考え方と姿勢

長いこと心の在り方について書いてきたけれど、実際の人生は自分のものであるからこそ自分の人生の責任はまず自分で持つということに限るのだと改めて思う。

では人間はどのタイミングからその責任から逃げるようになるのだろうか?

それは例えば、仕事で言えば誰も見ていないからや上司にばれなければや、この辺までやっておけばいいだろうとつい本来の責任よりも言われたことだけをやっていればいいと楽を優先するとその瞬間に逃げを選択したことになる。

こうなるのは、怒られるのが嫌だからや難しい話はもうこりごりだからや、面倒くさくて自分が損したくないからなど常に自らを自らで守ろうとして起こすものであると思う。

他人から指摘されなければそれも自覚しないようになってしまっている状態であればすでに甘えの中にいることを自覚しない「逃げ癖」がついてしまっていると思って間違いない。

人は、いつも大変な方や困難な方を選択していく人が最終的には乗り越え自立していく。そうではなく、楽な方や無難な方を選択していく人はいつも自分の都合次第なのだから誰かに依存しなければ自分を守ることもできなくなる。

守られているところから自分で脱しようとしなくなると、次に自分を守ってくれる人を必死になって探そうとするようになり、いつまでも誰かの陰に隠れているときだけが安心できるということになる。これを言い換えれば甘えるともいい、自分ができるかできないかだけでいつまで待ってもやろうとはしない状態を言う。

そうやって、人生はよくよく観察するといつもそういう甘い汁や逃げ道を用意してあるものであり少しでも気を緩めればあっという間に自堕落な生活に流されていくものだと思う。

以前、ブログでで「人生とは習慣である」というような記事を紹介したけれど、善きにしろ悪きにしろ人は習慣の生き物である。自分では善い習慣だと思っていても実は悪い習慣になっていたりする。そういう人の特徴は、自分にはできそうかどうかで選択をする癖があり、そういうことを目標にして取り組むからだ。

本来、自分に克つというのは自分の意思が弱いからできそうにないと思えるようなことを選択して挑戦することであり、できそうならばそれは正しい習慣に変わったということにはならない。

自分の欲望を少なくするのではなく、欲望に打ち克つことを決めることが挑戦することなのだ。仕事で言えば、本当に大事だと思っても自分が自信がないからとできそうなところだけで勘弁してくださいという姿勢では実は何をやってもうまくはいかない。

かの松下幸之助氏の有名な法則に、下記がある。

「人生の成果=能力×情熱(やる気)×考え方」

これは、もしも本気で自分が自分の人生を納得すると決めたら成果を出さねばならぬ。内面の充実と外面の充実こそがその人の表裏一体としたビジョンを示すのだからそれがは必須項目である。

その成果には、まずは掛け算だという定義がある。これは足し算でも引き算でもなく、割り算でもない、すべては掛け算であるということ。つまりは、必ず複合的な相乗効果が働くのがこの自然界であるということを意味する。もしこれに、どれかを怠りゼロになればすべてはゼロなのである。だから成果の上がらない人はいつもゼロになるから面白くなく続かないのであろうとも思う。

まずは、その能力とは持って生まれた自分の強みを活かすことである。そしてやる気とは、最期まで遣り切ることである。最後の考え方とは、全てから学ぼうとする真摯な心の姿勢のことをいうと私は定義している。

このどれか一つからでも逃げれば、掛け算なのだから成果は上がらない。

何が上手くいかないのかは言い訳を聞けばよく分かる、能力では自分にはそんな才能がないや環境に恵まれないからという、やる気では、自信がないや、やってみたことがないからともいう、そして考え方では、やったんだけどねや、もっと得るものがあることをしたいなど、人は都合が善いもので笑ってしまう。

そうなっていること自体が、逃げ癖がついているということに気が付くところから人生の設計図は書き直すことができるもの。そしてそれにはまず、メンターというものがあることを知ることである。

メンターとは何処にいるものなのか、私は勿論、師友は存在するけれどそれはパートナーのようなものに定義している。メンターとは、私にとっては「我以外皆わが師」や「他人は全部自分の鏡」というあれのことを定義する。

嫌だなと思える事から、恥ずかしいからやめようと思い、これは素晴らしいなと思うものから、それを真似しようという風に、自分以外には学ぶものがいっぱいある。

そういうものから真摯に学ぶことこそが、考え方なのだと私は確信している。

相手ばかり見て、翻弄されるよりも相手を自分だと思って思いやりを持って自分を省みる事の方が価値があるではないか。自分はそうして生きていきたい。

無自覚の自覚

自分の周辺に起きる何かの出来事を思うとき、それは病であれトラブルであれ本人が無自覚であるけれど必要なことを教えるために本人の中にある何かが働きかけることで自らわざと起こしていることがある。

矛盾に感じるだろうけれどその人自身がもっとも向き合いやすいようにと、ある意味での困難から試練を与えられそれに気づけるかどうかという人生の課題をいただいていたりする。これはつまり外部から起こされたのではなく、自分が内部から起こしているという考え方である。

病気だと分かりやすく話せるけれど、病気になると外側のせいにいつもしているけれど実際は因果があるのだから自分が起こしているという考え方だ。しかし本人も周辺の人もそれが本人の人生そのものの課題だとはなかなか思わない。

例えば病気でいっても、患部や病気そのものについては語る人はいてもその病気よりも以前に、病気になるような生き方ではないのかという根源的なところまで掘り下げて語る人はほとんどいない。

同じように人間関係であっても、トラブルのことや、やり取りややり方の方を語る人はてもそれはそういう生き方や在り方が問題だと根本的なところまで辿り着いて語る人もほとんどいない。そういうものは宗教っぽいと言われ、変に盲信した人だと勘違いされるけれどそうではなく、単に自然の法則の一つであることを自覚しないだけである。

特に、その本人自身がその根源的なものに対する自覚がなく、自分から見えるその一部分がまるですべてのように錯覚しているのだから、これは本当にそういうことまで理解して実践する人を見出し、その人に心を素直に聴くこと以外に改善する方法はない。

人は素直であれば、上記のようなことを教えてくださるかけがえのない人やパートナー、メンターや親友に出逢い、人生は次第に開いていける。しかし、自分が素直でなく思い込みで決めつけて他人の話に素直に耳を傾けず勝手な解釈で分かって気になる人は永遠にそういう人には出会えはしない。

いつも自分の文句と他人の文句に終始固執し、自分はこんなだったのにや、自分はこうなのになど、いつも「のに、のに」と自分を責め立て誰も許さないから、相手に対しても存外な態度になっていることに本人も気づくこともない。

デリカシーがなくなる人というのは、当然自分の心にもデリカシーがないから他人にそういうことを軽い気持ちで言えてしまうのだと思う。

これは言い方を変えるといつも通りに自分を責めるように相手を責めるという習慣に支配されているということ。

そういう自他に厳しいひとほど謙虚さがなくなり、いつも自分が許せないから、結局は誰も許そうとはしなくなり自分も他人も責め続けるのだろうと思う。そしてそうやって無理をして最後はダメな自分を受け容れられず同じことに振り回されて疲弊し回復する日々を続けるという悪循環になる。

そういうものを気づけるかどうかに、考え方を変えることがいる。それは起きることは起こすことは全部必要という絶対受容の境地を持てるかどうかによる。

これは、「これも必要、あれも必要、全部必要という心の持ち方」であり、人生に不足はまったくないという考え方でもある。

自分都合でいくら取捨選択したって、それがどんな意味があるのかを自分で勝手に解釈してしまっていては本当の意味での気づきではない。大切な気づきとは、向こうからやってきたり、突然降りてくるという感覚的なものであり真摯に勇気を持って行動し最期まで遣り切る中で様々な組み合わせの妙により出会うものだ。

そういう生き方そのものの根本を正していくことが、気づこうとする姿勢であると腹を決め切ることができてはじめてそこから全てに感謝する心が育っていくものだ。

そして今ここを大切にする生き方に変わり、本来の素直さというものが全面に出てくるものだ。

無理をしない生き方とは、素直な生き方とは、そういう無自覚の自分に真に自覚するところからはじめていくといいのだろうと私は思う。

私の場合は、いつも本当に素晴らしい人たちに囲まれ自分のことを教えてくださる方々に出逢う。

恵まれていること、先祖の遺徳や、御蔭であることを思えば、一人でも多くのの方々へこの一期一会の素晴らしさを優しく強い心で自分を表現していくことだと使命に燃えている。

これも子どもたちあってのものだと子ども心の大切さを感じます。
時分自身がどのような生き方をするかで示していこうと思います。

恥の転換 5

相手の立場で物事を考えて行動するというのは、自分の発言や行動が本当に自分側の視点ではなかったかと省みるところからはじまる。

どんなに自分は真面目にやっているからといっても、一人称における自分だけの視野で物事を考えてもそれが全体にとって良いものかどうかは不確かでもある。

仕事も同じく、その自分の行動や視野が果たして全体のためになるのかどうかを考えることができるというのは自分だけの感情や私見で物事を判断するのではなく、客観的に相手から見た時のことや、会社から見たこと、経営側から見たらやなどまず自分だけにならないように務めることが肝心となる。

どれだけ相手を思いやれるかどうかは、相手側や全体からいつも大局を掴もうとする心の姿勢が求められる。

自分にとって良いからという感覚はほとんど無自覚で、人は相手に善いことをしている気にはなっているもののその実、自分が楽をしたいや自分が嫌われたくない、責任を負いたくないという気持ちを隠しつつうまいことをやろうとしているものに気づいていないことが多い。

しかしこれは仕事の格言でもあるのだけれど、「自分のことは最後に考えろやまず相手が欲しいものを与えることだけを考えろ」というようにまず相手の立場になって考え、全体の立場になって考え、考えられるだけ自分以外のもののために考え切った後に、最後に自分にもどんな善いことがあると考えて自分を其処に集中して使うことが大切なのだ。

これを順序を間違え、自分に悪くならないようにと動作的になり無意識に演じてさも相手のことばかりを考えていると勘違いするのは、まだまだ物事の本質や本筋を掴むような大局観が身についていないからでもある。

そもそも自分にとって「最善」というものは周囲のために自分を活かすことをいい、それは仕事で言えば、難しい仕事を自分がやることや、誰でもできないことを自分が先にやることや、困っている人がいないように惜しみなく貢献することや、皆が大変だと思えることをまず自分から引き受ける事でもある。

そうしているうちに、他人のために一生懸命にやっている人を周囲は助け支えようとするものだから多くの人たちに見守られその課題を解決まで導きだすことができるものだ。多くの人の御蔭のもとに、気が付くと自信と能力、自らが磨かれ実力を伴うことができるようになってやっぱり自分にも善かったのだと最期にはいつも信じられるようになるもの。

そういう体験を積んでいなければいつまでたっても、この大局観は自然に身に付かず自分本位に進めようとし悪循環に陥ってしまうものである。

これはコツだけれど、そうならないのは遣り切らないからである。なんでも心で気づいたことをまず最期まで諦めず遣り切ることだと思う。中途半端にこの辺でと都合が悪くなり逃げてしまうとそういう体験を積むことができない。

自活する人と自堕落する人の差は、あと少しの忍耐と辛抱、つまりはもう少しのところで諦めるか最後まで諦めずやり抜くかの覚悟如何で決まる。

やると決めたら徹底してやるのがコツなのであると私も思う。

最後に他人にいろいろと指摘する仕事をするリーダーや上司は発言が相手のためにと指導するのだけれど、それが自分よりになり本当に相手のためになるのかということを常に省みないと結局は自分への逃げになってしまうこともある。

私も会議や指導した後は、ふり返りの時間が激しく眠れなくなる日々が多いのも、これも自分の発言がすべて自分に帰ってくるからでもある。それを受け容れるのは本当に相手のためだったかと自分を戒めるためであり、本当の内省とは自分の思いやりや誠意を確かめるものであるからだ。

常に自分の発言が、相手のためになると信じて遣り切り、そして発言後は内省により本当に自分はそういうことはないのかというふり返り、自己管理も全体のための自己管理なのだから自立を目指すものは襟を常に正し、恥ずかしいことをしないように自ら務めることであると思う。

恥ずかしいと思える気持ちが何よりも思いやりに繋がっていることを忘れないようにすることこそ恥の本質。

自分の一挙一動が、他人のためになっているかどうか、迷惑をかけていないのかを常に意識し、もっとも最善というもののために三方よしの実践をつらぬことで転換することだと思う。

こういうことからも、自らの変革を進めることができこの変化する機会を好機と捉え前向きに自分を磨き活かしつづけるためにも心の在り方というものを自らが定めておきたいと思う。

恥の転換 4

では、どのようにしてその恥を転換すればいいかというとそれは自分というものから逃げないで全てにおいて「己に克つ」ことで為すことができる。

まず自分というものを理解するために、外と内から形成された主観的と客観的に観える自己を正しく掴むことが必要となる。

自分というものがどんな強みと弱みがあり、それをどのように捉えているか、そしてそれをどのように活かすのかというのは、自分というものを正しく理解し正しく生きる上でもっとも大切な戦略であるとも言える。

ほとんどの人は、自分というものを自分で理解していくことは難しい。それは自分の目を通してみている世界の中で自分という主観的な思いや感情が価値観を構成し、そこから自分というものを形成したから自分はそうやって自分勝手に自分というものを捉えてしまう。

しかし本当は、もっとあるがままでありのままの自分の存在というものを客観的に分析し捉えた時、本当の自分は実はどういうものなのかという理想と現実を兼ね備えた自分というものを捉えることができる。

人は自分の欠点ややり方の誤りについては一切気づこうとせず、だからこそそれを修正することは大変難しい。しかし他人のことを自分の鏡として参考とし、他人をとがめるまえに自分というものをまず見つめてみてはどうかとなる。

人のふり見てわがふり直せとあるように、まずは自分もやっていると思って恥ずかしいと感じる心が大事でそこから自分を磨こうとする気持ちを起こすのだ。

だからこそ、自分というものをいつも自分が練磨していることが正しい人生を歩んでいることになる。ここでの正しいとは、自分の生まれてきて死ぬまでの人として歩む道のことをいう。

その自分の道から外れずに正しく歩めば、人は納得のいく人生を歩めたといっても過言ではないと私は思っている。

個人として、どのように恥を転換するかはまず自分のことはきっちとと自分がやると決め自問自答をし続け自分と正対し、人生の目標とも言うべき何かに対してそれを自らが己に克つことを定めたら、決して逃げずに日々一歩一歩丁寧に根気強く己に克ち続けることが最終的な転換の方法である。

そうやって個人でも自分の人生を最期まで諦めずに大切にし歩めば、己に克つことができ天からの贈り物として、愛や友情、絆や真心、奇跡や感謝などを人生物語を通して素晴らしいものと新たに出会って感動していくことができる。

常に恥を転換するためにも、自分が自分から逃げないことが今を大切にするための第一義なのだ。

そして集団や組織ではどのように恥を転換するか、それは皆で一緒に何かで己に克つと決める事であると思う。本来のこうあるべきと決めた理念を定めたらみんなで一丸となってそれぞれに時分自身が自分との闘いから逃げずに向き合い己に克ち協力して乗り越えていくこと。

皆で理念という正しいモノサシを納得して決めたなら、皆でどのように皆が最期までその課題に克ち磨きつづけるかということが大切になる。そしてそこから、仲間や師友、夢、志、道など様々な物語を通して素晴らしいものと出会い感激していくことがここでもできる。

須らくどの方法もまずは全て「己に克つ」こと以上に恥を転換する方法もなく、また人生を循環させる方法もない。

以前ブログで書いたけれども、因果律と同じようにこれは循環の法則でもあり、逃げれば必ず追ってくるものだし、追ってきたら逃げた分大きくなって戻ってくるもの。調和やバランスを取ろうとする力があるのだから逃げれば循環しなくなってそのうち弾き飛ばされることになる。

なぜ生きるのかというのは、最初からどうしてもやり遂げたいことがあるから存在するものでありそこから逃げれば自然の法則に外れるのだから天罰が下るような出来事に出逢うことにもなる。どうせどうにもならないのであれば、開き直って外部に自分勝手に創りあげ祭り上げた自分に都合の良い敵と争うなどとするのはやめて、自分のためにもまずは自分のことを徹底して行い修め、自分らしく自分との闘いを楽しめばいいのではないかと覚悟を決めればいいと私は思う。

 「今の人生は一度きり。」

だからこそどんな時間も無駄にはしない、そう思うのならばもっと自分というものと逃げずに向き合い、強い意志を醸成し、世界そのものの中で自分がしっかりとやり遂げるという心を練磨し世界へ貢献する力を発揮してほしいと思う。

私も、自分というものと向き合っているけれど不思議に自分の感情などの色々なものに支配されそうになることが多い。志を立ててからは自分の人生は己に克つ事で切り開けると確信する以上、まずは模範として自らが実践して示していこうと思う。

変わり続ける中にこそ、自分というものの宝が眠っているし、そこから可能性も無限に広がっていくもの。誇りと自信のためにも、克己心を育成し、恥の転換をしていける人が増えるよう見守っていこうと思います。

人のことを咎めれば咎める程に、弱さをまき散らすことになる。

中途半端な責任回避や責任の押し付けは自分を磨く材料にはならない、子ども達のためにもまずは自分がやってみせることを優先する。

恥の転換 3

他人に迷惑をかけないでいるというのは、自分がどう見られているかどう評価されるかを恐れるよりもいつまでも自分がどうありたいかということを決めて優先する生き方をいう。

日常のすべての判断から自己形成までどのような自分でいたいのか、どのような自分でありたいかというのは、最終的に自分がどう生きるのか死ぬのかというような死生観を持って決意のままでいることが大切なことになる。

何でも流されていたら、状況さえ変わればいつでもカメレオンのように相手にあわせているのでは自分がどうしたいかを周囲へ伝えることも表明することもできない。テレビドラマでもよく見るシーンに、いちいちコロコロと周囲の評価を気にして意見を変えるのはその人の今までの生き方などが出ているのだ。

たとえば生き方には、「自分はいつまでも自他に誠実に生きる」や、「自分は最期まで青春の人生を送る」や、「自分は周囲の人を豊かに幸せにするような人間でいよう」など、自分というものがどのようなことをしていれば最終的に納得できる人生を歩めるかということを自分が決めていることが大切になる。

そういう自分自身の人生と正対し決めていれば、どんな状況下であってもどのような環境下であったとしても、自分がどうありたいかを選択し自分の魂までは影響を受けず自分というものしっかりともって最期まで生き抜くことができるのもこれは「自分が納得している」かどうかによるものだ。

人生の中では、それはさまざまな艱難辛苦に出逢うものだ。それは例えば、個別には生老病死というようなものから自分の欲求が外的な状況変化において叶わなかったりと、その都度、自分の生き方とあり方を問われるのが選択の人生であると思う。

その中で、たとえ周囲が批判や批評をしたって自分が決めて向き合う生涯の中で常に心に定めた信念があれば、どんな試練が訪れてもそこから逃げずにその試練を乗り越えるたびに強い意志で自分の人生を納得いくまで切り開いていくのだろうと思う。

その際に周囲の人はそれを認め、その納得するその人をその人の生き方であると深く尊重し、周囲の人たちの支援や援助、協力や思いやりが得られ自分をより味わい深く変化させていくことができるのだ。

先述した通り、真の意味で恥を自覚していなければ、この周囲との関係もピュアではなくなり次第に追い込まれていくのであろうと思う。そうしてその自分との向き合いから逃げたことでさらに逃げ癖がついて人生が暗転していくのであろうとも思う。

最初の起点に立ち返り、初心がどれだけ大事なことかここでも改めて論じることもない。初心がすべて、人生はスタートが決めるのだとこのブログでも何度も書いたことである。

そしてどんなに強そうな人でも、人は誰も最初から最後まで強い人はいない、時に折れそうになり、時に自分に負けそうになるもの、そういう元々人は弱いのだからこそ人と人の間で生きることを選び、自分が素直に正直にあらねば助け合ったり支えあったりすることができないのだろうと自覚したのだと思う。

狭まれた領域にある裕福で権力的な時代、人間の嫉妬心などが堂々と表面に出ている社会があるからこそ今の時代の人たちはより心を科学し、心をもっと可視化した価値に変換することが必要であると私は思う。

ここで一旦、ブログは区切るけれど、まず恥を転換するために自分が素直であるとは自分に素直であることを心がけ、自分の心の本音本心に耳を傾け、自分というものを丸ごと受容し、その元から許していくプロセスを逃げずに通過することであろうとも私は思う。

誰にも心を開かないようでは、人の話を本当に聞ける日は永遠に来ない。まず自分の心に心を開くことからがすべてである。

つまり「恥」を自覚するに、読んで字の如く自分の心にまず耳を傾けることを入り口とすることだ。継続して、自分を深堀り自分がどうありたいかを気づいて生きてほしい、充実する納得のいく人生であってほしいと思う。

もっと周囲にばかりに流されて評価ばかりを気にするのではなく、自分との対話を丁寧にしていくことでその恥を転換していくことこそ自分を変えられるという努力であると私は思う。

事情があることはわかるけれど、未来に生きていくのが私たちとその先にいる子どもたちだからこそもっと自分自身に素直になり自分が本当に何よりも大事にしたいという心の声に耳を傾け真摯に生きてほしいと願う。

私たち大人は、偽り続ける中で大切なことを見失い続けている人が多い。

もっと道徳倫理をはじめ、恥ずかしくない生き方、恥ずかしくないあり方、恥ずかしくない自分を、つまり誇り高き生き方を目指していければいいなと思う。

今、この瞬間から自分の心に素直であると決めてこどもたちと話ができる自分の心をいつまでも見守ってほしいと願う。

一期一会・・・

恥の転換 2

人間には目には観えないけれど、生きていくにはこの世に確かに存在している天理や法則というものがある。

なぜ自分が変われないのかと悩む人の根幹の問題はこの「恥」という部分で方針がブレていなければほとんど全てが解決できる。しかしこの「恥」を正しく理解しないでいては、実は何をやっても一向に改善されることもなく人生は豊かに楽しく生きることはできなくなるのだ。

人間は、虚飾のなく実直で思いやりのある誠意のある生き方をするときもっとも自分らしいものが何かを理解することができる。本当の自分とはそういう本当の意味であるがままでなければ出会うこともない。生まれたての赤ちゃんのような姿をどこまで維持しているかは、自分の生き方をどうするかを自分が守れるかどうかによる。

それが刷り込まれていくものもあり、例えば過去の育て方や教育環境から、失敗をさせてはいけないや、ミスはだめだ、満点を取りなさい、結果だけで判断するようなもので、一方的に教え込み評価をすればまた自分を見失い他にあわせて他を期待し他に甘え他のことばかりの評価で生きていこうとする人を作ったりする。

子ども達は最初からそうなっていたわけではない、自立する心や自立の魂は最初から備わっている、しかしその大事なことを今の社会に適合させて育ち学ぶ前に、本当の自分として生きるということの意味や自然の法則を気づけなかったことがその人の生涯形成に深く関わっているのだ。

私たち、教育や保育に携わる者は絶対にこのことを忘れてはいけない。

知識など、別に知らなければ誰かが教えてくれるものだ。それに何かにミスしたって失敗したってそれにより気づけるものがあり人は生長していくものだ。それをできない人は恥ずかしい、完璧でなければ迷惑をかけるなどという、自分の都合を押し付ける教育者は、結局は一体何を教育したいのだろうかと思ってしまう。

最終的に教育の目的のゴールは何か、よく考え抜き、自分がどうあるべきかは国の制度や教材などのせいではなく、自分の人生のことでもあるのでよく考える時間を持ち何よりも優先して学び合った方がいい。

例え小さな影響でもまだ幼い子どものときだからこそ将来育てば差は大きく開いていくのであり、その時の一瞬一瞬の見守りによる本人の気づきや学びが将来の社会の在り方を決め、私たちの未来とその子の幸せを決めることにもっと自覚と責任を持つことだ。

今の時代は、教育はどうせしてこないから企業に入社したらやればいいという会社も多い、もしくは最初からそういう他人に迷惑でもいいと思っている自分勝手な人は取らないと会社もある、それで今までは優等生で正しくいたつもりが最初の入り口で挫折しなんと自殺している学生もいるとのこと。

悲しすぎる話であり、こんな教育や保育がいつまでも許されるものなのかと本当に義憤に満ちる。これは先生の問題ではない、恥というものを正しく学び直そうとしない大人たちが問題であるのだ。

道徳倫理とは、「恥を知る事」からはじまる。常に、周囲や他人に迷惑をかけないためにどうすればいいかを学び直すためにそういうことが必要になる。これは人生で一生をかけて皆が自分に克ち続けていかなければならない大切なルールであり互いを尊重する自由でもある。

民主主義とは、好き勝手にすればいいのではなくそういう恥というものの本質を正しく存在させる尊厳と謙虚との調和であるのだ。

もちろん、今からでも遅くはないのだから人としての在り方や人としてどうなのかということを起点に、倫理道徳を大人の生き方や在り方からもう一度示し直し、それが理解できたところから知識や技術に入る事をするようにとしてほしいし私たちの幼児教育はまずその周囲の大人の学び直しからはじめなければ本質的な改善はできない。

社会も未来もみんなのもの。そして将来の財産はすべて次に生まれてくる子どもたちのもの。私たち大人は、何よりも金よりも名誉よりも我欲よりも「恥」ということを気づきそれを守っていける存在でありたいと願う。

最後に、そのタクシーの方は、とても印象もよく心地よい空気で信頼感を築こうとしてくださる方でしたがその方の父がこういう言葉をくれたそうです。

「わからないことは恥なのではない、一度聴いたことをわからないことの方が恥なのだ」

恥とは、人の道を踏み外すことが何よりも恥であり、自分がどうみられるか自分がどう思われたか評価されているかが恥ではない。そんなのは恥ではなく被害妄想と周囲へ甘えた依存の生き方である。本当の生き方とは、自分は最期までどうありたいか、どうあるべきかということを他人に左右されずに決めて歩み続ける覚悟である。

常に、恥を知る人間でいようと思う。

今、世の中でうまく生きられない何をしようとしても運がないと嘆いている方々へ愛を籠めて、恥の転換をする方法を学び直しによって伝承していきたいと思う。

・・・続く。

恥の転換 1

このかんながらの道のなかでもとても大切なことを書く、これは私たちが人を導いていくための根幹の信念である。

教育の在り方がどうかと思う中で、いくつか気になることに「恥」ということの意味について考えることがある。この恥ということを自らが正しく理解しているのと理解していないのではその人の一生の生き方に甚大な影響が出ることがある。子ども達に何かを教える前に、人としてどうあるべきかということや、どう生きるのか、どうありたいかということを示さず単なる知識ばかりを詰め込もうとするから一生涯その子が人生を歩む中で不幸の連鎖に見舞われることに気づいていない大人はとても多いのではないか、人として立派になるかどうかはその「僅かな領域」に潜んでいる。

先日、移動の際に出逢ったタクシーの方との話で大変興味深いことを互いに語り合った。

タクシー会社には、よく社用車をぶつけたりする人がいる。それをよく長く観察していると自損事故を起こす人はいつも同じ人が起こしていて、それがない人は常にないとのこと。
つまり、運転の上手い下手ではなく自損事故をする人としない人では何かの大きな違いが存在しているという話をした。

そしてその傾向がある人たちの具体的な内容をお伺いしていくと、事故を起こす人はお客様の到着時間に無理にでも間に合わせようとしたり、絶対にミスはしないようにしようなど、「何とかしよう、何とかしなければ」という思いをいつも優先し、そのため視野が狭くなり焦ってしまいそこから失敗をして更にそのことから余裕を失い結局は事故をするとのこと。

逆に事故をしない人の傾向を聴くと、間に合わないのであれば事前に連絡を入れたり、分からないのであればすぐに確認をしようなどという、まず自分がどうかよりもお客様や会社に迷惑をかけないようにしようとするからバランスが取れ視野が広くなり余裕を持ちながら丁寧に運転するからそういうことがないそうだ。

事故をする人はいつも事故であるから、事故処理の毎日を過ごしていく。そして事故をしない人はいつも余裕があるからより高度なことを身に着けていく。しかし、組織には事故ばかりをする人によってそうではない人がいつも迷惑をこうむることになる構図が産まれてくる。

このいつも事故をする人とずっとしない人がいるというのは一体どこに差があるのか。

それは自分が最初の考えの起点すでに間違っていることに気づいているか気づいていないかの差であると私は確信する。

つまりその考えの起点の軸に「恥」というものの観点があり、それが一体どういうことかということを気づくかどうかの差であるのだ。

まずいつも事故をする人の物事の発想の起点は、「自分が失敗をすることで恥をかく」とか、「こんなこともできない自分が恥だ」とか、「自分が迷惑をかけていること自体が恥だ」とか、主語がいつも「自分が」「自分が」という自分勝手な自己主義的になっている。

しかし、気づいていないようだけれど「本当の恥」とはそういうものではないだろう。

本当の恥とは、「皆に迷惑をかけていることが恥だ」や、「皆に配慮できないことが恥だ」や、「皆に再び同じ迷惑をかけてしまうことが恥だ」という風に、主語も相手が中心であり、その恥かしいと思うのはそもそも自分がではなく、他人に迷惑をかけることが恥だとなっていることをいう。

この恥ずかしいと思う観点がまったくズレていることに気づいていないのが問題なのだ。

前者の自己中心的な恥の場合、タクシーで言えば運転手が、「道がわからないのに聞こうとはしない、時間が間に合わないのに間に合わなかったからといい、さらには何かあっても自分のせいではないのだから自分が悪いわけではない」という。最初から、自分はこんなにやったのだからできないのは自分のせいではないという観点がある。つまり相手に迷惑をかけても恥ずかしくはないのだ。自分がやったことでは恥ずかしいことは一切していないのだから別に恥ずかしくないということになる。

別の事例で言えば、タクシーに乗ったお客様の住所の地理に詳しくもないのにプロだからと今更聞くのは恥ずかしいと思いそれを相手に尋ねようともせず自分勝手に走ってしまい、途中でお客様から間違っているのに何でここを走るのと不審がられてクレームになったりしている。言い訳もせず、謝りもしない。それは一体何を大事にしているのかというと、お客様の信頼や信用よりも単なる自分のちっぽけなプライドである。

後者の他人に迷惑をかけないという恥の場合は、タクシーで言えば、道がわからなかったすぐに聴こう、時間に間に合わないなら先に連絡をしよう、迷惑にならないように責任を取ろうという風になるものだ。こういう人を例えてみれば、タクシーに乗ったお客様に自分が知らない地理があったり、もしかしたら不手際がないかどうかを先に「私はお客様の方角に正確に詳しくなく、もしもおかしな道であればすぐに教えてくださいますか、また不手際や心地よくないことがあれば仰ってください」という風に、自分のプライドよりもお客様にご迷惑がかからないかどうかを考えるもの。

前者は恥とは自分の恥のことだと思っている人は、空気が読めないことが多くいつもそのことで人生が好転していかない。なぜなら、自分のプライドで自分を塗り固め、自分が自分がといつも自分が恥をかかないようにとするには視野を狭くするしかなく、とにかく失敗もミスもしないでいればいいという風になっているのだから塗り固められたものが厚くなりすぎて周囲との世界を遮断し空気も伝わらないほどになっているからであろうと私は思う。

後者の恥は他人様にご迷惑がかからないようにしないと恥ずかしいと思っている人は、空気がわかるので人生がいつも多くの人たちに生かされていく。これは、いつも謙虚に周囲を思いやり迷惑をかけないようにと責任を取ろうとするからすぐに周囲の空気を感じ取り周囲と確認をすすめながら協力を惜しまず最善を尽くすからいつも周りが心地よくなるような自分を維持しているのだろうとも思う。

前者のように恥の意味を誤解している人が、この恥の転換ができなければほぼ半永久的に人生は好転することはないと私は思う。改善しようと必死に努力しても根本的に片足を泥沼に突っ込んいるのだから抜け出すことはできない。

努力には、努力して何とかなるものと何とかならないものがある。恥が転換していないのに何をやっても人の道から外れるのだから、まず本来自己改革するのはそのことを正しく自覚することなのである。

・・・明日へ続く。

役割を立てる

人には役割というものがある、誰も同じ人にはなることはできない。例えば、親子でも親は自分のようにと思うのだろうけれど、子は親の答えを求めて同じようにしようとするのだろけれど、それは親ではないのだからできはしない。

何でもそうだけれど、その人になろうとするのではなくその人の人生観や哲学は学び同じようになりたいと願うのだろうけれど実際の世界で生きていくのは自分なりにそこから答えを見出し挑戦し沢山の気づきを得て自分のものにしてくほかはない。

これは、学校でただ教えてもらえれば教わればその通りすればいいという勉強ではなく、その教えから何を掴み取り何を気づき、どんな形で実現するかというのは自分の持っている才能や思想を含めて自分なりにしていくことが自分の役割を持つということになる。

動植物の世界であっても、動物なら親がやっていることを子どもは教わるけれど実際の世界で何度も自分なりに試し、親と同じようにコツを掴み狩りをしたりする。その狩りについては、親がこうしなさいと教えたのではなく親はただやってみせただけであるし、もしくは親はこうじゃないかという風に例えを見せただけ、それを子どもが自分がやるために失敗を繰り返しながら自分なりの答えを導き出しそれを挑戦し続け遣り切り実現することで自立していくことができる。

植物では、同じようにタンポポでもそうだけれど自分なりに生きた親元から種が飛び立ち自分なりに落ちた場所で親がやってきたような生きる力を発動し自分なりにその場所を受け容れていくから生長し子孫を残していくことができるもの。

人間も同じようにするはずだったのに、今のような時代は依存体質の中で誰かが教えてくれるものだと勘違いし「自力」というものを遣おうとはしなくなってきている。

例えば、先生が教えている通りにやっているのにうまくいかないと先生のせいにし、親がいう答えに従ったのに自分はダメだとかすぐに諦めるなど、自分がやることになっていないのに、できないやられないとなるのは正しい意味で自分の役割を果たそうとしていないことによる。

役割分担とは、自分は自分なりに何をどうするのかや自分のやり方で自分にしかできないことでどうやるのかということをまず決めてから、そこから自分自身の力を使い気づき学ぼうとする姿勢がなければその役割本来の意義を果たせない。

なぜなら同じことをやろうとしていてはいつまでたっても自分がさせられるややらせてもらえるという消極的な場所では役割が立たないからだ。

大体そういう人はマネすらしない、しようとしてもマネできないと最初から諦めてしまっている受け身な姿勢が邪魔をしてこの辺でといつも都合の悪くなると諦める。しかし、自分がやるのだと覚悟を決めた人は素直に正直になるからマネから入り、そのマネをしながらも自分のものに変換して自分らしく自分のやり方で同じことができるようになるものだ。

形にするというのは、実現させるというのは、その人の役割を取ろうや掴もうとする自立の心、責任を持つという覚悟、やり遂げるや遣り切るという決意があるかどうかによるものだ。

成功するかどうかは、役割を持とうと自分を活かそうと自分の力を使いきろうとする姿勢、そしてそれはその人の生き方や在り方によって決まるものだ。

挑戦すれば失敗もするのはつきものだ、けれどそこから新しい学びや気づきが生まれ世界が広がっていくし自分が深まっていくことで心が生長して歓びも大きくなっていくことを思えば好奇心の力を湧き起こし一度限りの人生を謳歌してほしいと願う。

子ども達にも恐れる事よりも迷いを断ち切り勇気を持ってチャレンジすることを大人の姿勢として示していきたい。まずは我々の生き方から実践していきたい。

継続と心棒

何でもそうだけれど、一度決めて進めていることを続けていくには日頃から心が怠けないようにしていなければ継続していくことはできない。

そしてそれを継続させていくには、自分なりに仕組みを考えてそれを続けられるように工夫していかなければならない。仕事で言えば、一度大事だからと上司と話て決めたことをきちんと続けている人とすぐに時間が経つとやらなくなる人がいる。

誰かに進捗を管理されればできても、自分で工夫してやろうとしなければ結局は仕事の質は下がっていくことになる。常に何かを継続するには、心で決めてそして強い意志を働かせていることが必要になる。

例えば、それは心が宙ぶらりんになっている状態を継続することにも似ている。当然、人は目に見える形にしてしまって早く安心したいという心がある。結果に対してすぐにそれを要求し結果を欲しがるという心がある。しかしよく考えてもみると、一つの結果ができたとしてもすぐに次の結果を求められるもの。

なんでもかんでもすぐに終わらせたいという気持ちは、その心が不安を嫌がり不安を怖がるからそうしてしまいたいという欲であり本当に大事なことをじっくりと見つめ続けながら最終的な姿まで時間をかけて取り組んでいこうという姿勢の方ではない。

心が宙ぶらりんというのは、ある意味で早く安定したいすぐに安心したいと落ち着かない状態でも、その心の方針がブレナイということ。つまり確固とした強い意志の力や信念で、どんなに状況や環境が変わっても心の針は動じない状態になるということを言う。

そういう心の針がいつも同じ場所へ戻るような実践を通じてブレ幅を小さくしていくことや早く定位置へ回帰する力をつけることでもある。それも心棒(辛抱)ともいう人もいた記憶がある。

そうして心棒強く継続していく最中に、いつも原点に戻れば常に穏やかに心が澄んで大局的な見地で物事に冷静に取り組んでいくことができるのであろうと思う。

そうではない人は、朝に焦っていたかと思えば夕べには慢心し、ちょっとやったからと安心していたかと思えば、すぐにできないんですと不安になっている。

いつまでもこんなにブレて現象にいちいち振り回されていたら、本当に大切にしているものを守ることはできるのかと思えることもある。継続するということは、大事なものを忘れないという強い気持ちや何よりも優先したものを守るという怠けない心の姿勢を自戒して問い続けることを言う。

毎回丁寧にそれを明確に形にするのは、それをきちんとできているかどうかを自他ともに確かめ合い、お互いに協力するためにも必要なことだ。もっともこの世の中で人に迷惑をかけるのは、その人だけの自己本位と自己都合という欲を周囲にばらまき自分の方へばかり周囲を手繰り寄せようとする傲慢な心の態度であると私は思う。

その欲が、もしも全体や皆のための欲であるならば大きければ大きいほど素晴らしい偉業に繋がるのだろうけれどあまりにも自分勝手な狭い自己中心的な世界を押し付けていてはいつまでたってもマイナスにしか働かない。

迷惑の反対は貢献だし、貢献の反対が迷惑である。
その紙一重のことは、全ては自分の心の姿勢で決まるということを忘れてはいけない。

楽しく働き、周囲との幸せな関係を築き、豊かに生きていくためにも、心の意思や強い決意で覚悟を持って日々の継続に取り組んでほしいと思う。

継続することで、不動心を養い自立し、皆で大切にしてきたものを守り抜く強さを子どもたちにも伝えていきたい。まずは、自らが率先垂範することで示していこうと思う。