主体という愛

主体という言葉がある、これはもともと人が生きようとすることを認め信じ正しくあろうとする働きのことだと思う。

すべての生命は天からの無償の愛や恩恵を無限に享受している。

与え続ける側である親心のような無償の愛に対して、すべての生き物は真摯に自分の性を活かし生きようとしているように思う。

それはまるで、与え続けられた愛に応えるようにすべてを丸ごと信じて自らを尽くしていくことが同じく天のような存在になれることをいい、無償に対して無償の愛を通じているようにも感じる。

常にお互いが存在できるということに感謝できているかということが何よりのものであると至上至大の誠の心に何よりも偉大な慈しみと敬いを感じてしまう。

それが自然であると私は思う。

そして自然を思う時、如何に今の人々が不自然であることに気づく。

親に対しての子どもとしての在り方としてもそう。
今は、なぜか親に対して文句を言ったり、親を信じない子どもが増えている。

大人たちの中でも信じあうことを避け、常に疑心暗鬼でいるのは自分が存在していることの否定でもある。

もともと自分がこの世にいられるのは、両親の御蔭であり、そしてその両親を生んだその先の祖父母の御蔭であり、そしてそのまた先の人たちの御蔭で今自分がこの世で存在することができる。

なのにそういう繋がりに感謝をすることを断ち切り、そういう無償の愛に対して見返りを求め、さらには有償の愛を示してみろなどと迫っている人たちが居る。

子どもの心を捨ててきた人たち。

そしてそれは負の連鎖を生みだし、さらなる子どもたちへその有償であることを求めていこうとする。

では、太陽や水、月や風など何も見返りを与えないものに対しても同じようにこれだけ自分が受けているのだからとさえいい、さらにはどのように評価されているかばかりを気にして評価が気に入らなければ文句を言う、これが果たして人としての道であるのだろうか、それは絶対にない。

常に私たちは目には見えないけれど、たくさんの見守りの中で今、ここに存在することができるということを忘れてはいけない。

無償の愛を利用するようではいけないのだ、親心とは常に子どもを思いやる心であり、子心とは、常に親に感謝する心であるのだと思う。

本当の貧しさは、そういう繋がりのある世界を断絶することであり、本当の困窮とは、そういう愛を感じることを拒絶することにある。

常に自分の疑心暗鬼が無償の愛に対する冒涜であることを感じ、虚栄心を捨て去り、自分を心底信じることができるようになるように願う。

大人たちが病んでいるのは、在る意味で病むことで正しいことを思い出させようとする自浄作用であるのだと思う。

私たちは大人になったのだから、子どもたちに無償の愛を与え続け見守ることでもっと世の中を良くしていけるように心を清めていかなければならないと思う。

主体的に生きることは、愛を信じること。
愛を信じていれば自然に主体になっていく。

受身になりがちなこの世の中、教え込まれたものを忘れてあげる謙虚さを持って見守る保育に取り組んで欲しいと願う、まずは実践あるのみとして誠の心を育んでいこうと誓う。