べる重さではありません。現代の道具も活用しながら取り組みますが、落としたり転がったら大怪我をします。

自然と対話しながら取り組むというのは、自然の智慧を習得しながら取り組むということです。特に英彦山の石組の先人たちは偉大で、尊敬の念しか湧きません。

現在、薬草園を創っていますがその周辺の石垣の修復も進めています。人数を集めて、みんなで少しながら調えていきます。

むかしの人たちは多くの人たちが気持ちを合わせて協力しあって自然のなかで大きなことを成し遂げていきました。蟻のように小さな存在でも、協力しあえば大きな存在と同じ力を発揮します。

協力や、心を合わせること、また偉大な力を発揮することはロストテクノロジーになっては残念なことです。経済効果を優先して、効率や簡単便利に何か石油や電気などの動力を使うことばかりに進化してきましたがそれでは自然の中では人間本来の力を発揮することはできないのではないかと私は思います。

先人に倣い、先人の智慧を学び、子孫へ人間らしさや人間の徳性、人間の潜在能力なども伝承していきたいと思います。

石から引き続き甦生を学び直します。

改善

人生というのは改善の連続で今があるともいえます。この改善というのは、悪いものを良いものにするという意味と善いものをさらに善いものにするという意味があるように私は思います。

もちろん悪いものを善いものへ改善するというのは大切です。しかしその事実をよく観察していると悪いことがわかったて善いものにするのだから善いものがさらに善いものになったという捉え方ができることがわかります。

この物事の捉え方というのは、前提に感謝があるかどうかが関係があるように私には感じられるのです。

今の自分があるのが何の御蔭様であるのか、そしてどのような積み重ねがあって今に至ったのかをよくよく内省するとその今のすべては何らかの御蔭様のお導きであることに気づきます。

努力し、積み重ねてきた歴史や過去があって今が開きます。これは自分という存在も同様です。先人たちやご先祖様があって今の自分が存在します。今の自分に与えられた全て、例えば身体も心も特性も丸ごとかつての積み重ねがあったことで成り立ちます。

それをどう捉えているかで、改善への心得や心構えが変わってくるように思うのです。

改善は別の言い方では、恩返しとも言えます。たくさんの御恩をいただいたからこそ、御恩返しをしていきたいと思うほどに改善は進みます。そうやって先祖代々、子々孫々に改善されていくのです。

今よりももっと善いものになるのは、御恩に対して徳に報いようとする実践が続いているからでしょう。子どもたちの志事をするからこそ、常に改善に感謝しながら取り組んでいきたいと思います。

生活即信仰

生活即信仰という言葉があります。これは生活文化そのものが信仰になっているという言い方です。あるいは信仰とは暮らしの真っただ中にあるとも言えます。そもそもこの言葉は、切り離せない一つのものして定義されているものです。別の解釈としては、これを伝統文化とも言えます。つまり伝統=文化であるように、暮らし=信仰であるということです。

例えば、朝太陽を拝み一日をはじめます。お水を井戸で汲むときも手を合わせて感謝し、火を熾してじっくりと調理をしそれを食べる時にも手を合わせ感謝します。そしてお互いに思いやり一日を送ります。自然の中にあるものをいただき、自然と寄り添い、健康や幸福を身近に感じながら一日を一期一会に豊かに暮らします。

この豊かな暮らしの中に信仰は息づいているという感覚です。自然に拝み、自然に感謝し、自然と共生する豊かさを味わい感謝で生きていくということ。これが信仰の原点ということです。

何らかの教義を信じるのは、信仰ではないと私は感じます。人間が設けた人間社会だけで完結するような真理はどこか歪んだ解釈が出てくるものです。大自然を先生として学び、大自然の徳の循環や全宇宙や星々の運行に倣い生きていくと信仰は揺らぎません。これは教義ではなく、根源的なものへの畏敬の念です。

最近は、特にお山に深く関わることが増えて法螺貝をよく吹く暮らしを通して山伏たちの生活文化を直観する機会が増えています。先人たちはお山の持つ清々しい霊亀や岩が放つ元氣や結界を通してぬくもりや思いやり、そして凛とした静寂を感じ豊かな暮らしを通して信仰を磨いてきたように思います。

私も少しずつ、そのお山の霊亀の御蔭さまで木々の導きやお水や風のゆらぎを得て真心を感じる機会が増えています。宿坊のお掃除をはじめ、遊行が本来の自己を知り學ぶ機会にもなっています。

お山の岩たちは太古のむかしから変わらずに自然に坐しています。

いのりの記憶を持つ岩たちと共に、暮らしフルネスをさらに精進していきたいと思います。

結界の甦生

郷里の妙見神社の山中の神域を遊行したときに大きな岩石、一般的には磐座や巨石というものに出会いました。英彦山にも山中には大きな岩石がたくさん見かけます。この大きな岩石は、威厳や威風があります。まるで山がそのまま鎮座したかのような雰囲気です。

この岩は、色々な捉え方があります。お山の結界であったり、あるいは依り代であったり、またあるいは修行場の証明であったり認識は様々です。

先日訪問したスリランカでも、仏教の聖地はほとんど大きな岩石の場所にありました。その場所を神域として、たくさんの僧侶たちがそこで修行をしていました。まるで岩に守られているかのような様子でした。

よく考えてみると、私たちがいる場所の地下にも大きな岩盤が存在して地上を支えています。私たちは岩によって場所を保つことができているともいいます。宿坊も石垣があり、土を固め水をはじきます。岩がなければ場を保つこともできません。

神域の山中には、あちこちにむき出しの岩がでています。その岩が自然に横たわり、お山の表情を彩ります。岩の下や岩の穴に入るときは、背筋がぞっとします。もしも倒れてきたらや、落ちてしまったらやあるいは岩が割れてしまったらなどと畏怖がでます。その畏怖を鎮めてそのまま座ると、まるで地球に鎮座したような感覚になります。

つまり引力や重力をはじめ、力が一点に漲るのを直観するのです。

岩には他にも悠久の記憶を感じます。周囲が変化をしても、岩は変わらずにその場所に数千年、数万年と鎮座しいています。今、急にできたものでもなく、この数十年や数百年でできたものではないのです。

そう考えると、記憶装置のような存在です。これは星々の正体にも似ています。

岩を祀るのは古代からずっと意味は普遍に存在しています。岩と岩は結ばれていて、その間に界があり、それを結界と呼びます。岩の配置によって場を創るのです。

子どもたちにこの岩の持つ徳を伝承していきたいと思います。場を清め、場を調え、場を感じるよう本来の結界を甦生していきます。

場のご縁

私たちは「場」によってあらゆる影響を受けています。これは生きた人間だけではなく、動植物をはじめあるいは霊的なものや宇宙的なものにも影響を与えます。古代より、遺跡を調査するとその配置がとても絶妙であることに気づきます。これは龍脈のような気の通り道があり、太陽をはじめ星の運行と関係が深いこともわかります。また地名を調べると、その地名の奥深い意味の中にその場の持つ力を感じるものがあります。

その場をどのように保つかは、その時代時代のその場にご縁があった人たちの責任でもあります。その場を本来の場のままにするには、水の流れをはじめ風の通り、光が入るように調える必要があります。これを風水ともいいます。

かつては、その場をその場のままにしていくためにあらゆる工夫をしてきました。それが建築土木の智慧でもあります。木を見て森を見ずのような現代の取り組み方では、場が弱る一方です。

本来、これは建築と同じで大工さんをはじめ左官さんや庭師、あらゆる職人さんたちにはそれぞれの分野で磨き上げてきた技術や法則などの智慧を持っています。その智慧を結集して、どのように場をつくるかは場主が決めます。私は、神主などではありませんが場の感覚を持っていますから場のもつ本来の徳を甦生することができます。

場を感じる力は、場によって磨かれます。私は場道家を名乗りますが、それは場がわかるからです。

むかしは都を遷都して場を換えていくことが度々ありました。有名な遷都に桓武天皇のときの世があります。あの時は、和気清麻呂と空海、そして秦一族が智慧を結集して実現しました。

このお三方は、場の意味を伝承するものです。場を定め、場を甦生し、場を創るということ。

これから故あって奥の院や奥宮の場を新たにすることに関わりますが、心して場と対話していきたいと思います。

パラダイム転換?

人類は思い込みによってあらゆるものを決めつけては時代をつくります。結局はパラダイム転換といっても、思い込みが別の思い込みに変わっていくということでしょう。

根拠のないものを信じることを悪として、根拠があるものだけを信じようとする。エビデンス信者のようになっていると余計に思い込みは増えていきます。かつての天動説や地動説があったころも、千年単位で思い込みをし続けてそれが変わる時は大変な軋轢が産まれました。宗教や政治が、動かない真理を好みそれによって民衆や国民を管理する中において真理が動いてしまうというのはそれまでの権威などが揺らぐということになるのでしょう。

結局はそう考えてみると、この世のすでに正しいと信じられているほとんどの真理は宗教や政治のためにあるということになります。人類のそれまでの思い込みや決めつけは刷り込みとなり絶対的な常識となります。これを解き放ち別のものになったように見えても実際には別の権威や権力が取って換わったということになります。

パラダイムシフトの正体は、宗教や政治が変化したということが本質なのでしょう。よく技術革新がパラダイムシフトだと定義する人もいます。実際には、天動説が終焉し、地動説になってから産業革命がはじまったという説もあります。それまでの政治や宗教が変われば、当然それによって新たな権威権力を持つ別の政治や宗教がはじまります。そうなればその既得権益に肖ろうとする人たちがパラダイムを創造します。そのパラダイムこそ絶対的な常識です。

それを変えるには、また別の宗教や政治が誕生して新たな思い込みや決めつけを信じる状態が発生してくることです。

たとえ、UFOや宇宙人が現れ高度な文明を持ってきたとしてもそれではパラダイムは変わりません。変わるとしたら、それらと組んで新たな政治や宗教を司る権威が誕生する時です。

そもそも宇宙や自然というものは、あるがままにありのままで真理です。万有引力の法則を発見する前から存在していたもので、新たな発明発見などはほとんどありません。その証拠に、古代の人たちや先住民族たちが持っている伝統文化を観ると、真理そのものを現代も生きています。

その人たちを文明や科学が劣った原始人のように蔑み差別をしたりしていますが、こんなものは先ほどのパラダイムシフトで変化しただけで自分たちがそちら側だということを忘れているだけです。

最初からあったもの、創始からそうであったものが真実であり真理だと私は思います。

しかしそんなことを声高に伝えても権威や常識に踏みつぶされてしまいます。人類は信じたものを世界とし、世界は人類が信じたようにしておきたいのでしょう。

ただし、いつかは揺れ戻しがあるのもまた事実です。宇宙や地球をはじめすべての天体は、絶妙な関係性のなかで引き合い運行しています。小さな一つの微細な動きが、宇宙全体に大きな変化をもたらします。私たちが地球で活動する何かも、月に温度変化をもたらすほどに影響を与えます。それだけ微妙な動きをすればそれが他の星々へも影響を与えそれがまた循環して戻ってきます。

自然が大きく変化するとき、私たちは宗教や政治ではどうにもならないものを直視することになります。その時、私たちは最初からあったもの、創始からのものに縋るしかなくなるものです。自然に寄り添い生きていると、様々な思い込みや決めつけや刷り込みは取り払われていきます。

子どもたちには、余計なものをあまり押し付けず尊重して自由にあるがままのいのちを歩んでほしいと思います。一つずつ、人間が創始の人間らしさに回帰できるように暮らしと場によって安心基地を弘げていきたいと思います。

神域の甦生

私が幼少期より馴染んできた神社の境内には、それはもう美しい川が流れていました。お汐井取りが有名で、澄み切ったお水に人がたくさん集まってきていました。

それが土砂崩れの後の堤防や砂防ダムなどの工事によって水が汚染され、かつての清涼で澄んだ川は破壊されてしまい濁り澱んだ水になりました。そして人も集まらなくなり、神社も場も寂しい感じになりました。

神域のお水が汚れるというのは、とても悲しいことです。実際には、お水が湧くところが汚れたのではなく人工的にダムをつくったところのお水が澱んだということです。

自然環境に対して、人間が何かをするとその場所の循環が滞ります。循環が滞ることで様々な汚れが出てきます。循環が澱まない場所を言い換えるのなら神域と呼ぶのでしょう。

私はこの神域の御蔭さまで、お水や自然の循環の中に入り自分のいのちも健やかに育まれてきました。それが滞るのを見るのはとても辛いことです。現代の人間の問題を真摯に向き合い、そのうえでどのように神域を甦生していくか。

これから長い時間をかけても、一人でも神域の甦生をやり遂げていこうと覚悟を決めました。人間の問題は色々と利害や損得がつき纏いますが、本来の自然や神社の場が喜ぶ方だけを観てその中に人間が和合できる道を模索していきたいと思います。