役割を立てる

人には役割というものがある、誰も同じ人にはなることはできない。例えば、親子でも親は自分のようにと思うのだろうけれど、子は親の答えを求めて同じようにしようとするのだろけれど、それは親ではないのだからできはしない。

何でもそうだけれど、その人になろうとするのではなくその人の人生観や哲学は学び同じようになりたいと願うのだろうけれど実際の世界で生きていくのは自分なりにそこから答えを見出し挑戦し沢山の気づきを得て自分のものにしてくほかはない。

これは、学校でただ教えてもらえれば教わればその通りすればいいという勉強ではなく、その教えから何を掴み取り何を気づき、どんな形で実現するかというのは自分の持っている才能や思想を含めて自分なりにしていくことが自分の役割を持つということになる。

動植物の世界であっても、動物なら親がやっていることを子どもは教わるけれど実際の世界で何度も自分なりに試し、親と同じようにコツを掴み狩りをしたりする。その狩りについては、親がこうしなさいと教えたのではなく親はただやってみせただけであるし、もしくは親はこうじゃないかという風に例えを見せただけ、それを子どもが自分がやるために失敗を繰り返しながら自分なりの答えを導き出しそれを挑戦し続け遣り切り実現することで自立していくことができる。

植物では、同じようにタンポポでもそうだけれど自分なりに生きた親元から種が飛び立ち自分なりに落ちた場所で親がやってきたような生きる力を発動し自分なりにその場所を受け容れていくから生長し子孫を残していくことができるもの。

人間も同じようにするはずだったのに、今のような時代は依存体質の中で誰かが教えてくれるものだと勘違いし「自力」というものを遣おうとはしなくなってきている。

例えば、先生が教えている通りにやっているのにうまくいかないと先生のせいにし、親がいう答えに従ったのに自分はダメだとかすぐに諦めるなど、自分がやることになっていないのに、できないやられないとなるのは正しい意味で自分の役割を果たそうとしていないことによる。

役割分担とは、自分は自分なりに何をどうするのかや自分のやり方で自分にしかできないことでどうやるのかということをまず決めてから、そこから自分自身の力を使い気づき学ぼうとする姿勢がなければその役割本来の意義を果たせない。

なぜなら同じことをやろうとしていてはいつまでたっても自分がさせられるややらせてもらえるという消極的な場所では役割が立たないからだ。

大体そういう人はマネすらしない、しようとしてもマネできないと最初から諦めてしまっている受け身な姿勢が邪魔をしてこの辺でといつも都合の悪くなると諦める。しかし、自分がやるのだと覚悟を決めた人は素直に正直になるからマネから入り、そのマネをしながらも自分のものに変換して自分らしく自分のやり方で同じことができるようになるものだ。

形にするというのは、実現させるというのは、その人の役割を取ろうや掴もうとする自立の心、責任を持つという覚悟、やり遂げるや遣り切るという決意があるかどうかによるものだ。

成功するかどうかは、役割を持とうと自分を活かそうと自分の力を使いきろうとする姿勢、そしてそれはその人の生き方や在り方によって決まるものだ。

挑戦すれば失敗もするのはつきものだ、けれどそこから新しい学びや気づきが生まれ世界が広がっていくし自分が深まっていくことで心が生長して歓びも大きくなっていくことを思えば好奇心の力を湧き起こし一度限りの人生を謳歌してほしいと願う。

子ども達にも恐れる事よりも迷いを断ち切り勇気を持ってチャレンジすることを大人の姿勢として示していきたい。まずは我々の生き方から実践していきたい。