まず自ズカラ

会社や組織、集団やチームで働く中で自分から参画するものと、受身で従事するものがある。大きな会社や大きな組織では参画というよりも与えられたものをやればいいという自分の範囲を自分で制限して働くことを歯車になるやネジになるというように言われることもある。

しかし中小企業や創業まもない組織ではそうやって自分の役割や役目など持てるほどの余裕もなく、それぞれが協力して手伝い働くことで一緒に問題を解決し、一緒に悩みを共有し、一緒に課題を乗り越える勇気を出して一緒に働くことが優先される。

それが在る程度、落ち着いてくると自分の仕事を自分勝手に決めることがある。
そうすると、それぞれがバラバラになり集団や会社、チームに対して自分が何ができるのかを考え行動するのではなく、相手に自分が何をしてもらおうかとばかりを考えるようになる。

よくチームが機能しないものを客観的に見ていたり、どうしても和を乱したり、集団に自分を埋没させて依存する人たちの特徴とは、自分が集団に何かを期待し、チームに期待し、会社に期待し、上司に期待し、自分がどうしてもらおうかとばかりに躍起になっているように思う。

そんな受身な態度では何もできはしない。

会社が組織が集団や国家が何かを自分にしてもらおうとするのではなく、自分が会社や組織や集団、または国家に対して「何ができるか」を考え自分から参画することこそ本来の自分らしい自分を埋没させない協力の姿勢であると私は思う。

いつも自分が何かをしてもらおうとすると、人は決して動かない。
その人の私利私欲のために協力するのは権力者に従うものだけだと思う。

その人の私利私欲ばかりに自分をあわせるのではなく、自分から何ができるかを考えて相手に求めるよりも自分を与えようとすることこそ本来のチームワークを発揮するのだと私は思う。

今の社会もそうだけれど、誰かのせいにしたり、結局は最後は誰か任せというのは本当に無責任なことだと思う。

そういう無責任な自分の姿勢が社会をさらに依存するものにし、より社会が停滞し依頼心の負の連鎖が広がっていくのだと思う。

自分で決めるということは、そういう自分ばかりが何かをしてもらおうとする依頼心を断ちきり、自分が一体何ができるかを本気で考え取り組むことでもある。

責任を履き違えているけれど、責任は与えてもらうものではなく自分が取るものだと言うことを最初に考えないといけない。

与えられようとするから取らされるのであり、自分が取ることであれば任されたということにならないだろうか。信頼関係とは、そうやって与えあう関係とともに協力し合い互いに助け合う中で生まれてくるもの。

本質として、そうやって信頼関係を築けないのはきっと過去のトラウマか何かがあるのだろうけれど大事なのは一度きりの人生、一度きりの自分、その花を実を立派につけようとするのは自分の強烈な意志によるものだと私は思う。

チームというものを考えるとき、やはり私は自分に矢印であるので求めるよりも与える側、そして自分が世界に何ができるかを真剣に考えて自分の至誠を貫いていくことを優先していきたい。

子どもたちには、自分の人生、依頼心や依存心で生きるのではなくまずはカグヤの背中を通して、自分で甘えを断ち切り、自分が世界に子どもたちに会社に上司に社会に何ができるかを発信できる人物であるように見せていきたい。

今はもう時が来ていてこれ以上は流されたままぶらさがることはできないのだから覚悟と自覚を持ち自立することを楽しめるようにあればと願う。