伝統的日本人

倫理法人会の創始者、丸山敏雄氏は日本の伝統的な智慧を実践に結びつけているように思います。本来、日本人の親祖や先祖がどのように暮らしを立てたか、私たちは別に西洋や海外のからの暮らしを取り入れなくても、原点的というか、本来的にもっとも純粋に取り組んでいた何億年も何千年もの間、培われてきた「智慧」を受け継いできました。

今こそ、本来の「智慧」に回帰して暮らし方を換える必要があります。そしてそれを時代の言葉に置き換えて翻訳をする伝承者がいます。まさに丸山敏雄氏も一つ前の時代の伝統的日本人だったように思います。

その丸山敏雄氏が、解き明かした日本人の真理と知恵を倫理法人会の資料から抜粋して紹介します。

イ. 全一統体の原理
世の中のすべてのものは、物も人もただ一つの生物でもあるかのように、一つに統(す)べられている。その一は幽なる純一界であり、人間の五感にとらえられるこの現象界は顕界である。つまり形のあらわれた顕界のもろもろは、幽なる超経験的世界に統一されているとする。これは歴史的には天御中主神およびその他の神々の働きから把握されたもので、地球的、空間的には世界のすべての存在物に対する体験的把握に基づいている。

ロ. 発顕還元の原理
物はすべて、+と-といったような二方向に、ことがらも、発するほうへと還るほうに働いているもので、振子のような具合である。入ったものは出るし、出たものは入る。取れば取られるし、与えれば、また与えられるとする原理。これは歴史的には高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と神産巣日神(かみむすびのかみ)の働きから、そして空間的には存在するものの実相から把握されたものである。

ハ. 全個皆完の原理
大も小も、新も旧も、色も味も、どこも、いつも、彼も、此も、常に完全で、足らぬものはなく、余るものもない。ともに玲瓏として玉のように完(まった)く、美しく、善である。個々のものも、すべ括(くく)った全体も、万象万態すべて善、美、完であるとする。これは一般的な善悪、美醜、完全不完全にたいし、超越的な高度の態度から万象を見たもので、歴史的には伊邪那岐命、伊邪那美命が水蛭子(ひるこ)を産んだ失敗の反省から、やり直しをしたことにもとづいている。これは失敗は成功の道行きであり、それはそのままでよいとする思想に基づく。

「人生に失敗は無いのだ、すべて成功の道行き、成就の行程・・・。従って人生はその瞬間瞬間、常に総力の結集、すべての因子の過不及なき総合調和にある。そして、なんらの矛盾もなく一つの偶然も無い、あるべくして在り成るべくして成る。公正無私、悠々坦々、れいろう玉のごとき人生だ。」とあるのは「全個皆完の原理」のことである。

二. 存在の原理
存在しているものは、それぞれに唯一絶対の価値をもっている。すべて、そこにもここにもあるものではなく、たった一つの存在で、絶対である。したがって存在の真実相は動静一体、賢愚不二、貴賎不分、美醜一如であるとする。この原理から、一切を受け容れるという倫理が導き出される。ここに小さな自己の知恵才覚は消滅し、無欲括淡な生活に入る。大宇宙すなわち我であり、人我一体、天人不二、絶対無我、純一無私であり、倫理の究極がすえられる。この原理は「全個皆完の原理」に続くもので、歴史的には古代人の生活の中にある無私の生き方から、空間的にはひろく存在物の観察から導き出されたもので、一種の存在論である。

ホ. 対立の原理
倫理実践の根拠となる原理的な思想としては、対立の原理があげられる。これは万物は皆個々の対立である、とする。自分と相手、表と裏、上と下、右と左、高さと低さ、夫と妻、親と子といった具合であり、一人対一人、一人対数人、一人対万人といった対立もある。この間にそれぞれのすじみちがあり、それに順応することが正しい生存の法則となる、とする。この原理は歴史的においては宇比地邇神(うひじにのかみ)、妹須比智邇神(いもすひじにのかみ)などの陰陽の対立からくるもので、空間的には宇宙顕界のすべてが、このように対立ととらえられる実相から導きだされるものである。

ヘ. 易不易の原理
現象界のすべてにわたって、易(かわ)るものと易らぬものがる。万物万象、ことごとく、一秒の休みもなく、常に変わり、あらたまってやむときがない。しかも、そのまま、すこしも変わらず、もとのままのものがある。河の流れは変わるが、河そのものは変わらない、といったようなものである。流れるもの、流行するものから見ると、常に流れて止むときがない。しかし全体から見ると、流れるといった形においては不変であり、不動であり、少しも変っていない。こうした相反する二つの相を、ただ一つに統一して、万物万象、ことごとく存在を保ち、進行を続けている、とする。これは歴史そのもの実際、国家や民族の連綿と続いている状態や変化してゆく実情などからきたものであり、空間的には自然地理、人文地理的な観察にもよっている。

ト. 物境不離の原理
物と境とは、必須不可欠の関係にあって、物が物としてあるためには、かならず境があり、物なくして、単に境だけあるということはない。かりにあるように見えても、まったくその働きをしていないし、意味もなさないし、何の役にも立たない。たとえば家は、敷地がなくては建ちようがなく、敷地は家が建たなければ敷地としての意味も働きもない。境と物は、二者にして一者であり、一つにして二つである。べつべつには存在しない。これが存在大調和の実相である。これは歴史的には「ひもろぎ」、「いわさか」などの伝えにもとづき、空間的には宇宙における星、地球における生物、無生物のありかたから導かれたものである。

原理を一つ一つしっかりと玩味していると、全てに正確に的中されており完全無欠です。このような方が存在したことへの感謝と、繋いでくださっていることへの感激を覚えます。

子どもたちが将来、道に迷う時、この原理を思い出してほしいと祈ります。私たち伝統的日本人がどのように歩んできたか、そしてどのように歩んでいくか、歩み方のことが記されています。

太古から続く道上を私たちは今も歩んでいます。どんな時も、自分たちの体内、いや精神や魂にはその根と深くつながっています。子どもが安心して暮らしていける社會の創造をお手伝いしていきたいと思います。

徳福一致

先日、倫理法人会の創始者丸山敏雄氏のことを書きましたが、改めてその理念を深めてみようと思います。まずはこの「倫理」という言葉があります。この倫という言葉の語源は、仲間や類、また人の輪を意味します。つまりは仲間の中で大切に守る道理ということです。

人間は一人では生きておらず、社會を形成して社會の中でお互いに助け合い人になりますからこの仲間との関係が生きていく上でとても大切な生きる力であることは自明の理です。倫理をどう捉えるか、それを学び実践をすることでより善い幸福な社會を創造していくのが人間として生まれてきた使命の一つであることも間違いありません。

私が丸山敏雄さんの理念で大変共感したのは、「徳福一致」というものです。これは、徳=福であると言い切ることです。私は以前、二宮尊徳の一円観を学び大変な衝撃を受けそこからすべて一円にして万物一体善の境地を学びました。今でも一円観によって、様々な事柄を受け止めそれを一円対話というカタチに昇華させ社會の幸福のために幼児教育の環境に導入を弘めています。

そもそもこの徳福一致を提唱するようになった背景を考えてみると、丸山敏雄氏の時代は社會が急速に徳と福とを分けて考えるようになったということも洞察できます。つまりは、徳を積むことと幸福はまったく別物であると認識されていくようになったということです。

例えば、想像してみると見返りを求めずに世の中のためにただ善きことだけを祈り行うということが損となってしまえばそれはしなければならないことになります。しかし、もしもそれが幸福そのものの本体であり実体であると認識できるのなら徳を積むことそのものの価値を感じることができます。

かつての日本は、富=徳でしたから富=得ではありませんでした。西洋型の個人主義が入ってくることで、それまでの日本の倫理は崩れ社會が大きく変わっていきました。そこに警鐘を鳴らしたのが丸山敏雄氏だったようにも思います。

情けは人のためならずという諺があります。これも本来は、情けをかけることは廻り巡って自分のためであるという倫理道徳の話が、他人に情けをかけることはその人のためにならないというように勝手に認識が変わってしまいました。現代では、ほとんどの人が意味を間違えて後者として使っているようです。

このように言葉が変わるのは社會が変わるからです。社會が今どのようになっているのかは人々の言葉の中に顕著に出てくるのです。徳福一致とは、すべては人間の間で転じ合って福になって顕れてくるのが徳の正体であるというのです。

だからこそ本当に人間社會を幸福したいと心から願う世界のリーダーたちは必ずこの「徳積」の境地にたどり着くはずなのです。私が徳積財団を設立する理由もまた、この人類の幸福のため、そしてその人間と一緒に生きていく仲間のいのちたちのためでもあります。

今は、徳も得になり、福も欲のようになっています。本当の意味が回帰してくる日はいつになるのか、それは人類の目覚めが必要であり、一人一人の勇気ある行動が必須です。

子どもたちが安心できる未来を譲れるよう幸福な社會を創るために私にできることを実践していきたいと思います。

国富論

国富論という書があります。これは1776年に哲学者のアダムスミスが現代の資本主義の思想の経済構造を提唱し出版されたものです。この本は西洋の古典ですが、これが西洋的な経済観念の実質的なはじまりのように思います。

シンプルに言えば、世界の経済は個人個人の利益を最大化させることで発展を続けていくという具合のことが書かれているといいます。そのために如何に生産性をあげるか、そして効率を優先するか、さらには分業するか、現代の経済の仕組みのことを書か書かれます。そして国が富むために必要なのは消費であると定義しています。

そうやってこの200年、世界の経済学は発展しみんな資本主義を導入して国家を富ませてきました。しかしここにきて、コロナも体験し果たして「国家は本当の意味で富んでいたのだろうか?」と疑問に思った人が増えたはずです。

日本は特に、戦後、海外からもエコノミックアニマルと名指しされるほどに経済の発展に集中して世界第二位の経済大国にまでのし上がりました。最近では中国に抜かれていますがそれでも世界の中では経済大国です。しかし実際の幸福度は下がる一方だといいます。

果たしてこれが本当に国が富んだと言えるのか、国が富むとは何か、本当の富とは何かということを今一度、見つめ直す必要があると私は思います。

かつての日本は富をはっきりと定義していました。それは「徳」のことです。つまり国が富むというのは、徳を積む人たちが増えて徳が蓄えられている国になること。それを国宝とも呼び、徳を宝として大切にしてきました。

今では徳は単なる経済の中の「得」でしかなく、本物の徳は戦後の教育によって次第に荒廃していきました。明治以前の日本人は、精神がとても成熟していました。心が素直で正直で感謝を忘れず、誠実であったのは日々の暮らしの中でこれらの徳目を実践し徳を国民全体で醸成する努力をしてきたからです。

黄金のクニである日本とは、本来は徳の溢れるクニである日本であったということです。もう一度、ここで国家の国富論を日本から世界に発信していかなければなりません。それは国富論ではなく「国富徳論」を示すということです。富国有徳という言葉もありますが、国が本当の意味で富むには有徳の社会をみんなで醸成していくしかないということです。

子どもたちが、仕合せにこのクニでいつまでも生き続けることができるように徳が循環する仕組みを私が必ず成し遂げ、このクニを甦生させていこうと思います。

 

 

美しい生き方

昨日、ご縁があって豊前市にある倫理法人会の創始者の丸山敏雄氏の古民家と天和会館を見学する機会がありました。まだコロナで閉館でしたが、事情を理解してくれてご親切に対応していただきました。

丸山敏雄氏の遺した言葉は、戦後の日本において倫理運動と呼ばれる生活改善運動を実践された方です。具体的に17か条の「万人幸福の栞」というものを掲げ、生活の中に具体的な実践を積み重ねていく中で倫理の道理を説いていきました。

第一条 今日は最良の一日、今は無二の好機  第二条 苦難は幸福の門 第三条 運命は自らまねき、境遇は自ら造る 第四条 人は鏡、万象はわが師 第五条 夫婦は一対の反射鏡  第六条 子は親の心を実演する名優である 第七条 肉体は精神の象徴、病気は生活の赤信号 第八条 明朗は健康の父、愛和は幸福の母 第九条 約束を違えれば、己の幸を捨て他人の福を奪う 第十条 働きは最上の喜び 第十一条 物はこれを生かす人に集まる 第十二条 得るは捨つるにあり 第十三条 本を忘れず、末を乱さず 第十四条 希望は心の太陽である 第十五条 信ずれば成り、憂えれば崩れる 第十六条 己を尊び人に及ぼす 第十七条 人生は神の演劇、その主役は己自身である

現代の便利で人間都合の世の中では、実践を怠りただ日々を闇雲に忙しく過ごしていたらややもすると世の中の常識や風潮に流されて自己を見失い刷り込まてしまいそうなものです。それを実践によって撥ね返し、本来の自己を確立していくということ、教育者としてのロールモデルを示してくださっています。

自己の確立と仕合せは表裏一体です。自己という一人の存在、自分という二人が一体になっているもの。そのままあるがままのいのちに合致するとき、人間は本物の人間になります。それを狂わせるのは、環境であり場でもあります。知らず知らずに文化や場の影響を受けて人間は醸成されますからどのような処にいるかは知らず知らずに多大な影響を受けてしまうのです。そういう時、目を覚ますような人に出会ったり、気づきをいただき暮らしの指針が観えることで人間は自己を発見するように思います。

私は、このタイミングでご縁があったことに不思議な思いがしました。暮らしフルネスとは、生活の改善であり暮らしの改善です。本物の日本の暮らしが亡くなってしまっている今、暮らし改善運動が必要ではないかと思うのです。

私は宗教家でもなければ、運動家でもありません、ただ粛々と自分の足元で実践をするものです。しかし、今の世の中、子どもたちのことを思えば心配になるし、未来のことを思えば繋いでいかなければならないという使命にかられます。これから時間をかけて丸山敏雄さんの言っている意味の本質を少しずつ学び直してみたいと思います。

最後に、特に感銘を受けた丸山敏雄氏の「心訓十戒」です。

「人を大切にする人は、人から大切にされる。

人間関係は、相手の長所と付き合うものだ。

人は何をしてもらうかより、何が他人にできるかが大切である。

仕事では頭を使い、人間関係では心を使え。

挨拶はされるものではなく、するものである。

仕事は言われてするものではなく、探してするものである。

わかるだけが勉強ではない、できることが勉強だ。

美人よりも美心。

言葉で語るな、心で語れ。

善い人生は、善い準備から始まる。」

そうありたいと強く思い、子どもたちにその美しい生き方を譲り遺していきたいと思います。

みんなが恩人

「恩」という言葉があります。辞書の大辞林には「他の人から与えられためぐみ。いつくしみ。」と記されています。この恩というのは、人間は誰でも恩をいただいていない人など存在しないことがわかります。

つまり人間は、恩によって成り立っており、その恩をみんなで与え合うことによって生きていくことができるのです。そしてその恩には色々なものがあるように思います。

例えば、親の恩、先人の恩、社會の恩、自然の恩、身近な人の恩等々を数えればいくらでもでてくるのがこの恩です。多くの恩をいただいてばかりですが、その恩を返していくきながらまた新たな恩を循環させていく、それが人生のようにも思います。

恩返しや恩送りという言葉もありますが、実際には偉大な「恩」の中で存在していますからもっとも大切なのは「恩を忘れない」ことだと私は思います。

恩を忘れないで生きていくのなら、いつも自分は恩に恵まれていることも忘れません。その恩はどのようにめぐっているか、そしてその恩は一体どこからやってきたものか、そして自分という存在が如何に恩によって醸成されているか、その徳が備わっていることを自覚することができればみんなが恩人になるのです。

恩人の中で生きている、そして自分も恩人として生きていく。

この恩を忘れない実践が、感謝になり心の平安や豊かな社會を築いていくことができるのです。現代は、恩という言葉もあまり聞こえなくなってきました。利害損得ばかりが語られ、騙されたとか、嘘をつかれたとか、嫉妬されたとか、恩を忘れている時の状態が続いています。

この恩を忘れない仕組みこそ、徳の循環の仕組みです。

徳積の仕組みを、人々に還元するために知恵を絞っていきたいと思います。

コロナシフトの意味

世の中には本当のことだけれど、目を背けて誰も気づかないふりをすることで溢れています。これを常識といい、この常識を変えるというのは不可能だとどこかで諦めているものです。

時に、真実はこれまでの常識に気づかせる機会になります。しかし常識に気づいて、これからどうするかとなったとき、その常識は自分たちにとってとても都合よく再設置されていくのを感じます。

例えば、自然環境でいえば今回のコロナによる自粛で自然環境は驚異的な回復をみせました。CO2の削減にはじまり、あらゆる生態系が増えて同時に汚染が収まっていきました。過剰な経済活動と競争を繰り広げていく中でみんなが利潤を猛烈に追いかければ自然環境は犠牲にしてもいいというのは常識であったことに気づいたのです。

他にも、過剰に都市型社会に固執して密集させて便利にしていった結果、これが今回のコロナの最大のリスクになっていきました。古来から多様性の保持のため分散させてきた各々の地域での文化や価値観を、一つの文化や価値観ばかりを取り上げて一極集中してその強みばかりを追いかけつつそれ以外を弱さだと切り捨ててきたことで人間社会の信頼関係が非常に脆くなってしまいました。弱さを絆にすることが常識であったものを、弱さは悪であるとさえ語りそれを目に見えないところに追いやるのが常識であったことに気づいたのです。

この人間の欲望は、今更、切り離せない、だから前提は変えずになんとかできないかとみんな議論ばかりをしては部分最適ばかりで評価されてそれがさらに現在の常識の厚みを深めていくという悪循環です。

エコやエゴなど、もうすべてどうでもよくなる時が来ます。地球という家でステイすることもできなくなったとき、私たちはどこかの星に移住するのでしょうか。住みやすい世の中というのは、一体誰にとって住みやすく、誰にとって住みにくいのか。

本来、自分の家とは何か、歪んだ個人主義の先にあるいびつな家族像も気になります。生まれてすぐの子どもたちを観ていたら、社會の原型がちゃんと継承されているのを実感します。

むかしは、子どもは国の宝であり地球の宝だと定義されていました。個人的なものではなく、自然的なものとしてみんなで大切に見守り育ててきました。当たり前のことですが、果たしてこれが今はどうなっているのか。

人間は便利で自分たちにとって最高の環境にしてきたかもしれませんが、その人間にとって最高の環境が最悪の環境に突如と切り替わる日が必ず訪れます。その時、人はそれまで前提としていたものが崩れ、常識を無理にでも変える必要に迫られるのです。

環境にとって人が変わるというのは、真実だということも今回の体験で気づいたことです。引き続き、場の力を学び、どのような場によって新たな未来を子どもたちに譲っていくか、気を引き締めてコロナシフトを共に歩んでいきたいと思います。

リジリエンス~自然の回帰力~

私たちは復興力というものが備わっています。これをリジリエンスと英語ではいいますが、元に戻る力、言い換えれば回帰力のようなものがあるということです。すべてのいのちは、自然から発生して自然に回帰しますからシンプルですが私たちは自然の一部であることからは逃れられないということです。

これを必死で逃れようとするのが人間の科学なのかもしれませんが、逃れられないと思う瞬間が必ず訪れます。それは自然災害や天災、天敵が訪れるときです。今回のコロナは、天敵のウイルスです。この天敵というものは、決して敵味方の時の敵ではなく天とついていますから自然循環の中で調和を司る神様のようなものです。

科学がどれだけ進歩しても、いくら自然から離れて征服した気になったとしてもそんなものはほとんど通用しないことを自然は必ず私たちに伝えてきます。謙虚にバランスを保っていた日本人の先祖たちは、智慧を積み重ねて独特な自然との共生文化を創り上げてきました。

その智慧は世界でも類を見ないほどで、それを先人たちは「和」といい、この和の文化を通して自然と上手く折り合いをつけながら豊かに暮らしていく方法まで辿りきつきました。それを改めて見直す必要があると私は感じています。

そもそも自然の回帰力は、自然の状態に近づける力です。今回、コロナウイルスで人類が自粛しておとなしくしていたらあっという間に空気汚染がなくなり、山林や河川、海にいたるまで生態系が戻ってきたといいます。たかだか数か月、人間が科学をつかった現在の資本主義型の産業構造を停止するだけで自然は随分と回帰したのです。

いくら持続可能だとSDGsとかいって、わけのわからない経済活動ばかりを増やしては自然環境のためにとやっていてもかえってそれで仕事が増えているだけといった矛盾があることに気づくはずです。特に今回のコロナの御蔭で、人間が汚染をするのをやめれば自然は偉大なスピードで恢復するのを実感しましたからもう少し人間はそのことを真摯に受け止めて今の暮らしを換えていく必要があると私は思います。

自然を敵視するのではなく、自然の力をうまくお借りするという発想、自然を征服するのではなく、自然と共生し活かしあう関係を築くということ。これは何億年も前から人類が工夫してきたことの集積が今も伝統に生きているのを感じます。

欧米型の新しい価値ばかりを価値にし、古くからの智慧をなんでもかんでも捨てていきますが捨ててはならないものもたくさんあるのです。捨ててはならないものまで短絡的に捨ててしまうというその価値観が、人類を更に盲目にしていくのです。

だからこそ、そうではない生き方をする人たちによって本来の在り方を見直す必要があります。それは決して原始時代に戻れというのではなく、原始時代にも大切にしてきた智慧を、科学が発展しても守り続けて調和させていく努力をしていこうと言っているのです。

私が最先端技術に取り組みながら、まったく正反対の暮らしを楽しむのもまたこの人類の未来にむけて、子どもたちの将来のために必要だと感じているからです。徳積財団での活動を本格化する前に、仲間を募り同じような生き方をする人たちで新しい経済の思想を築きたいとも思っています。

コロナの御蔭でコロナからはじまる未来を楽しみたいと思います。

新しい常識

私たちは日常を生きていますが、そこには確かな社会システムというものが入っています。それは常識とも言い、また別の言い方では刷り込みとも言います。いくら本人が常に本質的に目的を優先して生きていこうとしていても、霧や霞がかるように次第にぼやけていくものです。

初心を忘れないという言葉もありますが、これもまた常に自分の心のままであること、正直な自分自身であるままに醒めている状態でいるということでもあります。醒めているから、物事があるがままに観えて惑わされることはありません。

たとえば、自然か不自然かという判断基準があります。自然が観えている人であれば不自然というものが何かを見極めることができます。しかしそもそも不自然を自然と思っている人には不自然というものが自然になっているのです。

常識とはそのようなもので、人によって常識が異なりますが誰かが常識を創り上げてしまっていたらそのシステムの中で本質や真実でいようとすると非常識なことをしていると周囲に評されていくのです。

変人や奇人と呼ばれる人は、常識がないと揶揄されます。常識がある人は正常な人で、常識ではない人は奇人変人。では常識がもしも誰かが創り上げたものであって、それが非常識になってしまった場合は全員が奇人変人ということになります。

これくらい人の世は、常識が変わっていくのです。それは時代が変われば変わってしまうことを歴史から学べるはずです。戦国時代の常識、縄文時代の常識、現代の常識、人間はそうやってその時代時代に常識を創り上げていきます。

自然界からすれば、常識は変わることはなく存在します。それは地球の常識に従うからです。私たち人類は、地球の常識を常識にしなくなりました。だから地球からしたら非常識だと思えることを、それこそ非常識だと言い切り、人間の常識を地球に押し付けていきます。

これこそ人類の刷り込みの原因であり、根幹にあるものです。自然と共生していくという生き方は、現代では奇人変人の類になります。しかし太古の時代から、変わらずに私たちは自然と共生してきたからここまで生き延びてきました。自然の常識に逆らって生きていけるはずもなく、自然に淘汰されていきます。

現在、コロナのことがあり人類は立ち止まって新しい常識と向き合う機会をいただきました。この新しい常識とは、決して特異なものではなく本来の常識、地球の常識であることに気づく必要があると私は思います。

新しい常識に生きるのなら、まずそもそも常識とは何かから考えることです。子どもたちの未来の仕合せのためにも、常識の意味を実践していきたいと思います。

共生の智慧

以前、ある方から蜘蛛やトンボやカエルが古代から稲作と共存してきたことを寺院の古鏡に刻まれていたというお話をお聴きすることがありました。確かに、稲作にとってその3つの昆虫はよく見かけるもので稲を食べる虫を食べてくれる虫でもあります。

トンボやカエルなどは小さい時から親しみがあり、なんとなく愛着が湧いている人も多いように思いますが蜘蛛は結構、嫌われていることが多いように思います。

しかしよく考えてみたら、身近にいつもいる昆虫たちは人間と共生してきたから傍にいるのであり、人間の営みが自分たちにとっても都合がよいから一緒に生きてきたとも言えます。

他にもツバメやニワトリ、犬や猫、もっと以前になれば牛や馬などの動物たちも人間と共生してきました。

お互いの長所や役割を上手く活かしながら、共に生活を営む仲間がいるというのはこれは大きな暮らしの智慧であるように思うのです。そしてこれは自然の共生の原理であり、すべての生物たちはそのようにして仲間をつくり共に互助関係を築き上げていのちを助け合い繋いできたとも言えます。

改めて考えてみると、それぞれの生態系を調べていくことはどのように共生してきたか、また身近な生きものたちから自分たちが何を学んできたかを発見する鍵でもあります。共生の智慧を学ぶこともまた、身近な生き物を深めていく中で自明するように思います。

例えば、先ほどの蜘蛛という昆虫も偉大な生物の一つです。蜘蛛は糸を出しますが、最長で700m近く出し、風で糸を飛ばしては最長で一日に30キロほど移動するといいます。また餌のあるところを見つけては設けた蜘蛛の巣は毎日手入れのために分解し綺麗に作り直します。蜘蛛は狩の名手でもあり経糸と横糸があり、移動する糸と捕獲するための油のついた糸は分けられ絶妙な巣によって昆虫を捕獲して保存します。

また全世界に生息するクモが食べている昆虫の量は、毎年4億~8億トンに及んでいるとの研究結果が出ていてこれは人間が1年間に消費する肉と魚の総量に匹敵するといいます。しかし同時に蜘蛛は食べられる存在でもあり、8000種以上に及ぶ鳥や他の捕食動物や寄生動物が蜘蛛だけを食べて生きているとも言われます。

蜘蛛が全生物に与える影響をみれば、如何に偉大な存在としてこの地球で共生していることがわかります。身近なミクロな存在であっても、マクロで観直してみればそれが地球全体の貴重な共生の一部であることを知るのです。

私たちが身近な生きものたちと暮らすのは、同時に虫たちや動物たちも人類を同様に生態系を維持する共生の仲間として観られているのかもしれません。

自分のことしか見えなくなるのは、人間の弱点の一つです。

視野を広げて、視座を高めて、もういちど、共生の智慧から学び直していきたいと思います。

歴史を間違えない

歴史を学べば、その時代時代に数々のことが発生したことに気づくことができます。その中でも人類の歴史というものと、自然の歴史というものがあるように思います。

人類の歴史は世界史や日本史などもそうですが、その時々で権力者たちによって書き換えられてきたこれまでの人類の変遷です。本来は、人類史というものは世界全体でどのように暮らしを営み現在まで行われてきたかということのみあれば事足りるように思います。つまり人類史は社會史でもありますから、どのように社會を形成して変化させていったか、その中でどのような出来事によって価値観が変容してきたかを知ることで人類という生物の歴史が学べるように思います。

また自然の歴史というものであれば、それは災害の歴史でもあります。隕石や火山の噴火、津波、寒波に熱波、大地震など地球全体の生命を危機に晒すような出来事が現在までに発生してきたか、その中で生命はどのように変化してきたか、これによって自然から生命の歴史が学べるように思います。

今、生きているものたちはみんな過去の歴史を歩んだものたちです。その時々でどのように乗り越えて種を保存してきたのか。これはとても偉大な形跡であるように思うのです。

そしてこの先、同様な危機が訪れた際にどのようにその困難を乗り越えるのか。

それは歴史に学ぶしかありません。

今、私たちは歴史を学んでいるでしょうか。そして本当の歴史を見つめているでしょうか。為政者や意図的に誰かが刷り込むための歴史を歴史と勘違いしていないでしょうか。本物の歴史は果たしてどれくらい役割を果たしているでしょうか。

人類がもしも大きな間違いをするとしたらこの歴史を間違えるということかもしれません。歴史は、私たちの先人からの徳の中にこそ存在しています。それを智慧とも言います。

歴史や知恵から、なぜそうしたのかと洞察するとそこに歴史を乗り越えてきたヒントやコツ、そして答えが記されています。私が古民家で暮らしを甦生するのも、1000年先の子どもたちのための環境を遺すために今に取り組むのもまた以上の理由からなのです。

人は自分というものの小さな単位でしか物事が見れなくなってきました。自然から離れ、個人主義を刷り込まれ、偉大な時間や存在のことを忘れてしまいました。刷り込みの怖さは場や環境から感じ取れるものです。

もう一度、まだ間に合うからこそ一人でも多くがその歴史の智慧や本質を学び直して子どもたちに徳を譲り遺していってほしいと祈ります。自分ができることから、取り組んでいきたいと思います。