唯一無二の旅、一期一会の旅

人生とは、唯一無二の旅のようなものです。それぞれにかけがえのない一期一会の旅があり、日々にこの今も旅の途中です。つい当たり前の日常の中で忘れてしまいますが、旅は様々なことが発生するものです。

以前、父が結婚式の挨拶で「人生には坂がある。上り坂、下り坂、そして突然やってくる”まさか”の坂がある」と話をしていたことがありました。作者は誰かわかりませんが、予期せぬ出来事があった時にこそ、支え合って助け合って乗り越えてほしいという応援の言葉で使われていました。

人生の旅の中では、幾度も幾度も「坂」に廻り逢います。人生はまるで坂そのものです。上り坂も下り坂も、ぜんぶ坂です。ぜんぶ坂とは、転がる坂もあれば、飛んでいく坂もあり、あるいはじっとする坂もあれば、駆け抜ける坂もあります。曲がりくねった坂の先には、また別の坂が待っています。坂があることで、私たちは「本当の今」を自覚することができます。

「まさか」の語源は、目先と、正に今という意味があると調べたことがあります。

この本当の今を知ることは、坂を感じることで得られます。いつか死にあの世へと旅立つまでのこの今わを生きる旅人の道すがらです。

本田静六さんが、「人生の幸福というものは、現在の生活自体より、むしろその生活の動きの方向が、上り坂か、下り坂か、上向きつつあるか、下向きつつあるかによって決定せられるものである。」という言葉を遺しています。

この生活の動きの方向とは何か、それは暮らしのことです。

人生の幸福はどのような暮らし方をするか、自我や自己を優先するような毎日を過ごすのか、それとも感謝を磨き、日々精進することを忘れずに人間性を発揮できるような生き方をするか。

人生には突如として苦難や困難、絶望するような出来事が起きます。仏道の六波羅蜜のような世界です。あらゆる世界が日々に訪れては試練と修行が到来します。そんな時、どうその世界に向き合うかで同じように苦しい人たちの力になったり困難があっても希望捨てないで道を切り拓いたりすることもできます。

道は誰もがそれぞれの旅を歩みます。その旅で自分が体験し経験したことが、必ず同じような道を歩んでいる人たちの力になり、助けになる時が必ず来るものです。

だからこそこれは自分に与えられた旅だと、人間万事塞翁が馬の故事のような心境できっとこれは後でいいことに転じる、禍福はあざなえる縄の如しや、苦があれば楽がある、あるいは沈む瀬もあれば浮かぶ瀬もあると、その時々の坂で今、やることを精一杯精進するということしかないようにも思います。

旅を振り返ってみたら、思った通りにはならなかった旅だったけれど思った以上のことがあった旅だったと、その偉大な観守りや恩恵に感謝できるように思います。

そういう私もここ数年は、転んだり怪我をしたり膝を傷めで歩けなくなったりとブレーキばかりかけられます。立ち止まって今をみつめて、また少しずつ坂の上の山頂と星空と月を観て遊行をしています。

旅は一人ですが、道は応援してくれる存在や同行してくれる存在がいることが仕合せです。

子どもたちのためにも、また似た境遇にある誰かの勇氣になれるよう、日々を怠らず精進していきたいと思います。

心のハタラキ

不動心や平常心という言葉があります。意味だけを調べると、不動心は何事にも動じない心をいい、平常心は普段通りの心のままでいることとあります。

しかし実際には、心が揺れ動くのは自然の作用ですし心のままでいれば日々の変化に感応しては感動していくものです。心を鎮めようと頑張ったり、冷静に保とうと意識すればするほどに心はざわついて惑うことも増えるものです。

よく眠れないときに眠ろうと頑張れば眠れなくなるように、これらの心の作用というものは自律神経が無意識に自然に行うものですから無理をすればするほどの裏目に出てしまうこともあります。

実際には何が不動心で平常心かを少し深めてみようと思います。

そもそも心とは何か、これは様々な定義もあり語源もまた未詳の部分が多い言葉です。それに心がつく言葉もたくさん存在します。実態があるようでない、まるで空気のような存在でもあります。

私にとっての心の解釈は、「ハタラキ」です。

心はハタラキそのものを顕現する言葉であり、様々なハタラキを心を使って表現しています。ではどのようなハタラキが心の本体であるか。私はそれを「調和」ではないかと直観しています。

心は常に調和するようにハタラクものです。つまり調和こそ心の作用の中心ということです。

実際に先ほどの不動心や平常心であれば、動じないことやいつも通りというハタラキを心が持っているということ。ではその心のハタラキが乱れるのは、そうではないハタラキになった時です。心が揺れ動くときや、いつもではない事変や激動の状況の中で心がかき乱されるときです。

まるでお水のように、濁流や嵐になれば荒れ狂います。しかし静かで深く沈んでいれば穏やかです。自分を保つのに杭を打ったり、あるいは身を捨てて浮かんだりと様々な工夫をしてはハタラキに対して調和しようと人はするものです。

調和においてとても大切なことは「安心」です。不安はさらに不調和を増大させていきます。不安に傾いていれば、小さなゆらぎでも大きく心は揺さぶられるからです。

だからこそどのようにその不安に応じていくかが調和のハタラキを助ける仕組みということになります。

むかしから「なんとかなる」と言ったり、「禍転じて福になる」と信じたり、人間万事塞翁が馬の故事のように、禍福は糾える縄の如しといって吉凶も幸不幸も変転するものだと悟ってしまえば心のバランスは調っていくものです。

実際の人生を客観的に観れば、不幸の御蔭で今の幸福があったり、成功も失敗も紙一重で何度も繰り返しながら偉大な循環をつくっていたりと変化することで生々流転して元氣に過ごしているものです。

安心立命という言葉もありますが、人生の醍醐味はまさにこのいのちのままでいるということに由ります。

日々の今をよく生きていくことは、修行のようなものですがそれはかけがえのない暮らしを紡いでいくことに似ています。

どのようなハタラキの心縄を結び、見事なしめ縄にしていくか。

試験も試練も一期一会ですから、この今を大切に過ごしていきたいと思います。

心の甦生

人間は、心の中の記憶と共に生きているともいえます。忘れ去られなければその人は多くの人々の中に生きているともいえます。だからこそ、いつまでも覚えている人がいることで記憶として生き続けます。

それは人の数が多い少ないは関係がありません。

むしろ深いか濃いかの方が記憶は鮮明になります。また適当で曖昧な記憶であれば、あまり覚えていないその人のことになります。もしかすると、勝手な思い込みで別の人になっているかもしれません。

人間の脳は、基本的には忘れるようにできています。いくら強烈な体験をしても、ずっと覚え続けることはできません。新しい記憶や情報に触れれば、前の記憶は上書きされていくからです。

しかし心の記憶というものがあります。

これは脳ではなく、心の中に感動としていつまでも記憶が生きているものです。

人は感動したことは忘れにくいものです。この感動は、心がするものです。全身全霊で魂が揺さぶられる体験です。それは一期一会の出会いでもあるし、別れでもあります。他にも助けてもらったり、偉大な尊敬をする出来事などでもあります。

心の記憶は、時間をどれだけ経過しても心の中にいつまでも生き続けていきます。

不思議なことですが、それは人間だけにあるものではありません。家という存在であったり、石や木などという存在、そしてお水に至るまで記憶は鮮明に遺ります。これは何を意味するのか。

それはどのような存在にも心があるからという証明でもあります。心を通じ合わせていけば、虫であっても動物であっても、無機物な石や鉄などであっても記憶を共有していけるのです。

そのどちらかが忘れていなければ、記憶は甦生する。

私はそれを感性や直観、手触りによって感得することができます。

引き続き、甦生の実践を通して心を通じ合わせ心の甦生を大切に守っていきたいと思います。

お水との暮らし

昨日は、久しぶりに雨が降りました。ここ1ケ月ほどまともな雨が降っておらず、田んぼをはじめ木々や植物たちは大変でした。まだまだ猛暑も続き、この後の気候が読めませんが雨が通ったことで少し安心もあります。

お水というものは、それぞれ川や通り道というものが存在します。それは地上だけではなく、上空にも存在するものです。お水の流れのあるところに生態系は豊富に増えていきます。お水の流れが生命のゆりかごのようになり、生き物たちを見守ります。

実際には、雨が降らずに地面からカラカラに乾いていても地下ではお水が流れています。この地球ではお水が循環して生命を育みますから、お水がないということはありません。どのような砂漠の下であっても、地下水は存在します。

その地下水はどこから来たのか、もちろん直近の雨から数か月前の雨の水もあります。しかし実際には数万年前などの化石時代のお水もあります。水は長い時間をかけて力に溜め込まれ静かに悠久に流れ続けているものです。

そのお水の流れを調えていくことで、私たちも悠久の循環の恩恵を受けることができているともいえます。

気候変動の御蔭さまで以前よりももっとお水の存在を実感するようになりました。

当たり前にある空気にも水があります。そして水がなければ生きていくことはできません。

だからこそ先人たちはずっと今までお水を大切にして感謝を忘れないのです。

お水を大切にするとは、ただ祈ればいいのではなく、お水の流れを調えることです。これは自然だけではなく、自分の身体でも同様です。

引き続き、お水との暮らしを磨いていきたいと思います。

循環の脈

地球は大小さまざまな循環を通して、生命を育んでいる星です。循環には脈というものがあり、全体の巡りと生命のリズム、そしていのちの交換というものが発生しているのがよく分かります。

これは空気中でも同様です。

例えば身近な田んぼで考えてみるとすぐにわかります。空気中の窒素は大気の約78%を占める地球上で最も多い気体です。酸素は21%しかありません。しかし大気中の窒素N₂は非常に安定していて、植物や動物はそのままではほとんど利用できない仕組みになっています。そこで一部の微生物が窒素を固定し、植物が使える形へ変えます。植物がそれを吸収し、動物が食べ、枯死体や排泄物が分解され、再び土へ戻り、最後は一部が大気へ返っていきます。

これが窒素循環です。

この絶妙な巡りとリズムと交換が調和するときはじめて循環の脈が正常であるという状態ができます。この循環の脈をもし異常にするなら田んぼに速効性の肥料を大量に投入すればよく、それによって循環が急に速くなり植物が吸収しきれない窒素が水へ流れたり、大気へ失われたりしていきます。微生物の量も均衡も変わります。人間が余計なものを投入すると、循環の速度を上げていきます。そのどこかで、数々の小さな循環が乱れたり滞ったりしていくのです。

この乱れるというのは、先ほどの速度が異常になったり、交換することができなくなったり、巡りという関係性が断裂してしまうということをいいます。

つまり循環の脈が消失するというのは、必要な分だけ必要な量を分け合い共生する仕組みを破壊するということです。

自然界の生命は、必要な分だけを交換し合います。これは循環の脈を破壊しないように配慮しているからです。野生の動物たちも必要な分だけでそれ以上は取りません。循環の脈が乱れると、調和するために色々な異常行動が発生していきます。

そもそも「分け合う」というのは、多くのいのちと関係性を結んでみんなで一緒に豊かになっていくことをいいます。共存共栄とはその意識のことをいいます。

田んぼであれば、田んぼの生態系みんなで分け合い生きていこうとする農法もあれば稲の収量や形や見栄えだけをよくしようとし生態系を排除する農法もあります。循環速度を上げれば収量は増えますが、田んぼに無理をさせた分が後で大きな影響を与えいます。無理をさせないようにと肥料と農薬をさらに投与すれば、田んぼは自力で循環することはしなくなり単なる生産機械のようになっていきます。

循環の脈を診るというのは、いのちがどのように結ばれつながり関係して交換しあっているのかを確認するということです。

引き続き、自然をよく観て、循環の脈を調えていきたいと思います。

法螺差

お水と法螺貝というのは、とても深い関係があります。それは「螺旋」です。

私たちの生命の中心において、最も重要ななのはお水です。そして呼吸です。これらが失われることで生命は死にます。それくらい大切な存在であるのに、あまりこの真理は追究されていません。

螺旋を知ることは、循環を悟ることであり、循環を知ることは螺旋を悟ることです。

これらは表裏一体の関係であり、そこに生命の神秘があります。

自然をよくよく観察していると、ミクロからマクロに至るまですべて螺旋運動をして関係性を保ちながら存在しています。原子や細胞から太陽系や銀河、宇宙に至るまですべて同じ「螺旋」の運動をしています。つまり運動の本質は螺旋ということになります。

だからこそ何をしていても螺旋になるのが自然であり、自然はその螺旋運動の力によってはじめて運動を已みません。自然の治癒力をはじめ、人体の免疫力もまたこの螺旋の運動に由るものです。

偉大な螺旋運動に調和していくことで、私たちははじめて生きた存在、つまり中庸、常若な状態でいることができているのです。

螺旋は単なる円環とは異なります。

そこには「差」が発生します。小さなものが大きくなったり、早いものが緩やかになったり、温かいものが冷たくなったり、若いものが老けていったりするのもまたこの螺旋の差によって生じます。

宇宙がはじまるとき、そこには小さな差が誕生します。その差があることで流動し、躍動し、動力が生じるとも言えます。

動力の根源はこの螺旋の力に由るものです。

法螺貝もこの差を利用して音を響かせます。

この法螺差は、圧力差や温度差、呼吸差や体力差、意識差などがありますがそのことによって音を鳴動させます。

自然の奥深さを学び直すのにこの法螺貝という法具は最適です。

いよいよ9月は法螺貝講習会があります。

皆様と法螺の道を學ぶ螺旋のご縁を心から楽しみにしています。

 

人間の意識

昨日は、早朝から有志で英彦山の守静坊周辺からお山のお手入れをやってみました。大地の再生の仕組みを学び、自分たちでまずは自然に触れてまず実験と実践をしてみようとする試みです。

まず驚いたのが、先日矢野さんが来て診ていただいたところにモグラが来て土をほぐしてくれていました。きっと循環がはじまった場所にミミズが集まり、空氣や水脈の通りがよくなりそこにハタラキが活性化したのでしょう。

他にも宿坊の横に流れるお水が安定して綺麗に流れていたのと、この一帯だけ心地よい風が通っていたのが印象的でした。

定点観測や経過観察によって、はじめて自分たちの関与で自然がどのようなハタラキをしてくださっているのかが学べます。自然の有難さというものは、非常に尊いもので人智を超えたものがあります。

自然に対し人間が触れるところなどは果たしてどれくらいあるのかと改めて氣づかさられるものばかりでした。有志達との振り返りでは、それぞれに新たな発見や氣づきも多く、心地よい疲れとみんなの自然への眼差しに心身が癒されました。

実験や実践の面白さというものは、自然から學ぶ醍醐味でもあります。

和樂の「むかしの五穀田」でも同様に、自分が自然に対して敬虔な気持ちで謙虚に関われば関わるほどに自然は多くののもの見せてくれ日々に学び直すことができます。生き物たちは素直に自分の関与に対して応対してくれます。

これは「意識のつながり」ともいえるものかもしれません。

ここ数年ほどお月さまのリズムで暮らしを調えていますが今朝も美しい月が応対してくれていました。同じようにそこに在るものであっても、自分の意識が在ると思っていなければ出会うことはありません。

まさに周波数や波動のように縁起は、意識や関係性の中で結ばれているものです。

お山に対してどれくらい深く敬虔で謙虚な氣持ちで関係性を結んでいくか。お山の暮らしがどれくらい身近に感じられているか。

これから毎月、満月の日には有志で集まり遊行とお山のお手入れの実験と実践を続けていくつもりです。来月は27日(日曜日)に実施します。

ほんの微細な力であっても自然のハタラキは、その真心に感応して応対してくださいます。大切にしたいという人々の意識や氣持ちに応えてくださいます。

流域を創ってくださる英彦山へのご恩返しやお水を守ることも、木々を守ることも、そして生き物たちの暮らしを見守ることもまた一人ひとりの「人間の意識」からはじまるものです。

丁寧なお山の暮らしを通して、英彦山から日本全体が快復していくように場を調えていきたいと思います。

山武志の生き方

今日から英彦山で大地の再生の仕組みを使って宿坊周辺からお山のお手入れをはじめます。先人たちがやっていたように、もう一度、お山の暮らしからお山全体で起きていることを通して地球全体のことを洞察していきます。

自然は末端で行われていることが全体になり、全体は末端に現れるともいいます。以前、末梢血液を診断する治療を受けたことがありますが血液の先がどのようになっているのかを顕微鏡で観察すると自分の体内の血液にどのような汚れなどが溜まっているのかなどを見る機会がありました。海のゴミのように流れ着いたどころのゴミが健康状態を知らせます。

現在は、1950年ごろに人工的に開発された化合物、PFASの影響で環境が汚染されています。このPFASは非常に安定した性質を持ち、自然界でほとんど分解されません。人体や生物の体内に蓄積しやすく長距離を移動するという特徴があり土壌などの環境中に残留し、人の健康や動植物の生息・生育に大変な悪影響を与えます。

ゴミ問題と掃除の関係は、人類最大のテーマです。

掃除をするようにお手入れをしていかないと、この世の中はゴミの山のようになります。ゴミを増やして自然の分解もできないようなものをつくり、最後は人間が住める場所が次第に細くなっていく現実。これは環境問題でじわりじわりとその日が近づいてきているのを実感するばかりです。

実感するからと何もしないでいたら、さらに環境は悪化していきます。だからこそ、小さなお手入れをみんなでやること、お掃除をみんなで取り組むことで環境は調っていくものです。

場が調ってくれば、自然の分解や快復力、免疫力が向上して循環が促進されます。これは人体でも同じことです。人体を調えていけば、循環がスムーズになり健康が保たれます。自然の仕組みも同様です。

だからこそ、小さなことだから意味がないではなく小さなことから取り組んでいこうとすることが自然の循環やリズムと共に生きるということです。

経済活動でそれどころではないと後回しにしているのかもしれませんが、大病になればさらに多額のお金を出費するし、対処療法は副作用や後遺症が甚大です。

体質改善というのは、日々の暮らしの中で行うものですから先人の智慧に倣い誰でもできますから最初の一歩を踏み出してほしいものです。

ということで、本日も有志で取り組みます。

お山を知り、お山を学び、お山をいのり、お山と共生していくのは山武志の生き方です。愉快に豊かに毎月取り組み、この場所から世界を易えていきたいと思います。

気候変動の本質~お水の循環~

現在、英彦山をはじめ郷里では雨がほとんど降りません。こんなに長い期間、雨が降れないというのは珍しく田畑の植物たちは大変なことになっています。また水源のお山も沢が消え、水が湧き出てこなくなってきました。一体、何が起きているのか。それを少し洞察してみようと思います。

そもそも雨というものは、地球の水循環の一部として発生しているものです。地球では海が熱を蓄え、気温を調整し、水蒸気が空にあがりそれが雨として地上に降ります。その降った雨は、時間をかけてじっくりと浸透しながら海に帰ります。

この天空と地上と地中を往来しながらお水が絶え間なく循環することで生命はその適した場所で生存していき暮らしを営みます。それを支えているのが水の循環ということです。

例えば、英彦山では昨年の7月はわずか28mmとかつてない少雨でしたが8月には466.5mmと一転して大量の雨が降りました。また今年の7月は402.5mmと総量だけ見れば多いものの、雨はわずかな日に集中し、それ以外の日はほとんど降りませんでした。また今月の合計が16.5mm程度しかなく極端に少ない状態が続きます。英彦山の8月の平年降水量は約288mmなので現時点では平年の1割にも届いていません

平均で緩やかに穏やかに時間をかけてお水が循環するのではなく、激しく一気に短時間で循環している状態になっているということです。

ここから何が読み取れるのか。

気候変動というのは常にあるもので変動しないことなどは地球では存在しません。それは人体が呼吸をして血液を循環して体を維持するように地球も同じことが行われているからです。

人間であれば、落ち着いて静かに過ごしているときは呼吸も穏やかでゆったりと安心して過ごします。寝ている時や、休んでいるとき、日常の穏やかな暮らしの時の状態に似ています。

しかし何か大きな変動がある時には、呼吸も荒くなり心臓は激しく躍動し、汗が出ては活動します。つまり異変があって極端な動きをし、非日常の事件が起きる時の状態に似ています。

本来、お水の循環はじっくりとゆっくりと全体に浸透することで海も上空も静かに安定しているものです。それが激しく一気に流れてしまう状況が発生すれば、浸透する暇がありません。地上は、水が貯水できず上空には大量の水蒸気が増えていきます。お水の層のバランスが崩れていきます。

私たちの身体も暑くなりすぎれば、水分が不足して熱中症になります。ごくごくお水を飲むと、身体への負担も大きく塩分が身体から失われていきます。この熱中症という状態と今の地球の気候変動はとても似ています。

私たちは地球の一部ですが、この人間の身体もまた地球と結ばれています。

何が起きているのかをよく観察をして、どう今を観察して何をしていけばいいか。

人類はまさに今、問われています。

 

根源の要諦

むかしの五穀田は、無肥料無農薬の自然農で取り組んでいるためたくさんの生き物たちが田んぼで生活しています。日々に田んぼの見回りをしていると、あらゆる昆虫たちや水中生物たちに遭遇します。多種多様なもの、また大小さまざまなものがいて生き物観察が大好きな自分には好奇心の宝庫です。

昨日は、掌ほどのショウジョウバッタやゲンゴロウの幼虫、ミズスマシなどを見かけました。お水をかけ流して循環を保つ工夫をしましたが、御蔭でたくさんの生き物たちが増えていきました。

ゲンゴロウなどは現代では絶滅種になり、当たり前にいるはずだった田んぼでも最近では見かけなくなっています。その理由は、農薬や人工的な田んぼの環境が影響を与えたといわれます。

単に昆虫たちや生物は農薬が田んぼに入ったから生きものが生きられなくなるわけではありません。毒によって生き物全てが全滅するイメージもありますが、ある特定の生き物にだけ作用する毒であったり、植物には影響がないような仕組みでつくられている農薬もあります。

しかしなぜ農薬を用いたら田んぼの生態系があっという間に貧しくなるのか、その理由をよく洞察するとその行為が生命の循環を途絶えさせ、いのちのつながり分断するところに原因があることがわかります。田んぼではまず藻や微生物を小さな生きものが食べ、その小さな生きものをヤゴやゲンゴロウが食べ、さらにカエルや鳥へとつながる、無数の関係によって成り立ちます。

そこに農薬が入ると、まず薬剤に感受性の高い昆虫、甲殻類、藻類などから減っていきます。すると、それらを餌にしていた生きものも生きにくくなります。さらに捕食者が減れば、今度は一部の生きものだけが増えていき田んぼ全体の均衡が崩れはじめます。つまり特定の虫を駆除したつもりが、お互いに共生しあっている生き物たちの生命のつながりを断裂させてしまうことになるのです。

生態系というのは、「すべて共生と貢献で循環」をしています。その象徴としての田んぼは、多くの生きものがそれぞれの役割を果たすことで自ら均衡を保つ場です。その一部が失われると次の生命へ渡されていたものが渡らなくなり、循環そのものが細くなって最後には関係が失われます。この関係性の消失が絶滅の本質です。

人間の一部の都合によって、特定の自然の循環の何かを止めてしまう。それが小さな分断や生命のつながりを弱くして関係が終わる。無縁社会とも私が呼ぶものです。人間社會もまた、これと似たようなことが起きているように感じるのは私だけではないはずです。

だからこそ、生き方として子どもたちにどのような未来や環境を譲り遺していきたいかを真摯に正対すると自然の田んぼの中で一緒に生態系の関係性を甦生させていきたいとこの「むかしの五穀田の甦生」に取り組んでいるということです。

短期的にみて恩恵を受けるということはたくさんあります。しかしその短期的な恩恵は、結局は視野狭窄にし短絡的に今だけ乗り切ればという発想になり対処療法の連続になります。

田んぼであれば、人間にとってデメリットが出たらすぐに対処療法しているうちに田んぼの生態系が自然に保ってくれていた均衡が崩壊して、その対策に必要なお金だけが不自然に大量にかかるという状態になるのに似ています。

自然に任せるというのは、余計なことをしないということです。

余計なことというのは「循環を切らない」ということです。

そろそろ人類は、環境問題をはじめ社会問題の本質に氣づくタイミングであろうと思います。関係性というものは、今を見直し身近な小さなところからも甦生できるものです。

こんな一つの田んぼの小さな改善ごときで人類や世界の何が変わるのかと思うかもしれませんが、循環というのは誰でもはじめはみんなほんの小さな関係性の甦生からはじめていくのです。

保育の領域も、場の領域も関係性を調えてこそいのちが健全に育つもの、つまり循環の根源の要諦は一つです。

引き続き、身近なむかしの五穀田の甦生を通して學びに来る方々と共に実践を通して世界を豊かに愉快に易えていきたいと思います。