結果と道程

先日、目標と今ということについて深める機会があった。

目標とはよく勘違いされているけれど、例えば営業の月間数字目標であったり、もしくは人生の達成目標であったり、そういうものを持ちなさいと上から下に言われて誤認しているものがある。

本来、目標と言うものは持つと持たないの定義は結果に対してのものをいうのではなくプロセスの方を言うのだと私は思う。目標を持たなければ毎日に流されてしまい貴重な日々を単に目減りしていくだけのように使ってしまうことがある。先程の例えでは、営業でも目標とは結果が達成するかしないか論ではなくそのプロセスにどれだけテーマを持ち日々を大切に活かせたか、質の高い流されない自分の意志でやり切ったかと言うその「生き方や在り方」の方に力を入れるために目標を立てるのだと思う。それに人生の達成目標においても、道を歩めば志半ばで終わる人生だとしたときに人の夢は叶わないからこそワクワクドキドキと奇跡や季節に巡り合いながら謳歌することを思えば当然、日々は減っていくのだから二度とないこの今を一生懸命に生き切るとするために目標を持つのだと思う。

しかし今の時代は、自ら目標を持とうとせず日々に流されて、無難に流されたことを遣り切ったと勘違いしている人たちがとても多い。本来、遣り切ったとは主体的に自立して生きていることを言い、そういうものは今ということにどれだけ心を籠めて大切に過ごしたかというその充実した内容のことを言う。

今はそれをやらず不平不満ばかり言い、目標が達成できるかできないかを焦りそのことばかりに執着し、そして安全で無難というものを選択することで自ら将来の可能性を潰していき自分を粗末にしていくという社会構造がある。

人は自分の幸せは自分でしか掴めるものではなく、誰かによって幸せを与えてもらうものではない。例えば、太陽の光が降り注ぐのに受け手がそれを感じる力がなければその恩恵にも有難さや幸福感を味わえない。受け身で生きていたら、周りを見て同じようにしていれば幸せと勘違いされられ、周りが持っていれば羨み、自分が持っていなければ妬むというのは大変不幸なことだと思う。

以前、広告代理店の宣伝で理想の家族の姿をCMしているところがあった。高級な家にお洒落な服装で子どもたちは男女2名、そして恰好よい男女の夫婦と円満でハイソな会話をしているというもの。それを一つの幸せの形として、それがあるかないかで躍起になっているという現代人は一体何なのだと感じたことが在る。

外側や周りと比べることでしか感じられない幸福とは一体何なのだろうか。そのことにより苦しみ、そのことにより悩む。本来は、そういうものではないものをそういうものとして刷り込まれるよりはまずは自分のことをもっと見つめ、自問自答し自分と対話し、自らのモノサシを確固たるものにし生きていかなければ自分らしく生きることもできはしない。

本当のことは、実は足元にあったり近すぎて観えなかったりするものだし、本物はもっとありきたりの当たり前の中にあったりするもの。

そういうものを感じられない心の澱みを自らの修養と練磨により澄ませていくことが心を醸成していくことだと私は思う。

話を戻せば、目標とは今を大事にするためのもので結果云々は文字通り単なるその今という繰り返しの生の精進により結ばれた果実。

そして今とは、プロセスを感じながら大切に心を籠めて生きるという過去と未来の合さった繋がりの糸を辿っていく遥かな道程。

人生は道を歩むようなものだからこそ、大切なのは目標である。

子どもたちにはその目標を履き違えたり勘違いしないように気をつけてほしい、大切なのは今を生き切ることでありそのためには将来の夢を持つこと、そしてその夢への目標を立てることでテーマを持ち生きること。

二度とない人生だからこそ、刷り込みを取り除き豊かで幸せな人生を掴んでほしいと願う。

種を蒔く

子ども第一主義を掲げ、真剣に理念に取り組んでいると様々な場面に出逢う。

それは決して生易しいものではなく、そこに確かな人間の息を感じることばかりであることが多い。コンサルタントという仕事は、自らが同時に相手を鏡のように映し出しその自分自身の心を尋ねて併せ鏡としそのものを浄化するという真心と思いやりを必要とする仕事であると私は定義している。

自分に余裕がなければできるはずもなく、それは単に時間的なものでいう余裕ではなく心のゆとりや相手への優しい気持ちに満ち溢れ、よく周囲を慮り、自分は度外視して相手の心に深く傾聴し共感していきながら丸ごと信じ抜くという芯のあるものでなければそれはできない。

人間は小さく生きれば小さくなり、大きく生きれば大きくなる、それは器であるように何を其処に容れるのかを思うとき、自分だけの偏見や、自分都合の思いばかりで一杯であればもうその器は単なる私的な趣味のコレクションのようになる。しかしその思いを至純の夢を持ちそこに載せていけばその器は偉大なものをも包容することができるのではないかと私は思っている。

今の時代は、子どもたちが子ども達であることすら難しい世の中になり物と心のバランスが崩れ、貧しさや不安、そして孤独というものを身近に感じている人が多くなった。平和であるとは、そういう人間としての人間らしさや生き方が豊であることをいうのに物ばかりを満たしているからこういうことになったのだろうと思う。

心物一如という言葉が在るように、そもそもそれは一つのもの。

これだけゴミが増えて無造作に捨てられ粗末にされるということは、きっと同じく人間の心の中もそのようになっているのだろうと思う。

私が行っているコンサルタントには、常に種蒔きという思想がある。どんなものであれ、どんな弱い力であれ、種を蒔きそこに芽が出てそれをじっくりと育てていれば確かな実をつける。それを信じると言うことである。

私の尊敬する師に二宮尊徳の言葉がある、

「私の願いは、人々の心の田の荒廃を開拓して、天から授かった善の種を育てて、またまきひろめることにある。心の荒廃を一人がひらけば、土地の荒廃が何万町あろうと恐れるものではない。」

種を蒔くとは、その人たちの心にある見守るというものに穏やかにまたは情熱的にも光を当てて、その人たちのその種を揺さぶることによる。

その種が一度目覚めれば、人間は爆発的に変化し自分らしく生きることをはじめていく。その種は土の中で御縁という機会を待っていると信じて土を耕しその人間を信じた善の種を育てることによる。

私たちが行っている小さな種蒔きも、心を籠めて続けていれば全世界の荒廃を救うことができるのではないか、私は今もそれを絶対的に信じている。

子どもたちの心にはいつも善なるものを見出だすことができる。

人間は必ずそういうものを本来は持っている。

だからこそ、それを引き出し、それを見守り、それに寄り添う。
日々は、かけがえのない大切な出会いと邂逅の一期一会。

常に種を蒔くことに感謝の心を持ってコンサルタントに精進していきたい。

感謝。

修養克己

自分の意見を持たず、自分がどうしたいかを決めない人は全ての物事を大切にすることができない。自分らしく生きるとは、どのように自分の人生を生きるかを決めることであり誰かのために生きることではない。

自分の人生を自分で生きるには、そういう自らの意志で自らであることを決断し自立したところで日々を弛まず修養することによる。それなのに、誰かに言われたからとなって繰り返すことを嫌がり、何かのせいにしたその事物に囚われ、日々の主体的な実践を怠れば次第に僻していく。つまりは、自分の価値観ばかりになり偏っていく。そうなると素直に人の言葉を正しく受け取ることもできなくなり信じる力も開花せず、常にひがみや疑いを持ち道心を忘れていく。

すべてにそうだけれど、人は心を大切にしていくから物事を大切にでき、物事を大切にしていくから心が大切にすることができるもの。

なので物を大事にできない人は心を大事にできず、心を大事にできない人は物を大事にすることができない。勿体無いとは、そのままの価値を自ら感じることでありそういうことができないのは眼前の外側にあるエゴに自らが囚われているということによる。

組織もそうだけれど、理念を掲げ取り組んでいるのに一向にそこを観ようとはせず、まずはそこにあわせるために自ら弛まず修養することもせず、眼前にある自らの囚われのために色々なことを粗末にしていてはせっかくの機会も失われてしまう。

そうやって自分が僻して相手に偏見を持てば、素直に自分を存在させてくれている全てに感謝する気持ちも生まれず、自分勝手に偏屈に不公平や不平等などの文句を心に隠し、自分が仲間外れになったとひきこもり周囲を邪見にしていくものだと思う。

たとえどんなに真理への吸収が遅くとも、自ら日々の修養に誰にも左右されない自分の意志の力を使って真摯に取り組んでいれば必ず師や周囲の信頼を勝ち取ることができる。しかしそういうものを怠り、見た眼ばかりを取り繕えばすぐに正体がバレテしまい自分自身もそれを心が知っているのだからまともな関係はできはしない。

繰り返す出来ごとの中に心が籠っていくし、心が籠っていくものだから長い年月をかけて自分が信頼される人物に修養されていくのだと思う。

すべてに学問とは、単なる知識を得るためのものではなく、自分を練り上げて涵養し薫陶されていくものだから繰り返しを忌み嫌う人では真に役立つ役割を持てる人にはならないのだと思う

別にすぐに大きな仕事ができなくても、すぐに真理を感受性で理解できなくても、自分のために師がやってみなさいと伝えた掃除一つでもそれを清浄な素直な心で継続していけば必ずその意味にいつかは出逢うもの。気付くのが遅いからこそ、いつまでもそれを後生大事に持ち続けることができるもの。早い遅いが問題ではなく、その心の姿勢が問題なのだと私は学問をする人たちを見ているとよく感じる。

これは仏陀の弟子の周利槃特の故事ではないけれど、そういう自分にあった学びを自らが決心し修養してこその本物の自分らしい人生、自分らしい学問であると私は思う。

そうやって人はまずその自らの意志の力でそれを行うためにも自他を信頼して正直になり時に柔軟、時に勇猛に学んでいくのだと思う。

一つに留めて、意識をいつも宙に浮かせて止めておくには、一点に心を据え置こうとするその心構えを自律できた行動によりはじめて自立する力を克ちえることができる。

子どもたちのお手本を目指すのならばまずは繰り返し修養をする日々を決意し、己に克つ実践を大切にしていけばいいと思う。

自分が決めた人生は自分のものなのだから、誰かのためや誰かのせいにはしないで主体的に学問の本質に近づいてほしいと願う。