約束

人間として、人間らしい徳目のひとつに「約束を守る」がある。

嘘をつかない騙さない、裏切らない、誤魔化さないということは、信頼しあう関係において何よりも絶対的なものであると思う。

これはよく勘違いしている人がいるけれど、それは相手にあわせてそういうことをしないのではなく、自分がそうしないと決めて実行していることが約束を守っているということになる。

つまりはこれは単に頭で守るものではなく、その心で決めて守ることが本当の「守る」ということである。

たとえば、みんなで決めたものであってもみんなのせいにせず、その刹那自らが主体的に物事を判断し自分の心にやると決めることが約束なのである。

相手に関係ない処で自分が決めるには、自分に正直に素直でなければいけない。正直素直は頭ではできない、正直や素直は自らの心の姿勢のこと。

つまりは、いつも誰もが観ていなくても自分の心が自分を見ているとしお天道様に恥じないような日々自らの心に正直に素直であり続け、それを絶対に守り続けることで自分が誰に対しても正直に素直に誰にも恥ずかしくないように生きていくことということになる。

これを誰かにあわせてすぐに変えたり、またそういうお天道様が観ているとも感じようともしないで自分をも騙し、隠れたり、逃げたり、やったふりをしたりと只管に「偽」に行動をやることになる。そういう偽の人は自分が逃げ切れたと勘違いしていてもそういうものが日々の言動や行動に如実に出ているのだから周囲から信頼されるはずもない。

善人と偽善人とは何が異なるのかといえば、善人は絶対的に自分に素直に正直であるように天を敬い人を愛して生きている人を言い、偽善人とは、誰かや周囲にばかりにあわせて正邪を相手任せにし、捻くれて人の話を斜めに聴いたり、もしくは頑固に意固地に自分の粗末な我念にこだわりその心の性根が腐るようなことをしていても気づきもしないで良いことをしていると勘違いしている人をいうのだと思う。

そうならないためにも、自分で決めたことを自分で守るという絶対的な約束をすることが何よりも人としての道になるのだ。

そういう人たちだけが心で通じ合い真に信頼するということの素晴らしさの本質を知り、そういう真正直な人たちが増えることが信頼し合う素晴らしいチーム、ひいては素晴らしい社会を築き上げていくことになるのだと私は思う。

今の世の中は、どうしてもそういう天に恥じないようにと自分で約束を守る真正直で生きようとしている人が少なく感じる、また幼少期からそういう人間としてどうあるべきかという教えに触れる機会すらも減っている。これは何よりも人として本当に子どもたちにも悲しいことです。

教育者とは教師のことをいうのではなく、そういう徳目を大事に生きている人たちのことを言います。大人は、子どもたちに恥じないようにそうであってほしいと思います。譲れるものもそれは富や芸術、文化、名誉や功績などではなく、そういう人として人間の徳を譲ることが何よりも大切であると思います。

人と人と信頼し合い、助け合い、認め合い、寄り添い生きること。

子どもたちは純粋にそういう生き方をしていきたいと心底望んでいるとこの私たちの本道であるカグヤの仕事を通じて感じています。

我々大人がどのようなモデルを示すべきかは、今はまず何よりも約束を守り人格を磨くことが周囲を素晴らしいものにしていくのだとも私は思います。

いつもいかなる時代も求道者とは常に、自らの戒律を自ら徹底して守ることでその真理と出会い、その一本だけの自らの正しい道にブレナイように自らの命を使い運ぼうとし遣り切るのであると私は思います。

そういう日々の人間としての徳目を正しく行うことが本来の道でありこれを道徳であるとしているのだと思います。

どんな時代も何よりも第一流や第一義の人はすべて道徳を兼ね備えている人であることは古典や歴史により明確であります。

私たちは子どものたちのモデルとなるために、命を懸けて約束が守れるような実践をしていきたいと誓う、何より子どもに見せられる背中を私たちが自分の心に決めて歩んでいきたい。

昨日もまた素晴らしい一日になりました。
本当に有難うございました。

一期一会

子どもを丸ごと信じること

子どものためや子どもたちのためと色々とやっている人がいる。

しかし本当はそれが子どものためかと思うと、単に自分のためにやっている人たちの方が大半である。

子どものためというのは、どれだけ子どもを丸ごと信じているかによる。

子ども第一主義の理念に、子どもが第一という意味の第一は、「一」であるということ、つまりは絶対的な存在として丸ごと信じている意味での一がある。この一とは、何にも比較対象するものはないゼロとイチの一であり永遠に平行であるようなものでありそれは何にも変えられない絶対値のこと。

そしてこの一に止まると書いて「正」しいと読む。

つまりは、正しいことはこの第一の一に止まっている止揚であるということを意味し、それが何よりも中道や中庸という真理にあるということになる。

子どもが正しいと思い、その子どものやりたいことややっていることを尊重しそれ自体に対してどのように自分が子どもの正しいままの大人になった姿とし、模範を示しているかというのが子どもを丸ごと信じているとうことに私はなっている。

子どものことを丸ごと信じる模範となるには、弛みない求道精神と志を持ち、真摯に人生を幸福に導き、多くの生きとしいける命の中で輝き続けることが要る。

そのためには、子どもの歩みをその子どもの望む道を叶えていくために様々なことを譲っていくことがこの子どもの傍にいる業界の人たちや、仕事の人たちの使命であるのだ。

しかし今は、わざわざこの子どものいる傍で自分のエゴを満たそうとしそれをさも子どものためだと自分がやりたいだけなのに子どもに未来を勝手に押し付けようとする風潮さえもある。

なぜ子どものことをもっと丸ごと信じないのかと義憤を感じる。

我が師は、子どものことを見守り、子どもの育とうとすることを信じている。

それこそが人類の未来であり、希望であると確信し、子どもたちのために広くその正しい道を自らが戒律を守り真摯に実践をしてリーダーシップを発揮し、後人の人たちのためにも道を切り開いてくださっている。

子どもを丸ごと信じるとは、そういう子どもの存在、いわば人間を丸ごと信じていることに他ならない。

カグヤは、その道を歩む人たちをともに導く模範となる仕事をすることを第一に優先する会社。

これからも今の時代の常識に囚われず、常に迷わずに自分たちの道を往くものでありたい。

これからも子どもを丸ごと信じるモデルとして、子どもに寄り添い、子どもの心でお仕事をさせていただける感謝のままに実践躬行に努めます。

心で立つ

チームワークで大切なものにみんなで行うがある。これは何かの出来事を繋がりの中で皆で喜び合うということを通して、人は一人では生きてはいけないということを皆が大切に理解しているかが問われる。すべての生物は自分だけで存在できるということはない、全体の中に自の分という分がありそれを正しく理解するからこそ正しく自分が在ることができる。

しかしそうではなく、その分を弁えず全体との繋がりを断絶し、単に自分のことだけをいつも優先し、自分のことばかりの成功失敗を追う人たちがいる。

やることが多くて忙しいという言い訳と理由を使って、目の前の事に心を籠めず投げやりに行うその心の姿勢が、それまでのみんなの思いや今までの繋がりを無視し好き勝手にやっていることになっている。

人は何かの仕事をするにも、何かをさせていただくにも、そのことに携わる多くの人たちの大切な思いを引き継ぎ繋がっていてそれが自分に頂いているということを感じることがなければ単なる流れ作業のようになってしまう。

目の前の作業を頭で安易に判断しロボットのように単に仕分けているだけでは、繋がりやその本来の意味を感じることもない。

意味をわざわざ感じるためにマニュアルを作るのも機械的な発想であり変な話だと思うけれど、そうではなく意義について分かち合うことや大切な思いを共有することを優先し、その心の余裕から周りがよく見え、そのみんなの思いやりを繋げ、大切に一つ一つのことに心を籠めているかどうかが本来意味を紡ぎだすのだと私は思っている。

しかし今は、ある人は、やりっぱなしでその後のことを追いもしない、またある人は、自分勝手に正しいを頑固に主張しそれまでの繋がりに責任を持とうともしない、またある人は、これまで関わった人たちが大切に守ってきたものを粗雑粗暴にするということもある。

これは全てに、「繋がりからの断絶」を意味し、自分自ら周りとの関係を断ち切っているその人自身の甘えと傲慢な生き方にこそある。その連鎖がより人と人との繋がっていたバトンや糸を断ち切ることになっているのだ。

よくIT系でプログラムなどの人が孤独になっていて精神的に病む人も多いのもこの理由によるものがほとんどだと思う、人は繋がりの中でしか生きてはいけない、いや、すべての命はバトンを受け渡しながらその命を繋いでいるだけともいえるのだ。それが消えることは、自らが孤立して孤独になっていくことを意味し、そこに生き甲斐や遣り甲斐などは発生することもない。

そうやって次第に流され自分は自分だけで生きているとどこかで思っていると人は自分だけの世界に閉じこもる。そして自分さえよければいいと考え始めるのだと思う。

どうせだれも自分を守ってくれないのだからと不貞腐れるか、もしくは誰かが守るだろうと誰か任せに無責任に次第になっていくのだと思う。

今、自分があるのは何の御蔭なのかの見えない繋がりをよく考えることだと思う。

自分自身、沢山の人たちの関わりの中で大切にされて色々な思いの中で生かされていることを心で感じそして一つ一つに心を籠めるのだと思う。

生まれてきてから今まで、もし本当に一人で生きたと思うならばそれは大きな勘違いで自分が当たり前に生きていると間違っていて、両親はじめ友人、周囲の人たちなどの様々な御縁ある人たちや自然の恩恵、そういう無償の愛の輪の中で自分が存在させていただいているのだ。

その繋がりを自らが断絶していることこそ、愛への冒涜になってしまうのではないか、そういう人が幸せを感じることが社会で果たしてできるのだろうか。仕事は機械が生み出すのではない、人の心が生み出しているのだということに気付くことからはじまる。

そして本当の充実や感謝は、色々な人たちから自分へバトンを渡されているという実感から自分がみんなとともに結果を出すことであり、人を愛したいと思う思いやりから発心するのではないかと私は思う。

いつまでも、自分だけで生きているなどと、誰かに心でもたれかかるような甘えた根性は捨てて社会の中で心を自ら立て自律することが、本当の意味でチームの中で共生することになり、幸福な社会を創り上げる一員としての社会人としての大切な自覚であると思う。

今は、何歳になっていても立場があってもそういう自覚がない人が多い。

子どもたちのことを思えば、なぜ今、生きているのか、生かされているのか、そして自分があるのは何の御蔭で成り立っているのか、有難いや勿体無い、見守りや御蔭さまなど心が繋がっているからこそ自分の心で立つということを実践で示していきたい。

まだまだ周りにはそれに気付けない人ばかりです、大人として生きる生かされているバトンを正しく受け渡せる人たちをチームの大切さを通して表現していきたいと思います。