無自覚の自覚

自分の周辺に起きる何かの出来事を思うとき、それは病であれトラブルであれ本人が無自覚であるけれど必要なことを教えるために本人の中にある何かが働きかけることで自らわざと起こしていることがある。

矛盾に感じるだろうけれどその人自身がもっとも向き合いやすいようにと、ある意味での困難から試練を与えられそれに気づけるかどうかという人生の課題をいただいていたりする。これはつまり外部から起こされたのではなく、自分が内部から起こしているという考え方である。

病気だと分かりやすく話せるけれど、病気になると外側のせいにいつもしているけれど実際は因果があるのだから自分が起こしているという考え方だ。しかし本人も周辺の人もそれが本人の人生そのものの課題だとはなかなか思わない。

例えば病気でいっても、患部や病気そのものについては語る人はいてもその病気よりも以前に、病気になるような生き方ではないのかという根源的なところまで掘り下げて語る人はほとんどいない。

同じように人間関係であっても、トラブルのことや、やり取りややり方の方を語る人はてもそれはそういう生き方や在り方が問題だと根本的なところまで辿り着いて語る人もほとんどいない。そういうものは宗教っぽいと言われ、変に盲信した人だと勘違いされるけれどそうではなく、単に自然の法則の一つであることを自覚しないだけである。

特に、その本人自身がその根源的なものに対する自覚がなく、自分から見えるその一部分がまるですべてのように錯覚しているのだから、これは本当にそういうことまで理解して実践する人を見出し、その人に心を素直に聴くこと以外に改善する方法はない。

人は素直であれば、上記のようなことを教えてくださるかけがえのない人やパートナー、メンターや親友に出逢い、人生は次第に開いていける。しかし、自分が素直でなく思い込みで決めつけて他人の話に素直に耳を傾けず勝手な解釈で分かって気になる人は永遠にそういう人には出会えはしない。

いつも自分の文句と他人の文句に終始固執し、自分はこんなだったのにや、自分はこうなのになど、いつも「のに、のに」と自分を責め立て誰も許さないから、相手に対しても存外な態度になっていることに本人も気づくこともない。

デリカシーがなくなる人というのは、当然自分の心にもデリカシーがないから他人にそういうことを軽い気持ちで言えてしまうのだと思う。

これは言い方を変えるといつも通りに自分を責めるように相手を責めるという習慣に支配されているということ。

そういう自他に厳しいひとほど謙虚さがなくなり、いつも自分が許せないから、結局は誰も許そうとはしなくなり自分も他人も責め続けるのだろうと思う。そしてそうやって無理をして最後はダメな自分を受け容れられず同じことに振り回されて疲弊し回復する日々を続けるという悪循環になる。

そういうものを気づけるかどうかに、考え方を変えることがいる。それは起きることは起こすことは全部必要という絶対受容の境地を持てるかどうかによる。

これは、「これも必要、あれも必要、全部必要という心の持ち方」であり、人生に不足はまったくないという考え方でもある。

自分都合でいくら取捨選択したって、それがどんな意味があるのかを自分で勝手に解釈してしまっていては本当の意味での気づきではない。大切な気づきとは、向こうからやってきたり、突然降りてくるという感覚的なものであり真摯に勇気を持って行動し最期まで遣り切る中で様々な組み合わせの妙により出会うものだ。

そういう生き方そのものの根本を正していくことが、気づこうとする姿勢であると腹を決め切ることができてはじめてそこから全てに感謝する心が育っていくものだ。

そして今ここを大切にする生き方に変わり、本来の素直さというものが全面に出てくるものだ。

無理をしない生き方とは、素直な生き方とは、そういう無自覚の自分に真に自覚するところからはじめていくといいのだろうと私は思う。

私の場合は、いつも本当に素晴らしい人たちに囲まれ自分のことを教えてくださる方々に出逢う。

恵まれていること、先祖の遺徳や、御蔭であることを思えば、一人でも多くのの方々へこの一期一会の素晴らしさを優しく強い心で自分を表現していくことだと使命に燃えている。

これも子どもたちあってのものだと子ども心の大切さを感じます。
時分自身がどのような生き方をするかで示していこうと思います。