コンサルタントとは

人間の心の荒蕪を耕すとあっても、それをすることは尋常ではない。人はそれぞれに役割が在り、コンサルタントといったとしてもそこには道と術がある。

武道、茶道、華道、医道をはじめ様々な道があるように、武術、茶術、華術と医術と様々な術もある。道術は本来、渾然一体となっているものが本質だろうけれど今は専門的に分化しとても分かりにくくなってきている。しかし本当は道は心、術は物であり、そのもの自体は決して分かれているものではない。

本来、道を志せば道に通じる技術を得てそれを体に身につけるという心技体の一体化こそが人間を正しい方向へと導くのだろうけれどなかなかそれを他人に伝播していくというのは難しい。

二宮尊徳は農業という営みの中で生活を通じ道と術を伝えて心を養うことで報徳をし世界を創造した一人だけれど、教育や保育の世界でも私の師も同じくこの徳の実践をすることで新たに開き創造しようとしている。

その中で大人たちが自らの心の扉を開き、自然に真心の種子を引き出していくと言うのは時代は変われどもその本質は変わらずに今の時代もやり方はそのままだと感じている。

仏教の教えに、菩薩道としての四摂事がある。

まずは、1つ目に「布施」。これは相手が望むものを与えることを言う。そして次に「愛語」。これは相手に温かく思いやりのある優しい言葉をかけること。そして次に「利行」。これは相手に具体的なお手伝いをするなどの実践を持って手本を示すこと。最後に、もっとも大切な意味を持つ「同事」。これは相手の立場になってその困難を自分のものとし受け容れて同時に自他一体となりまず自分がそれを解決してみせることで相手を導くということ。

この「布施」「愛語」「利行」「同時」がその人と人との機縁や御縁という繋がりのところにある心構えや心の姿勢ということになる。

人は出逢うことで人生が別れ、出会うことから人生が合う一期一会である。

本来、人間の子どもは最初から様々なことができる可能性が溢れた存在としてこの世に生まれてくる。しかし人生の経過の中で様々な刷り込みによってその可能性が閉ざされ、気がつくとこの現実と言う名の柵に囚われ、様々な執着によりその本懐を忘れていき次第に流され朽ちていくようにも思う。

しかし人は、出会いがあり本来自由自在に生きている人たちから感化されることで気付くことができさらには人々の苦しみを取り除きたいと言う大欲を誓願するものたちによって道を正す御縁と機会に巡り合う奇跡もある。

大切なのは、何のために生きるのか、そして何のために死ぬのかを思い、その間にある邂逅に感謝できるか、つまりは幸せかどうかということになる。

ここでの幸せとは、納得がいく人生であるかどうか、つまりは自分と言うものを世界で立てて安心して命を尽くしきったかということをいう。

生きていると様々なものを持つことで執着が強くなっていくもの、最初はなかったものまで時間が経つと増えていき、そのことから様々なトラブルに巻き込まれることになる。私たちの傍でも時には、子どもたちのためにと誓願したけれどそれができずに苦しみ、時には、自分の過去のトラウマに向き合えずさらなる困難に伏せってしまっている人もいる。

そういう人々をまた本来のあるべきようへと橋渡しをするのもコンサルタントの仕事ではないか、コンサルタントとは橋渡しなのであると私は思う。どこへ橋渡しをするかはその人の生き方によるもの。

しかし何よりも大切なことは、自分がもしも機縁と機会で善い師、善い徳業を人生で得られたならばそれを一人でも多くの人々へどう還元していけるかを考えることからが始まりだと私は思う。

どう刷り込まれた人たちを刷り込みから取り除くのか、そしてどう塞がっているひとたちの扉を開いていくのか、それは全てに人間の持つ「かわいそう」だと思う心、憐れみではなく「情け」に基づいた真心の実践が肝心であるのだと思う。

子どもたちのためにと誓願すれば、次第にその道に入っていくのは誰でも同じこと。目指す世界があるのだから、沢山の人たちを巻き込んで子どもたちの望む未来を譲れるように今を努めていきたいと思う。

コンサルタントの道はこの菩薩の教えの「同時」による橋渡しであることを忘れてはいけない。カグヤのクルーは、単なる修行に甘んじず自分自らの命を燦然と燃やして子どもたちとともに悠久の河の端に生きていこうと思う。