修養克己

自分の意見を持たず、自分がどうしたいかを決めない人は全ての物事を大切にすることができない。自分らしく生きるとは、どのように自分の人生を生きるかを決めることであり誰かのために生きることではない。

自分の人生を自分で生きるには、そういう自らの意志で自らであることを決断し自立したところで日々を弛まず修養することによる。それなのに、誰かに言われたからとなって繰り返すことを嫌がり、何かのせいにしたその事物に囚われ、日々の主体的な実践を怠れば次第に僻していく。つまりは、自分の価値観ばかりになり偏っていく。そうなると素直に人の言葉を正しく受け取ることもできなくなり信じる力も開花せず、常にひがみや疑いを持ち道心を忘れていく。

すべてにそうだけれど、人は心を大切にしていくから物事を大切にでき、物事を大切にしていくから心が大切にすることができるもの。

なので物を大事にできない人は心を大事にできず、心を大事にできない人は物を大事にすることができない。勿体無いとは、そのままの価値を自ら感じることでありそういうことができないのは眼前の外側にあるエゴに自らが囚われているということによる。

組織もそうだけれど、理念を掲げ取り組んでいるのに一向にそこを観ようとはせず、まずはそこにあわせるために自ら弛まず修養することもせず、眼前にある自らの囚われのために色々なことを粗末にしていてはせっかくの機会も失われてしまう。

そうやって自分が僻して相手に偏見を持てば、素直に自分を存在させてくれている全てに感謝する気持ちも生まれず、自分勝手に偏屈に不公平や不平等などの文句を心に隠し、自分が仲間外れになったとひきこもり周囲を邪見にしていくものだと思う。

たとえどんなに真理への吸収が遅くとも、自ら日々の修養に誰にも左右されない自分の意志の力を使って真摯に取り組んでいれば必ず師や周囲の信頼を勝ち取ることができる。しかしそういうものを怠り、見た眼ばかりを取り繕えばすぐに正体がバレテしまい自分自身もそれを心が知っているのだからまともな関係はできはしない。

繰り返す出来ごとの中に心が籠っていくし、心が籠っていくものだから長い年月をかけて自分が信頼される人物に修養されていくのだと思う。

すべてに学問とは、単なる知識を得るためのものではなく、自分を練り上げて涵養し薫陶されていくものだから繰り返しを忌み嫌う人では真に役立つ役割を持てる人にはならないのだと思う

別にすぐに大きな仕事ができなくても、すぐに真理を感受性で理解できなくても、自分のために師がやってみなさいと伝えた掃除一つでもそれを清浄な素直な心で継続していけば必ずその意味にいつかは出逢うもの。気付くのが遅いからこそ、いつまでもそれを後生大事に持ち続けることができるもの。早い遅いが問題ではなく、その心の姿勢が問題なのだと私は学問をする人たちを見ているとよく感じる。

これは仏陀の弟子の周利槃特の故事ではないけれど、そういう自分にあった学びを自らが決心し修養してこその本物の自分らしい人生、自分らしい学問であると私は思う。

そうやって人はまずその自らの意志の力でそれを行うためにも自他を信頼して正直になり時に柔軟、時に勇猛に学んでいくのだと思う。

一つに留めて、意識をいつも宙に浮かせて止めておくには、一点に心を据え置こうとするその心構えを自律できた行動によりはじめて自立する力を克ちえることができる。

子どもたちのお手本を目指すのならばまずは繰り返し修養をする日々を決意し、己に克つ実践を大切にしていけばいいと思う。

自分が決めた人生は自分のものなのだから、誰かのためや誰かのせいにはしないで主体的に学問の本質に近づいてほしいと願う。