本当の人間関係

信頼しあう関係を築くのに心を開くということがある。

例えば、自分の心に尋ね、信頼したい相手に対し誤魔化したり隠し事を行えばもうそれは心を開くことができない。自分が相手に心を開くことは、相手のことを自分が信頼しているという行為であり、その相手に対して心を受け取りその開かれた心に対して自分も心を開き通じあうというのが信頼関係を築くということでもある。

その繋がりの絆を強くするのは、日頃のお互いの心を開いた関わりの積み重ねでありその心の扉を常に閉じずに開けておくことができるかどうかによる。

都合によって開けたり閉じたりとしていては、信頼できないとなってしまい本音や本当の関わりができなくなってしまう。

大学にある、「唯仁人のみ能く人を愛し、能く人を悪むと為す」という。これは、ただ本当の人間だけが本当に人を愛することができる、本当に人を憎むことができるという意味になる。だからこそ、孔子は己に克って礼に復るを仁を為すといい、何よりも相手のために自分の甘えに打ち克ち正しい道義を重んじることで思いやりをもった本当の人間になるといった。

たとえば、誰かと決めたルールや規則がある。それはお互いを信頼しあうために要したものだとする、たとえば報告だったり日報だったり、何か問題意識の共有のためのやり取りだったりと、言葉にしたということはそこに約束したということになる。

そのことに対して、自分ができないのならば当然約束してはいけないし言葉にしてはいけないのに、それを破るから信頼関係がまた壊れていくという悪循環を繰り返す。

自分の言動には細心の注意を払い、軽々しくもその場の雰囲気で話したりはしないと言うのは信頼される人間にとってとても大事なことだと思う。

安易な優しさというのは、自分への甘えであって過度な優しさと同じくらいタチが悪いものであると思うし、それが許されるのは自立しあっているものどうしでの中での通じ愛であり、それができるには当然自分に克って自分に忠、人に信という至誠の実践の上に成り立っているのだと思う。

しかし、また仁者に学ぶべきものとして包容力がある。

どこまでを包むかというのは、その愛するところを素直に心から受け容れること。憎むものは憎み、愛すものは愛するというのは、本心からその人の本当に素晴らしいところをゆったりと包み込む深く大きな愛心と真心による。

つまり、相手の中に良くないと思われるような受身である部分や歪んだ刷り込みについては断固として絶縁し正しい人間関係の中には入れず、相手の中に良いと思われるような主体な部分や正しい人としての美しい姿には何よりもあるがままに包みこみ人間関係を豊かに認め合うような気持ちで繋がり織り成していく。

本当の人間関係では、何より自立していないで刷り込まれた人としてどうかという部分にはクールに厳しくジャッジし、自立して真面目に素直な心を開いた人たちには温かく見守るというような「礼と譲」の実践が必要だと私は思う。

これからもカグヤでは、何よりも自分たちがチームとして何を成すべきかを常に自問し、私自身も偏った優しさではなく正しい見識と良心を大事に、原理原則のルールと規範や自律と、また譲り与え見守る思いやりと真心を優先して取り組んでいきたい。

中庸とは、仲人とは、そういう自立したものと定義し、本気で相手のことを思いやりきり接していきたいと思う。