一字一涙

私が尊敬する偉人の関係性に、上杉鷹山と細井平洲がいる。

まず鷹山に有名な言葉が、「成せばなる 成さねばならぬ 何ごとも 成らぬは人の成さぬなりけり」がある。

もともと私がこの偉人に感応して繋がったのは、吉田松陰であり二宮尊徳であり、その師、細井平洲との邂逅そのものによるものだったと思う。

特に仕事で理念を扱う以上、この二人の師弟の仕法はとても参考になり何よりも私たちが以前から行ってきた維新のモデルになると感じてその足跡をずっと辿ってみようとしたところからのご縁だった。

もともと上杉家は、藩祖、上杉謙信が戦国時代に何よりも「義」を掲げその生きざまを家臣ともども自修し学び藩格を陶冶してきた。その後、戦後に直江兼継が顕れ、その忠義を平和な時代に「愛」とし、何よりも自らが愛の犠牲を実践し自らを顧みずに主君と家臣、その他の民に対し真心を尽くしきった生涯を生きた。

しかし、時間が経つにつれ安楽の方へと押し流され何よりも藩のプライドや重臣たちの嫉妬などによりその実践が薄れてきてさらに石高が下げられる事件が起き、誰も何も無責任になり解決しないまま時に流された。

そして、このピンチの時に顕れた人物が上杉鷹山であり見事にお互いが助け合い認め合う生産性のある思いやりのある社会を新生することになる。

何かの時代のターニングポイントにはそこに様々な偶然と必然の機会が織り成し、その都度何かしらの方針を定めて揺るがない理念を立てる人たちがいる。

歴史を辿るとそういう足跡の思念の痕跡によりいろいろなことから学ぶことができる。

私が今回、何よりもコンサルティングで重要視しているのがその上杉鷹山の師、細井平洲の手法となる。

この方は儒学者であり朱子学を行いながらも何よりも実践第一を掲げ、常に相手のわかる言葉で相手の実践にあわせた学問ができることを大事にした。例えば「考えて、学び、行動する」という教えを常に優先し、学問が机上のものにならないようにその思想や指導は常に現場の人たちの心に根差していたと記されていることからもよくわかる。

現実的に騒ぎ立てることではなく自分から主体的に取り組み改革をしようと思えば、常に実行できるものでなければその時代にあった学問とはいえないのだから、実践から学んで考えた思想は常に時代時代に於いて目からウロコになるのは当然の原理だとも思う。

この細井平洲は、理念の設定というものを大事に、自分の分度を弁え、何より米沢藩主、上杉鷹山を見守り続け、その藩政改革を実現に導くことができた。

見守りには精神的な支えというものがある。

人が理念や大義を掲げて物事を実行するとき、そこに悩みや迷いというものも同時に起きる。何も理念を立てなければそういうものはないけれど、何かを成そうとするならば当然に揺るがないものは原点でもある。

そして人は原点を大事に、お互いを思いやることで信頼関係を築いていく。

その信頼の強い絆こそが、何よりもお互いを見守りあうことであり、そしてそれぞれの道で成そうとする自分の役割の意義を感じ合いその天命を全うすることであるのではないかと私は思う。

なぜこの世の中がうまくいかないのか、政治がこうなのかを思う時、常に私はこの「大学」の中にこの「修身・斉家・治国・平天下」という原理原則があるように思え、国として世界として、私たちはこの先人の叡智と実践をどれだけ模範にしていくかは重要なことと思う。

長くなるので今回はここで話を終えるけれど、この上杉鷹山と細井平洲先生の最後の一期一会の出会いがある普門院には「一字一涙の碑」がある。

ここで師弟がお互いの歩んだ道をお互いが歩みあい涙しながら出会い、そして別れた形跡がいろいろと遺っている。

そしてここにあの吉田松陰が訪ねてきていたことをお寺の口伝で知った。きっと、国を憂う人たちが持つ「忍びざる心」の本質との深い邂逅を得たのだろうと私なりに感応することができた。

日々、子どもたちを思い生きていくことで一期一会が在る。出会いは時空を越えていつも声が届くことを思えば思想こそが私たちの本来のものであり、そう思えば私心なき思いやりのある澄んだ人生は素晴らしいものだと感じる。

何よりもその瞬間瞬間に感動する自分が此処にいる。

この感動をより多くの人たちへ伝えながらも自分の内面にある真実に正対していきたい。より惻隠の心の本質に近づいていけるような自分を修めていきたい。

感謝