リソーシャルビジネス

昨日、グラミン銀行を創設したムハマド・ユヌス氏のシンポジウムと講演を拝聴してきた。世界から貧困をなくすということを理念に、世界の人々の自立についてあり方としての道を示している。

キッカケはバングラディッシュの大飢饉を体験し、その中で単なる知識だけでは誰も救えない、誰でもいいどうにかして何とか救いたいという気持ちから、人と人との信頼を繋ぐことで目には見えない確かなシステムを切り開き、それは互いに助け合いの精神でソーシャルビジネスという領域を定義して実践なさっている。

目の前の一人のために何とかしたいという真心が、世界を変えていく原動力であることを生身の体験を通じて語られる姿に私の実践していることの確信も得られ新たに同志が世界にもたくさんいることを感じ勇気と幸せの時間になりました。

私が人間を信じ、いつまでも大好きであり続けられるのは人間はその心の刷り込みが取れるときにあるがままの命に気づき真に自立に向かい輝きだすからでもある。

この日本では、まだまだ物質的な刷り込みや今の社会の偏見の中の枠内に囚われている人たちもいる。人々に人気であるかどうかというところと、本当に自分一人でも真心で生きるなどというような至誠や分度、推譲、勤労など必要不可欠な自分の役割を全うする意味を何か人生と別のことだと思っている勘違いもある。

人が自立するというのは、自然と同じく無理がなくその人らしくあるがままに生き切っていることである。

それは自分が誰かをあてにせず自分のままを信じ生き抜く、生き切ることで周囲の自立を促し、竟には自然に共生していくようなものでもある。

誰でもできそうなことでも当たり前のことだと思っていることでも、それが自分の本心で真心であるその無我の自分に一度気づいて行動したならば世界はその瞬間からすべて変わるのである。

その瞬間からまるで棲んでいる世界が変わってしまうようなものなのである。

もう一つの世界、それは相対的ではない、絶対的なだけでもない、そのバランスの中庸の中にあるがままに存在そのものがあるのである。

そう考えると人は、形のあるないの中で人と会っていれば誰でも出会っているようで出逢っていないものである。

大事なことは、同じように生きている人、つまりは生き方や在り方で人は探していくのが善いのであると私は思う。そういう理念を共有する人々こそが、この世の中を新たな世界にしていくのであろうとも思う。

最後に、ずっと長い期間お会いしたいと待ちわびていた方でもありました。一番その中で気づき感じたことは私にとっての二宮尊徳のことがイメージできました。

時空を超えて、同じ思想、同じ理念を体現しているものからの流れの波長のようなものが味わえ新たなインスピレーションがどんどんと湧いてきます。

今は時代の特異点を迎え、私たちはさらなる好奇心と摩訶不思議の世の中に、新しい「リソーシャルビジネス」でこれからも邁進していくことになるでしょう。

素晴らしき出逢いを本当に有難うございました。

地球の和楽

色々な繫がりの中で、その人がどのように生きているかというのはその糸を辿りつつ歩み方を観れば気づいていくものがある。

自分から暖かい思いやりの真心で、正直に仕合せを願うように生きていく人と、いつも不平不満や愚痴を口にし、人の不幸せばかりを探して生きている人もいる。

同じ人間であるのに、その生き方が異なることで棲んでいる世界が違っているからまた不思議なことだと思う。

生きているというのは、大自然の中で皆で仲良く打ち解けて活き活きとしていることだと信じている人は人の繋がりの豊かさ真の有難さの中で日々を穏やかに暮らしている。

こういう生き方を和楽というのでもあろうとも思う。

生業を思えば、人は誰も他人を変えることはできはしないことを思うことばかり。だからこそ謙虚に自分の役割を省みれば、できるといえば自分の生き方を変えて示すことで勇気を与えたり、思いやりにより慈しみの情を送ったりすることくらいで精一杯の日々。

しかし同時にその少しの変化、つまりは自分の変化が周囲を大きく変えていくという不思議な奇蹟がこの世の中には満ち溢れていて感動することばかり。

例えば、それは出会いでもそうであり人は人と出会うことで生き方を見つめ、正直に生きる事の素晴らしさ、また志にあることの素敵な感動など、世の中をキラキラと美しく光り輝くものに突然気づいていくのであろうとも思う。

自分の眼差しそのものを見つめるというのは、自分の生き方そのものを見つめることである。

だからこそ、出会いを求め、出会いに生きるような自分の充実して楽しい仕合せであり続けるためにも苦楽を余すところなくもったいなく味わい切ることこそが人生では大切なのであろうとも思う。

思い通りいかないのは、まだまだバランスではないからでもある。
自然体まではまだまだ遠いほどに、足許の実践を楽しめということである。

自分がゆらゆらとありながらも回転、循環していくように主軸は常に一点を捉え流れながらも楽しんでいる子どものようないのちの輪の中でいのちを味わい尽くすのである。

この地球の上にいるのだから、偉大なる明知、その直観を信じて、様々な奇蹟を子どもたちと一緒に織り成しつつ今を和みつつ心底楽しんでいきたい。

循環の学び

発達や自立を考えるとき、そのものの徳性という命をよく観察し、環境を構成しているものの中で人間がどこまでやることが見守ることなのかというのは大事なことになる。

やってあげすぎれば、そのものの持っている命の力が弱まり、放任しすぎれば過酷な環境の中で命を活かす前に枯れてしまうものもある。

自然界は、もともともあった自然の中でそれぞれが調和をして永続する悠久の時を共有している。

そこに人間が自分たちの意図するものを植えて育てるということの中に、栽培するというものがある。

循環の社会の中でどのように自立できるものを育てるか、自然と共生していくということはあくまで自然の循環を活用しその中で自然の叡智を活かしつつ自分たちの知恵と工夫で調和していくことをいう。

それはつまり命の流れともいうべき、脈々と続いている大本から命をお借りしてお返しするということに似ている。

例えば、野菜などでも見た目には大量にいくら収穫があったとしてもそこにそのものの命が詰まっているものと中身がスカスカなものでは本当の意味で自然に命を受け取ることができるかどうかはまったく違う。

西洋式の経済重視の食物は、科学的な栄養などを重視し大量生産できるように数も大きさも相当なものを目指して栽培する。しかし自然農のようなものは、取れる量も少なく、また大きさも小ぶり、形も違えば味も違う、しかしそこにそのものの命の個性がびっしりを詰まっているものが多い。

その証拠に、前者は一口ですぐにおいしいかどうかもしくは料理で様々な調味料を必要とする。後者は、ほとんどの調味料はいらず新鮮そのものであればそれだけで身体が美味しいと自然に受け容れるのである。

私たちは一体何を食べているのかということを再定義しなければ、本当の意味で生きるという営みの中での食べることにはならないのであろうとも思う。

子どもたちのことも似たようなもので、一斉画一に同じようなものをたくさん作ることが善いと定義されている世の中で本当にそのものの命が輝くような環境を教育者は構成することができているのであろうか。

そもそもすべてのものを排除せず如何にそのものの持っている特性や発達を活かして環境をデザインするかというのはその人間の持つ自然観による。

その人間が一体何を信じているかが重要で、その信じているもの次第では本当の意味での命は観えることはない。

自然の中で育つというのは、大いなる見守るの恩恵を受けていることを傲慢にも忘れ自然の循環から離れればまさに本末転倒なのである。

今は、何でもお金で買える世界、そんな中でお金では買えない本当の贅沢とはどういうものなのか、そこをヒントに新たな可能性を見出していきたいと思う。

経済も道徳も一致する循環の理を主軸に、すべての人物事を包括して新たな道を模索していきたいと思う。

逆転の学び

自分の判断で善悪を決めたり、自分の判断によって良し悪しを定めたりはその人物の価値観で行っている。

そもそもこの世の中には、必要不必要の区別のなくそもそも渾然となっているものであり何も有用無用の別はない。

しかし過去からの知識や経験、一部の切り取られた社会の中でだけで生きていたらその刷り込みにあうのであろうとも思う。

そもそも自分にとって都合の良い物が正義であったり、自分にとって都合の悪いものを悪だと、常にその中心軸を自分そのものにしていたら元々あった自然の姿で物事を純粋に観ることはできなくなる。

自分が如何に偏見を持たないようにしようとしても、その判断は自我の形成の中で培われたものであるから幼児期に、両親をはじめ周囲の大人たちによって植え付けられた良し悪しの価値観はずっとその後も残っているのである。

発達というものを観るときも、普遍的な場所や相手のものとして観ているのではなく自分の解釈や物差しがそこに入れば正しい発達を見取ることはできない。

一般的にはそのものの特性を知っていたとしても、あくまで推測であり自分がどのように相手を観ているかは自分の観方なのだから相手のあるがままを捉えることもない。

きっとこうだろうや、多分こうだろうなどという自分の先入観や思い込みにより相手がそれに単にあわせてくれているだけだったりもするものだ。

人間関係も同じく、自分都合で解釈していても本当は異なっているという考え方もある。何を信じるかというものでも、単に自分が信じたいという、自分の思い込みや自我欲が入れば正しい見解はありえないのである。

そのものの判断に私欲を入れずというのはとても難しいことである。

如何に世の中全体のためになるか、如何に心の声を聴いて全体に調和し素直に無我に行じていくか、まさに人生は修行だというのはこういう無我のところにあるのであろうとも思う。

自然の赴くまま、自然に阿るままに自らあるがままの境地は、自分のありかたから見つめて見直していく必要がある。

そう考えると、逆転の発想ではないけれど行き詰まり停滞すれば丸ごとひっくりかえせば無限に学ぶものがあるのである。

学びの楽しさに触れると、道の歓びもついてくる。

これからもどんどん豊かにかんながらの道を学びあっていきたい。

生き方から

今の時代は文明社会の中では生きていくということの定義が、第一にお金をかせぐことになっていることは身の回りの流れをみていてもよく分かる。生活をしていくというのは、まずお金を稼ぐことからはじまることになっている。

もともとは生活をするとはどのように生き、どのように活かしあっていくかということを決めることであり、それはすべてにおいて「生き方」のことになっているのである。

例えば、これは食べものをとってみても同じである。

お店でも美味しいものを作ることは大切だけれどその美味しいものの定義も、見た目や口で美味しいと言われるものを作っていることが美味しいものだと定義しているものがある。

以前ある自然の料理人から聴いたのだけれど、最近のファーストフードは時間がない中ですぐにおいしいと思わせるものであればいいようになっている、しかし舌先で喜ばせるものではなく本来の食べるという人間の血となり肉となるものは全身全霊で心や体に浸み込み芯から喜べるものを創りたいといっていた。

つまりは、この美味しいの定義も創り手の生き方や在り方そのものがすべての出発点になっていることは善く分かる。

今、時代は経済というお金のためであれば多少の犠牲は構わないといった議論が横行している。原発でもそうだし、平和利用などというけれどあれだけのことが起きたことを反省しようともせず今の自分たちが困るから逃げるように先のばすというのは今の大人のすべきことであろうか。

経済と道徳を一致するために、皆が協力して知恵や工夫を繰り返し、捨てるべきものは思い切って勇気を持って捨て、新しくしていくものは勇気を持って挑戦していくという本当に価値のあるものにしようと努力精進なくして一体何がしたいのかと思ってしまう。

どうしようもできないからと何でも暗黙の了解にしてしまうけれど、私たちが今を生きるというのは常に生き方そのものの答えである。

答えとしての生き方がおかしなことになっているのに、何を改善しようしてもそれは意味がないのであると思う。

もう一度、最初からどう生きるべきなのか見直す時期に来ていると思う。

この大きな自然の流れに従うかどうかということが、私たちが自然に寄り添うか不自然を貫くかの境目であると思う。

昔の里山あったような、すべての生き物が調和して分け合って生きていくような生き方そのものからもう一度学び直しをしていきたい。

私の故郷にもまだそういうところが残っていないかどうか、ご縁を信じて探し出していきたい。

自我

人は人と出会うことで自分の存在を知るのであろうとも思う。

自分と対峙する相手は、それぞれに自分の価値観の中で言葉を語りその判断をし自分と向き合っている。そしてそのさなか、自分も確かに自分の価値観で自分と対峙して自分を知ることになる。

人は皆、自我という価値観のメガネを通して物事を観ているのだから真実というのは相手にあるのではなく常に自分にこそあるということになる。

自我で相手を見ていれば、相手は自我でしか見えることはない。自我が入れば本当の天性も個性も知ることもない。

自分の本当の天性や個性のままでいなければ相手のそのものの姿を映し出せることもない。

みんな何かに刷り込まれた自我を持つことで、自分が分からなくなり、素ではない状態になっているから今行っている判断というものは自分都合の自我に束縛されいのちそのものも輝きにくくなってしまっている。

色々な体験や経験を通じて得てきた様々な知識が邪魔をして、本当の自分というものをさらけ出している気がしいるものも都合よく自分を隠そうとすることになってしまっていたとしたら周囲を活かすといった人々の個性を引き出していくことなどできないのである。

いのちを見守る人は、常に自分の中にある刷り込みという名の価値観の自我を見つめる必要があると私は思う。

それはもともと持っている個性や天性を引き出すというのは、自分が素でなければできないからでもある。

色々なことを覚えることはいい、理論というのは裏付けが必要な社会に私たちは生きているからでもある。しかし、あくまでそれは本物の姿の自分があってこそのものである。

そのままでいいと相手を許すことも認めることも、まずは自分がそうなっていなければ不可能なのである。

まだまだ課題は山積みであるけれど、今の自分が何を欲しているのか、本当の自分が今、私に語りかけてくるものは何か、気づく機会をいただきました。

私の道で探していたものに出逢う瞬間、感動と感謝、心地よさが同時に押し寄せて何かに包まれている気さえいたしました。

一期一会。

これからも自分は出会いを大切にし、一瞬一瞬のきらめきの中ある宇宙を感じて自然観のままに自然を愛していきたいと思います。

有難うございました。

人の和

軽度発達障がいの子どもたちがいることで、周囲と違うということに悩んでいる大人はたくさんいる。

特に保育園、幼稚園、小学校などでは周りの子どもができることをできないというのは落ちこぼれであると定義され、大人の力でより過酷に周りの子どもと同じようにしなければという変な責任感で満たされて容赦なくその子ども自身を追いこんでいくこともある。

おかしな話で、変わっている子どもは変わっていればいいのであって社会で生きていくための智慧などは見守りながらその子なりにできるように周囲が援助していけばいいだけであるのに、実際はすぐに必死になり、自分の感情や思いだけに執着をして、言い返せない子どもの立場を利用してその人の刷り込みでその子が平均的な人間になるまでその子に体罰などを与えて無理やりに矯正させようとする傾向もある。

大人の視線や、その周囲の眼差しがその子へ偏見を与えたら当然周囲の子どもたちもその子への視線が偏見になってしまう。

野菜で言えば、茄子にピーマンになれといったり、皆形の違うトマトを同じ形のトマトにしなければ流通できない捨てないといけないからと必死に同じ形を目指すトマトを良しとするような感じである。

醜いあひるの子ではないけれど、あひるではなく白鳥だっただけである。いまだに、あひるに執着してあひる以外は迷惑だから他所へ追いやろうとする人もいる。この国は間違った個人主義と画一された封建的な村社会というような、権力に偏ったおかしな現実が存在している。

そもそも人間社会では、昔から厳しい自然環境の中で循環に添うように集団を形成し協力をしてそれぞれに与えられている天からの個性を活かすというものがある。

その天性はその人の独自の個性ともいっていいものを如何に伸ばしてその性が周囲の貢献や発展、共生のため集団に役立たせてあげようと見守ることが本来の教育者の生き甲斐であるはずだ。

自然界にある姿のように、その場所でそれぞれのいのちが共生し輝きあっているように多様な状態でも調和している姿こそが真善美の世界に生きているいのちの様相である。

それがなぜその天性をわざわざ潰すような行為をすることで、その子だけではなくその周囲の子どもにまで刷り込み、育つ力を奪い、その子の真っ直ぐに自分らしく伸びようとする力を無理に矯正しようとするのか、人間に対する偏見が強い人ほど自分の狭い世界に浸ってしまうのだろうとも思う。

今のニュースや世間の様子を見ていても、誰かひとりを厳しく追い込み、排除すればいいというすぐに世論や集団の意識でいじめのようなことをするのは、大なり小なりこういう大人の中での社会のあり方そのものが子どもたちの集団に反映されているのであるのだと思う。

すぐに排除しようとする前に、どんなことが自然であるのかもう一度考え直すべきであると思う。

役割交代ではないけれど、自分がやられたことは他人にやってしまう、如何にやりたくないと思っても本能的にそれをやるのだからトラウマになってしまい感情に支配されて苦しんでいる人たちもたくさんいる。

感情に支配されれば、もはやそこには暴力的なまでのお互いの排除論争の中でいがみあい協力する環境を自らで失っていくのである。

孟子に、「天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかず」がある。

どんな天変地異があったにせよ、どんなに状況が過酷であったにせよ、人の和があれば乗り越える力に変換できるのであろうとも思う。

人の和がなければ、何をやっても自然に育ち、皆で共生していく社会が環境に顕われないのであろうとも思う。

子どもたちに見せられる大人の社会、子どもたちの模範になる大人の社会を、思いやりと協力の豊かな繫がりの中にある平和な社会を実現させようと強く念じるのは今の大人たちの責任であることを忘れてはいけない。

他人事ではなく、まず自分から排除思考を捨て去り、自分から協力していけるような見守る社会を築いていくことだと私は思う。

身近な問題がすべてである、まず身近なところから見直していきたいと思う。

観ている

一昨年より新入社員研修の一環で、玄米講習というものをやっている。

自宅にて圧力鍋を使い、ただ玄米を炊くことをやってみせて一緒に食べるということなのだけれどいつもこの時間は楽しい時間を過ごすことができる。

「みると、いる」という世界がある。

食べてみる世界と、食べている世界ではまったく異なることを意味している。

これは玄米でもそうだけれど、一度だけ食べてみる人とずっと食べている人ではその世界観は似ているようで全く異なる世界が存在する。

やってみることも大事だけれど、やっていることの世界とは異なるように大事なことは継続している世界で物事を観ていることなのである。実践しているという世界は、実践していない世界とは観えている世界が完全に異なるということでもある。

この観えているや観ているということは大切なことで、見ただけにしないでそれを遣り続けているという心の観方に繋がっているのであると私は思う。

誰でも人は良い話を聴いたり、善い法則を知ったりもする機会がある、時折は目からウロコではないけれど今まで知らなかった真実や本質に咄嗟に出逢うこともある。

その瞬間は悟った気になるのだけれど、それをいつまでも悟った世界で居続けるにはその時の心のままの状態で居続けることでもある。

それはみるのではなく、いるという状態、つまりは初心を忘れずに継続できているかということが常に問われているのである。

先日の新入社員研修では、あわせて一番野菜が美味しい食べ方としてほうれん草を料理して食べる実践を私が工夫してやってみた。今までのほうれん草のイメージが払拭されるほと皆でたくさん楽しく食べる機会があった。

これも知ってみる食べてみるを経験することで、それだけで違う世界を感じることができるもの、そしてさらに玄米では食べ続けているだけでさらに異なる世界を常に維持していくこともできるもの。

実践をするというのは、単にやってみることではなくてやっているという継続をするということである。

実践をし続けるというのは、観ている状態のままでいるということでもある。それは物質的な現象には囚われず、もっと心で自分の居たい真なる世界に留まっていることに似ている。

自分がどうありたいか、どう生きたいか、つまりは何を観ているかということが何よりも人生そのものを生きていることになるのである。

子ども達には、ただ教科書通りに知ることや見ること、分かった気になることや、なんとなくそうだろうと頭で処理することよりも、具体的にやってみることで気づきやり続けることでその感動のままに一つの大きな世界を観続けるようにと示していきたい。

観ているものを見失わないように実践を積み上げていく精進を第一にしていきたい。

自然回帰

あまりテレビを見ない私が大好きな番組に、NHKの「ダーウィンが来た」というものがある。

動物の進化や特性について、密着した取材をしわかりやすくその生態について考察するというものになっている。私は生き物が好きで、動物でも植物でもその生態を観察する番組は何時間でも楽しく見ていることができる。

もともと生き物は、それぞれの環境の中でそれぞれに独自の進化を遂げている。

例えば、道具を使うようになる生き物はより過酷な環境の中で道具を使うことを覚えて同じ種類の生き物であってもまったく異なる性質を持つようになるものもある。またある生き物は、食べるものが豊富にある熱帯で生まれれば時間を持て余し様々な遊びを考えて生体に取り入れているというものもあった。

人間も同じく、元は同じであったとしてもその進化の中で環境を通してどのように自分をデザインしてきたかというのはそれぞれの環境の中で独自に生み出されたものがある。

世界では、そうやって自分たちが自分たちなりに環境においてデザインしたものがあるけれど何か根源的なものや原点回帰をするとき、必ずそこに共通する何かというものを観ていく必要がある。

その共通するものを観て、今の環境にさらに適応していくことが自然回帰でもあると私は思う。

環境の違いや、性質の違い、何かの僅差をいちいち大袈裟に語り合ったり、何か研究者がそれぞれに議論をしてさもそれが大事なことのように世論を操作しているけれど実際は、現場にあるその自然とも言える姿をよく観察していれば根本的なものを見出すことができるのではないか。

それは子どもでもそうであり、私の師が子どものことを語る時、特別なことを言うのではなく子どもはこうであるのが自然であるとその自然の姿を子どもを観て学び子どもから答えを導き出している。

これは私がよく原点に帰る時に、自然界にある、様々な姿からその自然の本来の姿を学ぶときのあり方と同じようになっている。

現場で自然の何かを観察し得たものはどんな作り話よりも価値がある。

世の中は変な教育法やメソッドばかりを語るけれど、もっとその前に身近な子どもの姿を観察し学ぶことであると思う。そして特殊で偏った知識ばかりで議論するよりも、もっと自然とは何かを覚えることであると思う。

まだまだこの国での環境の特異性が活かせず、真価が問われるのはこの少し先の時代になる。今から自分の現場で練磨し、これからの仕事の準備をしていきたい。

道の入口

今年のGT保育環境セミナーが昨日から開催された。全国各地から、同じ志で保育を実践する方々との学び合い。熱気に包まれて、充実した楽しさを味わえる豊かな時間を過ごすことができている。

毎年、このセミナーを開催する中で保育の道というものを考えることがある。

もともと保育や教育のメソッドのようなものは、探せば山のようにある。例えば、世界を見ただけでも数百通りの方法が存在するし、日本国内を見てもそれぞれがそれぞれに個性ある独自の教育や保育を実施している。

私はそれが優劣があるなどとは思ってもいないし、その方法がどれが最善だとも思えはしない。いろいろなものはいろいろに合っても善いと思う、それが自然であるからだ。

ただ、話をよく聴いてみれば自分の方法が一番だとそれぞれが表現し一長一短あるところに勘違いし囚われている人たちもいる。

そもそも長短はセットであるのだから、方法をいくら変えてもそれは状況に応じて変化するのだからこのやり方が一番というものは決してない。

一つの答えというものもないのだから、自分の生き方というものから答えそのものにしていかなければ何も始まらないということでもある。

つまり道とはそのはじまりの出発点としてどこから入るかといえばそれは方法からではなく子どもに対してどうありたいかということである。

道は、出発する際にどの入り口からかというのは大事なことであると思う。

その道の示す先が、どこを目指しているのか、どの目印に向かおうとするのか、それはすべてにご縁というもので導かれている。

誰に出逢い、何のために歩み、どの方向へと進むのか、その道の行末は最初の出発点で決まってしまうといっても過言ではない。

探しているものに出逢えるかどうかというのは、摩訶不思議な糸により導かれているようにも感じる。無意識でも、素直に正直に生きるものはその信じる先に入口の誠が観えるのではないか。

それはまるで山の麓にあるあのお地蔵さんのように、見守り、道行くすがらにて旅の安全を願う姿がはっきりと観え、そこでお参りする中で、自らがどう生きるかという世界、その六道輪廻の道に出逢うようでもある。

この世の中に、色々な道しるべは存在し、私たちの道の道しるべとして子どもたちの世界をどう創造するかは道の入り口にすでに決まっているものである。

私たちの入り口は、見守りという世界、子どもが安心して自然に育ち信じ合う真心の世界を広げていくようなものであると私は思う。

それも長い時間実践を続けていくことではじめて観得てくる新たな世界もある。

共生と貢献の理念の一役を担えるように、これからも精進していきたい。