武の徳

昨日、アメリカから来日した友人と一緒に糸島の龍国禅寺にて話をするご縁がありました。美しく苔むした庭を眺めながらととのった場で内省をしあうことができる仕合せは格別なものです。

その中で特に豊かな話は「武」についてのことです。武というと一般的には、武力や武士など戦っているイメージがある言葉だと思いますが本来の意味はその逆で戦を止めるという字で構成されていることがわかります。この字を分解してみると「戈」(ほこ)と「止」(とどめる)から形成しています。この戈は、戦で使われる武器であり、戦いそのものの象徴。そしてそれを止めるのが本来の「武」であるというのです。

かつて織田信長が戦国時代に「天下布武」という宣言をしました。これは天下を武力で統一するとイメージする人の方が多いかもしれません。しかし実際の意味はこれとは全く異なります。

これはもともと中国の古典、『春秋左氏伝』に本来の武は「七徳の武」であると記されているところから使われています。ここでは、天下は七徳の武によって治まるという意味です。

その七つ徳は、武力行使を禁じ、武器をしまい、大国を保全し、君主の功業を固め、人民の生活を安定させ、大衆を仲良くさせ、経済を繁栄させることをいいます。

天下布武、これは如何に戦のない世の中にするか、そのためには徳を使い七つの武を実践する必要があると説いたのです。

そして武を志した「武士」には、この武の生き方を貫き実践するための武士道の七つの徳というものがあります。それは「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」です。

武士は、暴力や戦争を終わらせる役目とそういう時代にならないような教えを実践し導く存在でした。だからこそ武を磨き、武を尊び、武を守ったのです。

誰も殺し合いや戦争などをしたい人はいません。憎しみや恨みの連鎖は、悲惨な時代を到来させます。だからこそ私たちは本来の「武」を学び直す必要があると思うのです。

私のいのる天下布武とは徳積みの循環のことです。如何にこの時代に相応しい七つの徳を循環させていくか。その徳の循環を暮らしフルネスの実践において実現しようとしているともいえます。

子どもたちがいつまでも平和な世界で笑い合い和み合い、助け合い豊かに暮らしていけるように今こそ武の徳を磨き直していきたいと思います。

自戒の生き方

先日、戒名のことを色々と調べていると色々と気づいたことがあります。もともとこの戒名は、古代中国から渡来した文化です。これは高貴な方の実名を直接口に出すことが良くないとされる風習が中国にあり出家の際も俗名ではなく戒名を名乗ったことからだといわれます。日本の文献上に最初に戒名を受けた人として登場するのが、奈良時代の聖武天皇だといいます。

江戸時代に檀家制度ができてから、みんなお寺に属しますから戒名を名乗ることが当たり前になっていきます。この檀家制度ができた理由は、キリスト教の広がりを恐れ始めた2代目将軍徳川秀忠以降くらいから仏教を国教化し邪宗門(異教)としてキリスト教や不受布施派などを弾圧するためにはじまったといいます。

この檀家制度は幕府が民衆を管理していくための「寺請制度」に発端を発します。これは寺請制度とは、「自分がキリシタンではない」ということを寺院の住職に保証してもらう証分を幕府に提出することを義務付けする制度です。

この証文のことを「寺請証文」といいます。自分が仏教徒であることを証明する証文には結婚や養子縁組、出生、死亡などの戸籍の証文になりました。

その証文には寺院の押印が義務付けられ今でいう役場にあるような戸籍台帳の管理を寺院がしたことになります。これによって寺請証文を発行し人々の身分を保証する代わりに、人々を檀家にして寺院経営の支援を民衆にさせました。そこからお盆や彼岸などの寺院へのお参り、葬式法要、そして寺院修繕などの際の寄付の義務化などがつくられ檀家制度が確立したのです。

戒名もまた、その寺院がつけますからお坊さんによっては嫌な人も権力を握った人もいたでしょうから「地獄の沙汰も金次第」や、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」などという言葉も出てきました。明治以降に廃仏毀釈が行われましたが、色々とその制度に恨みを持っていた人たちが進んで破壊を手伝ったのかもしれません。

戒名に話を戻せば、江戸時代に入るまでは戒名はそんなに一般的ではありませんでした。江戸時代にみんな戒名を持ち、そして明治以降はまた戒名の必要性が失われました。現在では、戒名を自動でつけてくれるアプリやサービスも出てきています。

本来は、戒名と書くくらいですから仏門に入り覚悟をもって自戒した修行をするときに師が祈りを込めて伝授したものだったのでしょう。形式だけの戒名になってしまうと、もはや何のためにつけるのかも不明になっていきそのうちそれも失われていくように思います。

自分で生前に持つ戒名もまた、自戒を籠めてのものだったのかもしれません。色々と文化や歴史を辿りながら、そのころの人々たちの生き方を学び直していきたいと思います。

閻魔の知恵

先日、あることから閻魔帳のことを調べる機会がありました。これは人は亡くなってから閻魔大王が持つ、死者の生前の行動内容が罪や悪、そして善、すべてが記録されている手帳のことです。これを参考に、死者の天国行き、地獄行きを決めたというものです。

そういえば、幼いときにこの話を何かで聴いて悪いことをしないようにしようと思ったことを憶えていますが普段は思い出すこともなかなかないものです。その中で、浄玻璃の鏡というものがあります。

この閻魔帳に書いていることをみて、問答していきますがここで嘘をつくと舌を抜かれるといいます。舌を抜くというのは、もう嘘がつけなくなるということをいいます。

しかしなぜ閻魔大王はそれが嘘かどうか、なぜ閻魔様に分かってしまうのかというとこの閻魔帳とは別のものでその人の生前の行動をそのまま映し出す水晶でできた大きな鏡でその人をうつします。つまりその人の心を映すものです。これを浄玻璃(じょうはり)の鏡といいます。この鏡を通してその人の行動が周りの人をどれほど喜ばせたか、悲しい目に合わせたか、それまで映し出すので嘘かどうかわかるのです。

この話は、目に見えている世界のことをいくら誤魔化しても心の世界のことは誤魔化せないということを示唆しているように思います。

また仏陀が閻魔大王の話をするとき、善を観ては善に気づかず、悪を観ては悪を気づかず、そのことをなぜ深く反省しないのかと説きます。心の鏡に照らし合わせて、素直な心で反省しなかったのかと。

素直に反省したのなら、それはすべて一切が自分の因果応報であるということを話します。だからこそ、こうなったのだということも。

そう考えてみると、この閻魔帳と浄玻璃の鏡は一対であることがわかります。どちらかだけであっても裁けず、それが一つであるからこそ真に裁くことができるように思うのです。

自分で蒔いた種ですべてのことは発生する。だからこそ、心に聴いて内省し、そして気づいたらすぐに行動すること。自分で蒔いた種をちゃんと責任をもって果たしなさいということを教えているように思います。これは徳の話と同じです。

自分の喜びがみんなの喜びになり。その喜びがまた自分の喜びになっていく。この喜びの徳の循環をどう積んでいくか。それが問われているということです。

今の時代、情報化社会である意味このような閻魔大王や閻魔帳、浄玻璃の鏡のことなどは特にweb3.0と盛り上がっているところでは聞くことも気にすることもありません。しかしむかしの人たちは、根の教えにこの仏陀の教えが文化として根付いていましたから特に丁寧に慎重に嘘がないようにと誠を盡していたかもしれません。

一人一人が内省して気づき合い、そして反省したら改善するという実践を行っていけば浄玻璃の鏡も閻魔帳にもすばらしいことが記録し、記憶されていくと思います。

先人の知恵を現代に活かし、徳の循環する仕組みを伝道していきたいと思います。

思いを纏う

人はいろいろな人の思いと共に生きています。今の自分は、個人的な自分というだけではなく先人たち、そして仲間たちの思いをそのまま受け継いで存在しています。その思いは、目には見えませんが同じように思いを持つ人たちとつながっていて生き続けています。

つまり人の本体とは何か、それは思いの集積であるということにほかなりません。私たちの器には、あらゆるものが入ります。その入るものをどのように選ぶのか、そして結ぶのか、関わるのか、それをご縁ともいいます。

ご縁を生きていくというのは、この繋がり続ける思いを生きているということです。そしてその思いがあるから私たちはその思いに活かされて思いを醸成してまたさらに繋がっていくのです。

振り返ってみると、思いを誰から誰につないだのか。特にその器としての肉体が生を全うした時、別の器に思いが移動するときに深く結ばれていくのがわかります。一人だけで思いを持ったのではなく、一人一人の小さな思いが集まって偉大な思いになっていきます。その思いが器を乗り換えながら、あるいは器を共有しながら生き続けているのです。

これだけの人口、そして細胞があり、私たちはその思いが宿るものと共にあります。絶対安心の境地は、その思いを継いでくれるものが必ずいると感じることです。自分と同じように守りたいと思うもの、そしてつなぎたいと思う人が現れ、その人が次の人に必ず思いのバトンを渡してくれると確信できるのです。

思いが自分を活かしていると思う時、大切なのは思いが生きているということを忘れないことです。私たちが思い出すという行為もまた、思いのお手入れです。目を閉じて心の中にある思いを思い出す、それがお預かりしている思いでありみんなとつながっている思い。思いはみんなのちからでいのることで必ず何度でも甦生するのです。

思いを纏い、今日も生き切っていきたいと思います。

危機に備える

世界情勢や気候変動など、色々と変化が著しい時代に入ってきました。昨日も悲しい事件があり、この国が平和ボケしていることを改めて実感しました。そもそも平和ボケというのは、知識だけで物事を考えているということです。本能や直観、野生などを失い、生きる死ぬの自然界のように必死にすべての感覚を鋭敏に研ぎ澄ませて覚悟をもって油断なく生きるのではなく決して自分は死ぬことはないだろうと安心しきっている状態です。

実際にウクライナの進行のときも国民の声は、まさか本当に攻めてくるはずはないだろうとほとんどの人が思っていたようです。同時にロシアの軍の方も、いつもの訓練だろうと思っていたようです。実際には、政治や国同士の間はそれぞれに利権も利害もありますから遊びではなく本気でやりあっているものです。

現在、日本も地理的に緩衝国であり戦争がひとたび起きれば日本が戦地になるような場所で侵略されるかもしれないところです。

テレビやマスコミの情報をうのみにするのではなく、歴史を学び、今、何が起きているのかを今一度自分の頭と心で真摯に考えてみなければなりません。

一番危険なのは、まさかそんなことがあるわけがないという思い込みでしょう。

この思い込みは、正常性バイアスともいいます。想定外の事態でも平穏に過ごすために生じる心のメカニズムです。心の平穏を保つための機能ですが、本当の危機への対策や予防には逆効果になるものです。

むかしからリーダーというのは、危機に対して先に声高に危ないことをみんなに伝えます。誰も大袈裟だとかそんなことはあるわけないと、その人を無視するかご馬鹿にしたり、もしくは不安を煽っているなどといって犯罪者にしたりします。歴史をみても、危機に対して動いているリーダーたちは変人や狂人とよばれるものです。

明治の頃も、吉田松陰などはその最たるもので周囲から頭がおかしいといわれていました。しかしそれでも国難を憂い、誰よりも行動しその危険性を世の中に訴え続けていました。その御蔭で、寸でのところで有志達がたちあがり世界からの侵略に立ち向かう力を持つことができました。

時には牢に入れられ、時には暗殺され、時には罪を着せられてもです。

平和ボケにならないようにするには、みんなが今一度、現実を直視してみる機会を持つことです。そしてその現実に対してどうあるべきかを議論して行動することです。

子どもたちの未来が憂うものにならないように今できることで草莽崛起すべきです。志を持った人たちが、リーダーになりみんなで平和ボケを取り払っていけばきっと仲間たちが未来を導いていきます。

悲しい事件を無駄なものにしないように、この機会と意味を受け取ってそれぞれにリーダーとして立ち上がっていきたいと思います。

徳の循環

私たちが生きている世界には目に見えるものと目に見えないものが合わさって存在しています。目に見えるものを見て、これはどうやってできたものかと考えると目に目えないプロセスがあってできていることがわかります。そのプロセスをどのようにしたのかというのは、後になって目には見えませんがそのことで目に見える世界がどのようになっていくのかもわかります。

これは人間でも同じです。人間が修養を積み、徳を磨けばその結果としてその人の人柄や人物が顕現してきます。いくら見た目をよくしても、内面的なものは誤魔化すことができません。つまり目に見えるものと見えないものは表裏一体であり、デジタルとアナログのように結ばれ循環しているものです。

人であればこのように人徳として薫ります。そして物であればそれは場の佇まいとして余韻があります。どのようなプロセスで取り組み、どのような精神で関わり、どのような生き方で向き合ったかはその場にいつまでも遺るのです。

私は古いものを甦生していきますが、手で触れているとそのものの持つ徳を感じます。それがどのようなものであったか、目ではわからなくてもお手入れをすることで直観していくことができます。

特に心を籠めて、心の速度で丁寧に取り組んだものほどそのものが放つ美徳に感動します。時に心が宿っているからです。古いものの中には、それぞれそのものを作り出す作り手の真心、そして一期一会に集まってきた素材たちの絶妙な調和があります。

適材適所に、一期一会に、そのいのちが調和し新しいものが甦生していく。まさにこれは徳の循環であると私は思います。

徳が循環する世の中にしていくためには、私たち人間の方がその徳の循環を意識として自覚している必要があります。これは知識では得られず、まさに智慧の世界の話であり意識の問題のことです。意識を高めるには、徳を磨く必要があります。そして徳を磨くための実践が暮らしフルネスの中にあります。

日々の意識をどのようにお手入れしていくか、いのちをどのように豊かに健康に仕合せにしていくか。シンプルなことですが今ではそれが難しくなっています。徳の循環を通して子どもたちが真に豊かで仕合せな人生が歩めるように見守っていきたいと思います。

英彦山守静坊の甦生 感謝祭

明日は、いよいよ英彦山の守静坊の甦生感謝祭を行います。振り返ってみたら、本当に多くの方々に見守られ無事に宿坊を甦生することができました。結に参加してくださった方々のことを一生忘れません。この場をお借りして、改めて深く感謝しています。

思い返してみたら、今回の宿坊の甦生は困難の連続でした。工事に取り組み始めてからも何十回、もしくは何百回も神様に真摯に拝み、尽力することはやりつくすのでどうかお力をおかしくださいと祈り続けました。少し進んだと思うと、大きく後退し、善いことが起きたと思ったら八方ふさがりのような状態に陥ったり、一喜一憂してばかりの日々を過ごしてきました。

そんな中でも、本当に有難かったのは身近でいつも支えてくれたスタッフや家族、どんな時でも丸ごと信じて応援してくれた叔父さん。そしていつも見守ってくれていた仲間たち、結に参加してくれて見返りを求めずに徳を一緒に積んでくださった同朋のみなさま。小さなお気遣いから、大きな思いやり、取り組みに深い関心を寄せてくださった方々に心を支えていただいていました。

今回の宿坊の甦生で、故長野先生はじめこの宿坊に関わったこられた歴史の先人の皆様。そして英彦山に少しでも御恩返しすることはできたでしょうか。喜んでくださっているでしょうか、もしもそうなら努力が報われた想いになります。

私たち徳積財団、及び結の仲間は宗教組織ではありません。むかしの先人たちが暮らしのなかで信仰していたように、お山を拝み、お水を拝み、いのちを大切にし、お祈りを実践し、生活を助け合うなかで心をむすぶために信じあう仲間たちの結(ゆい)です。この結というのは、つながりや結びつきの中で暮らしていくという古来からの日本人の知恵の一つで「和」ともいいます。

私は、和が永続することを「平和」だと思っています。そしてそれは徳を積むことで得られると信じています。この徳を積むというのは、自分の喜びがみんなの喜びになり、みんなの喜びが自分の喜びになるという意味です。自然をお手本にして、全体のいのちが充実していくように、暮らしを充実させていくことです。それが暮らしフルネスの実践であり、徳が循環していく安心の世の中にすることです。

今の私たちは歴史を生き続けている存在です。終わった歴史ではなく、これは今も私たちが結び続ける責任を生きています。今までの先人たちの徳の集積を、さらに磨いてこの先の子どもたちに繋いでいくのが今の世代を生きる私たちの本当の使命です。

最後に、感謝祭に来てくださってお祝いをしてくださる友人たちがむかしの家族的な雰囲気で舞や唄を披露してくれます。この宿坊の谷は、弁財天さまの谷で弁財天は芸能の神様でもあります。むかしのように囲炉裏を囲み、みんなで一緒に同じ釜の飯を食べ、笑い、踊り、唄を歌う。心地よい法螺貝の音色が宿坊全体に広がっていくように豊かで仕合せなひと時を皆様と一緒に過ごせたらこれ以上の喜びはありません。

これから親友で同志のエバレットブラウンさんが、宿坊に滞在し英彦山の徳を出版や湿版写真等で伝承してくれます。そして私は、一人ひとりの徳を尊重し合い磨き合う場として仙人倶楽部というものをこれから徳積堂にてはじめます。私が心から尊敬する師の一人、二宮尊徳はこれを万象具徳といい、それを顕現させるのが報徳ともいい、その思想を一円観といいました。私はこれを現代にも甦生させ、「平和が永続する知恵」を子どもたちに伝承していきたいと思っています。

本日がその一つの節目になります。このひと時を永遠の今にしていけるように皆様と祈りをカタチにし、懐かしい未来を味わいたいと思います。

ここまで本当にありがとうございました、そしてこれからもどうぞよろしくお願いします。

善友と道

道を歩んでいく中で、多くの仲間に恵まれます。その仲間の御蔭で、孤立することもなく孤独も豊かなものになっていきます。人は、必ず心の中に良心を持っています。それは思いやりや優しさです。同時に、自我というものもあります。いろいろな人たちとかかわる中で、その善い方を導いていこうとするのが人生の修行そのものかもしれません。

仏陀の話の中で善知識経というものがあり、弟子のアーナンダに善き友について話をするシーンがあります。

意訳しますが、仏陀がサッカラの村に着いたときにアーナンダはこう質問します。「共に仏法を学んでそして共に仏の道を歩んでいく。このような善き友がいるということは、修行の既に半ばを達成できたに等しいと私は思ったのですが仏陀はどう思われますか?」と。それに仏陀は応えていいます。

「善き友がいることは修行の半ばではなく、そのすべてですよ」と。つまり、真の修行は善き友を持つことで完成しているということでもあります。

また別のところで仏陀は「悪友を避けて善友を求めよ、しかし善友が得られなければ、孤独に歩め」ともいいます。

仏陀は、皆が私を善き友とすることによって仏の教えを学びそして共に仏の道を歩んでいるように善き友を持つことを心がけることを言いました。

つまり善き友とは、自分の中にある善心そのものでありその心と歩んでいくことで心の平安が宿り、その仲間たちと道を歩み続けていくことで修行が為ると言ったのかもしれません。

常に心は持ち方次第で、どうにでも世界は変わっていきます。物事のどの方を観るか、そして何を想いカタチにするかによって変化していきます。仏陀は同時に悪友を避けなさいといっています。何が悪友なのかは、道を歩めない仲間たちのことかもしれません。

友達がたくさんいたらいいわけではなく、真の友は心の中に存在する友です。その友は、それぞれの心の中にいてみんな同じように優しくありたい、思いやりのある人でありたい、心美しくありたい、感謝のままでありたいなど、素直なところにあります。

そういうものを磨いていこうとする人が、同じように仲間たちと出会い日々に修行をする。そして磨き合い高め合っていく、まさにそのことが人としての一つの集大成ではないかとも私も感じます。

人間力を如何に磨いていくか、これからテクノロジーがさらに発展していくなかでその深化は必要不可欠です。だからこそ、道を歩む、そして善友が必要だと思います。2000年以上たっても、真理や真価はまったく変わらずにあることに安心します。

引き続き、自分はどうかと内省しながら言葉ではなくカタチで実践していきたいと思います。

価値観を磨く

価値観という言葉があります。辞書を引くと、「人が自分を含めた世界や、その中の万物に対してもつ評価の根本的態度、見方。」そして「物事を評価する際に基準とする、何にどういう価値を認めるかという判断。」などがあります。

それぞれに人は価値観が異なるのは、その人の生まれて育ってきた環境もあれば、ご縁により影響を受けたもの、または文化など与えてきたものでも変わります。例えば、アマゾンの奥地で言葉がほとんどないような場所にいる価値観と、現代社会で都市部に住んでいる人では常識はほとんど異なります。

私たちは知らず知らずのうちに常識に吞まれていますから、価値観の影響を空気のように受け続けているともいえます。特に風土の影響は大きく、また周囲の人たちの存在も受けています。その土地の当たり前はその土地の常識ですが、少しでも離れたらそれは非常識というものもあります。他にも、今の子どもたち世代では常識であることが高齢者の世代では非常識になることがあります。結局、時代も変わり、環境も変わり、すると価値観も変わっていきますからお互いの常識のぶつかり合いで古いものと新しいものがいつまでも融合することができません。

価値観が変わるというのは、変化そのものです。ある一定の価値観を守っていこうとすれば、変化は悪いことになります。しかしお互いに価値観を守ることに強く固執し柔軟性を欠いてしまえば結局、その価値観は時代に否定され消失してしまいます。

本当は価値観を尊重し合い、折り合いをつけ、間を探すことでお互いの価値観をもう一段、ブラッシュアップすることもできます。そこには横糸と縦糸が結び合うように、大切なことがお互いに結び合えて真の意味で新たな価値観が誕生するからです。

これが価値観を磨くということだと私は思います。

私も周囲に何をやっているのかよくわからないや、変人や正体不明で何をしようとしているのかとよく聞かれます。しかし、いつも初心は明確でそのことだけに集中しています。

分かりにくいのは、もちろん言葉に説明できない言葉と言葉の中間にあることを実践していることもありますが今の世の中の常識の価値観とは少し異なる考え方を持っているからかもしれません。

子どもたちの未来から逆算して、今、こうすることが相応しいのではないかと思うと今の時代の常識からみたら不都合なことばかりです。未来と今で対立するのではなく、どうよりよい今を誕生させていくかをみんなで納得したうえで共に創造し、相乗効果を産み出していくかは私たちの大きな課題です。

引き続き、あらゆる声を聴きながら徳を磨き続けていきたいと思います。

叡智を研ぎ澄ます

知恵というものは使うことによってのみ知恵になるものです。知識は使わなくても知識として持っていられますが、知恵はそれを使う時のみ持っていられるものです。

もちろん知識か知恵かではなく、知恵があるからそれを知識で分析することができます。また知識も知恵によって真の知識となりえるものです。

私は真の知識にとても興味があります。それは知識と知恵を併せ持った叡智のようなものです。叡智には深さがあり、そこには真理があります。

物事や時代も発展していくのに進化するという言葉があります。しかし進化だけしていてもそれが本当の意味で叡智にまでは到達しているような気がしません。それは今の時代の様子をみてもすぐにわかると思います。

毎日、SNSやテレビ、情報社会の中であらゆる新しい情報が氾濫していきます。情報過多でそれをまた整理し、また進化させようとします。急ぐことばかり、時間をかけないで結果を出す事、わかった気になるために必死に情報合戦を繰り広げていきます。目新しいものはなんども良いもののように扱い、古いものは時代遅れとまで言われます。ダーウィンもですが、進化論というのは結局は分類わけの一つの手法のようにも感じます。分類分けしていくことを進化というのなら、そこに深さはありません。ただ分けて整理できた、そして整理がうまければ上手に進化したということになるのかもしれません。

実際には、その進化ではなく深化といって深淵にたどり着き真価を悟るというものもあります。現在でいえば、豊かさということを見直す話が出ていますが果たして本当に豊かさとは何かということをこの時代に叡智まで高めて磨いた人がどれだけいるのだろうかとも思います。

だからこそ、先人の知恵を学び直し、先人の知恵から深さを知り、叡智に辿り着く必要性を感じます。言葉遊びにならないように、そしてお題目のようにならないように私たちは知恵を使い続けていくなかで学び直して改善し、この時代の叡智を磨いていく必要があるように思います。

暮らしフルネスの実践はそれをするのにとても大きな役割を果たしていくと確信しています。子どもたちのためにも、この今の叡智を研ぎ澄ませていきたいと思います。