主任セミナーと今昔

先日、2日間を通してGT主催の主任セミナーがあった。
今までの保育環境セミナーは、園長でも主任でも保育士、教諭問わず参加できるものだが今回は同じような保育理念と問題意識のある主任の先生達だけが集まって学びあうという初のセミナーだ。

通常は、保育園幼稚園は園長の考え方が違うから主任といわれる先生も随分考え方がバラバラであることが多い。なので全国から集まるよりも、同じ保育観で保育を行っているところの方と話し合いを持つ方が理解は深い。しかしセミナーとなると、広いところにあわせないとそれができないので意外と浅くなってしまう。そうなると実践での暗黙知が飛び交う気付きによるお互いの協同的学びまでにはとても発展しない。

今回はそれをグループをこまめに入れ替えテーマ別のセッション形式で行い、それぞれの関係性の中から発達別にそれぞれの課題を見詰め合うことができてとても議論も内容も発展性のあるものになった。

もっとも大切なのは「理念」という名の価値観が共有できるということだろう。

まさに「見守る保育」ならではの研修会になった。

カグヤのコンサルタントもよく主任先生と話すことが多い。
ひょっとすると業界でも1,2を競うくらい主任と話しをしているのではないかと思う。

たとえば、各園に見守るほいくソフトをコンサルテーションする時でも主任先生と色々なテーマについて話し合う。記録一つにしても、監査、伝統のための書類という記録の定義を捨て去ってもらい、子どもの姿を正しく捉え個別に課題が見え、振り返る価値のある「意味のある本当の記録」という新しい定義に変える。そして、物事の見方、所謂、主観に囚われない客観的な課題を見つけ出し個々に見合った保育ができるようになり先生方の具体的な方法論が変えていくという流れの話しをする。

このようなことを説明する時に最初必ずカグヤのコンサルタントは「主任の壁」(弊社では刷り込みの壁ともいうのだが)というものにぶち当たる。

どこの園でもベテランといわれる方々が、主任先生を務めている。
お世辞は一切なく誤解を恐れずに語れば主任が持つ、職人的要素はある意味芸術的な高さを持っているところが多い。

責任感のある先生が実体験を通じて身に着けてきた感性とセンスは、とても素人には分からない職人芸的高度な水準を持っているような気がする。
よく納得してうなずきながら「本当に凄いな」と思うことが多い。
もちろん、マンネリ化しているところがほとんどだが稀に分かる人にしかわからない神がかり的境地だったりもする。でもそうなると一般の先生はこれを理解するのは大変だろうなと思ってしまう。

しかし一番多いパターンというものがある。
それはその主任が体験して気付いた時と環境そのものがその当時と違うということに気付いていない方の場合だ。

たとえばこのように考えてみると分かると思う。

保護者というひとくくりの単語でも、20年前と今では同じだろうか?
子どもというひとくくりで姿を語っても、10年前と今では同じ姿だろうか?
園経営のやり方についても自論を展開したって、40年前と同じものだろうか?

つまり、身の回りの環境が気付かない間に無意識下に変わってしまっても本質的なものをどれだけ科学的に引き継ぎ残していけるかがキーワードになっていたりするものだ。

感覚だけで自分がずれていることに気付かないことほど怖いことはない。
以前どこかで聞いた「茹で蛙」状態になってしまう。

それに非常に特異な狭いある一定の関係や環境の中でだけ「正しい」と信じることは時として色々な矛盾を創り出すことになることも多い。

今は昔とどう違っているのか?
今の時代がどういった価値観になっているのか?

ひょっとしたら、一日寝たら世界が変わっているかもしれないという感覚だ。

常に、外側に目を向けて内在する本質がぶれない様に工夫成長させていくことが本当に学ぶべき「スキル」の心得なのではないのかなと私は思う。

まずはブレずにズレないために「共通理解」を持ってもらうために保護者、職員に対して、どんな関わり方、環境を用意するか創意工夫の集大成としてそのモデルを示すことがきっと大事なことなのだろう。

私達カグヤがお手伝いしたいと心から思っているところも全てはそこに集約される。

主任先生が引き継いできた貴重な職人的要素をもっと私達のITと科学の目を使いしっかりと分解して本質を次世代に届けていけるようこれからもカグヤとして努力していきたい。