自然の姿

生まれてきたときのその周囲の環境によって人は様々な先入観を植え付けられることがある。

一般的には、人種差別や階級社会、善悪の基準、平等という意味なども、集団が持つ思い込みの中で自分も思い込みをし偏見の中で生きている。

また周囲の評価や偏見を恐れ、真実であることや本質であることを実行しようとするとすぐにその今までの思い込みが邪魔をして自分らしく自由に行動することが難しかったりもする。

奇人変人と言われるほどに偏見を気にしない人は、時として迫害に遭ったり、また時としては偉大な人物だと仰がれる。しかし、それも偏見の中にいるのだからいつまたどういう評価に変わってしまうのかは時の運でもある。

本質的かどうかや、真実かどうかというのは、思い込みを超えたところに存在している。

それは、今までの先入観に刷り込まれたところから考えるのではなく、今にある自然から自然に感じたまま素直で純粋な心と体に存在することができる。

自然の姿のままでいるというのは、あるがままにありのままに物事が観得ていてあらゆる状況に対しても自分が自然体かどうかということ。

言い換えれば異様な先入観に囚われず、自分が根源的なものになりあるがままの自然体でいることが偏見のない姿になっているということでもある。

しかし、人はいくら偏見をなくそうとその偏見に対して異なったものを意図的に持とうとしたってそれは相対的に感じているのだから偏見そのものになりいつまでもその思い込みに縛られ続けることになる。

そこから脱却するためには、まず自然そのものをよく観察し、その自然の中にある共通する本質を掴むことで自然の姿そのものを理解することができるのであろうとも思う。

それはまるで森の木々や植物が、多種多様な生態系を維持しながら共生している様子に似ている。他を排除するのではなく、他を受容しつつ自分の今に生きているような感じに観える。

私たちは、何処にいても元々が自然であることを思い出さないといけない。

偏見をなくし平等で差別のない平和な社会を循環していくためにも、子どもたちには自然体でいるようにモデルを示していきたいと思う。

自然を観察し、自らが自然に学び自然に育つような生き方を選んでいきたい。

移り変わりの妙華

時代をさかのぼり、様々な歴史を鑑みてみるとその時々にその時々の解釈というものがある。

これは、宗教でも同じく根源的なものをどうその時代に捉えたかという足跡を観ることでその本質を理解できる。

そもそも時の流れは移り変わるものだから、不変と定めたものがいつまでも同じ形を止めておくことはできはしない。時が止まっているのであれば、不変というものはあったにせよ時は移るのだからその時にあわせてマトからそれないように普遍でいる必要がある。

例えば、仏陀が実践したことを弟子が編纂する、その弟子の言葉というのは深く感じていくことで真理や本質を最終的には理解していくものだと思う。

しかし時代が変わったり、その時代を顕している人が変わっているのだから常に分派し拡散していくのであろうとも思う。それはまるで、子孫が分かれていくように一つのものが分かれていくのに似ているようなものだと思う。

そもそも根源が一つであれば、人類で言えば皆兄弟になる。しかし、そう思えなくなったのは時代の移り変わりの中で根源から離れないようにと新しいものを付け足して帳尻をあわせてきたことで今のように世界が分かれてしまったのであろうとも思う。

同じく、一つの教えをそれぞれの時代の移り変わりの中であわないと気づいたものを付け足してきたことで新しい理解が増えていき仏教でもキリスト教でも様々な教えを真実だというようになったのであろうとも思う。

ただ、付け足したならどう削るのかということを考えないのはなぜだろうか。

そもそもその時代時代に解釈をする人はあっていい。なぜなら解釈の本質は、根源の捉え方が人の価値観や時代形成で変化するのだから当然、根源を同じくしようとすると温故知新である必要がある。

今の環境がどうであれ、元の根源を捉えていればそれは時代を超えたものを存在させているのであろうとも思う。

形あるものに囚われるなというのは、どんな教えの中にも必ず入るものであろうとも推測する。だからこそ、移り変わりの中にある変わらないものでいるような自然の姿にこそ私たちの存在の実相があるのであろうとも思う。

子ども達には、大人が先に真理を刷り込むよりも時代の移り変わりの中で自分なりに真理に気づき温故知新に刷新していくようにと、根源だけを教え、それ以外は自由でいるようにと伝えていきたい。

堅苦しい固定概念と先入観で本来守るべきものを形あるものにしたものに、自然の妙は観えることはない。

自然界にある妙なる華を捉えて、いつの時代も命のままのかんながらの道を咲かせていきたいと思う。

正直と生長の本質

人は成長していくとき、はじめて自分の間違いや勘違いに気づくということがある。

間違いや勘違いに気づくというのは、最初の出発点に戻ることを言いよくそれは原点に帰るという言い方をする。

なぜ原点に帰る必要があるのか、それは自分の判断でちょっと間違いを正したりや自分都合で何かを修正しようとすることではそのどこかに我執や私欲が入り混じり自分に偏った固定概念や先入観の中で何かをやろうとしても結局最期まで本質の理解に辿り着くことはないからである。

何でも中途半端にやろうとすれば、いつまでも変わらず同じことを繰り返しているだけになってしまい現実や身の回りの真実が映らず自分の世界に閉じこもることになる。

素直な人や正直な人は、自分の固定概念のメガネを曇らせないため常にありのままを受け容れることができ常に原点や最初からやり直し、見直し、学び直したりすることができるため、自分の本当の今の現実の姿や能力を正しく認識しそこから何度でも成長し直すことができる。

しかし、逆に屈折したり過信している人はいつまでも現実を正しく受け容れようとはせず、どこか自分の歪んだ固定概念によって自分を見ているのだから当然周囲の助言もアドバイスも自分都合の解釈なのだから、間違いや勘違いから抜け出せず素直な力が発揮されず成長のスイッチが入らずに成長している風に満足してしまい停滞しおかしなことになっていたりもする。

正しく成長するというのは、まず何よりも今のありのままの姿を澄んだ鏡に映しだすようにありのままに受け容れることからである。

今までがどうだったかや、自分はこうだということに固執するよりも、これからどうあるべきかこれからどうなるのかという新しい目標や目的のために自らを新しくしていくことが成長するということ。

新しくしていくには、やったことがないことを挑戦したり、新しい環境に身を置くのだから誰でもどんな人でも最初の出発点、つまりは原点からやり直していくことこそがもう一度新しく成長していくということであろうとも思う。

それは今まで変に積んできた変なものが邪魔をして、そのジレンマから正しく伸びることができなくなっているからこそ、大変な方を選んで最初からやり直すことでまた成長を永続して変化そのものの中に溶け込むようなもの。

自然界で例えれば、四季の中で様々な動植物が移り変わる大自然の中で生き抜いていくように、春が来て芽生え夏に活動し、秋に実り、冬に準備するという四季に溶け込むように環境の移り変わりにあわせて正直に生きていくことを言う。

万物は移り変わっていくものであるからして、そのままでいることは自分が変化をしないと決めてしまったことである。そういう生き物は、どこか自然に合わず無理がきて滅んでしまうもの。

そうではなく、無常の世にあり自らを変化の中に置くために原点で居続ける正直な心で素直に学び続けて日々に新たな心で身近な環境の変化を受け容れることこそが生長の本質、命の姿であると私は思う。

自然を信じ、天に任せて、流れに委ねて、自分に従い、周囲の変化を恐れず無常を楽しみ、変不変の流転の中に成長の今を受け容れて命じるままに歩んでいきたい。

一体感とは

過去の一斉画一の学校教育を受けて育ち、今の社会人としてよく勘違いしている刷り込みの一つに正解を探そうとするということがある。

分からないからこそそれはやってみる価値があるということなのだけれど、分からないことはできないという思いだけではなくそれはやってはいけないとさえ思っている節もある。

優等生でいることが、もっとも怒られず価値のあることかのように感じてしまえば挑戦することよりも無難でいる事の方がいいことかのようにさえ勘違いしてしまうものである。

知っていることしかやろうとしないのは単に過去の教育の刷り込みである。

教科書通りにやることが正解なら必ずそこに何かしらの模範解答をちらつかせ、何をするにもその誰かの価値観が優先され正しいや正しくないなどとされる。

一般的な一斉画一的な教育は、あの暗記するための宿題を一方的に解かせるようにのように答えを先に学校が用意したものをやればいいというのが学問であるかのように思わせてしまうこともある。

最初からそれが当たり前だと思ってしまえば、考える力、つまりは最初から考えて自分から自分らしい正解を求めて挑戦するという力が衰えてくる。

今の社会でその教科書通りの答えや暗記能力がどれだけ必要だったか、大人になれり実社会に出てみれば何がもっとも必要とされているかはすぐに分かる。

実社会では、分からないことばかりだからこそ乗り越える力や協力して無限の答えを探し出す力や、創意工夫して応用を解くような力が必要になっているのにそれは社会に出てから学んでいたら子どもたちは大変な苦労を強いていることになる。

新入社員や、過去の高度成長期を抜けた人たちは「誰かに指示をもらってから自分で考える」ことが自立だと勘違いさせられてしまっている場合も多い。

この刷り込みがあると共生や貢献、協力の本質が理解できず本人もとても孤独になって苦心して豊かな社会の一員になりにくくしてしまう。

一体感とは、自立した中で共生し社会貢献の中で皆で豊かな繁栄と発展の社会を創造していくことで生まれてくるものだと思う。

その一体感とは、勘違いで皆が同じことを一緒にやっていれば一体感だと単に刷り込まれていることもある。

同じことをやっているのは単にクローンがたくさんできたというだけである。

本来、みんなが一体感を感じるというのは個性や価値観が異なったとしても同じ方向や目標に向かってそれぞれが自由に自立して取り組んでいることが本来の一体感である。

そこには誰かの指示などもなく、大きく言えばビジョンや理念、そして目標に向かって足並みを揃えて信頼しあい一生懸命に取り組んでいくことである。

それは草花でいえば原種の種が天や太陽だけを観てそこに向かって全身全霊で伸びていくような感じである。

様々な草花や野菜が野草が環境を構成し自由にそれぞれの役目を果たし全体として調和しているイメージである。

自然に皆の個性が生き生きと発揮されている一体感がある。

私はそれを本物のチームでの取り組み型だと思っている。

それもまずは自分の過去の刷り込みに気づくところからが挑戦なのである。
まずは、おかしな「勘違い」を捨て去ることである。

自分の勘違いに気づき、学び直すことからはじめることを大切にしていきたい。

真善美

私たちは、都会で生活する中でそもそもの人間らしい生き方とは何なのかということを見失うことがある。

都会に住むと、便利や効率といったようなすぐに手に入るものや人間側にとって都合が良い物ばかりがサービスだとし、それをお金で享受されることは当たり前だということになっている。

食べもので考えれば、食べたい時にすぐに食べたいものはお金で買える。コンビニやファーストフード、ファミレスなどといったものが最たるものでそういう便利な生活に馴染んでしまっているとそもそも食とは何かという出発点から狂ってしまうことになる。

元々のところから考えれば、食とは命であり手でひとつひとつ育てたものを工夫して料理しその恵みをいただくことである。都会にいようが田舎にいようが、生き方としての食というものをどれだけ大切にしているかどうかということになる。

都会では、電気も水も食も空気まで人間の思い通りになるようにと設置されている。私たちが必要と思えば、それがすぐに身近に効率よく手に入ることこそが都会に住んでいるということになる。

その先にあったものは、関わりの希薄さや孤独さ、不便なものや効率のよくないものの排斥、さらには頭でっかちに刷り込まれた虚像の幸福など計り知れない不自然さが私たちの心の出発点に大きな影響を与えている。

そしてそれが意図的に人間が循環をさせたように見せた持続しない社会と経済を生みだしている。

もともとのエネルギーとは、一切は必要なものしかないと智慧と工夫で皆で無駄なく無理なく使っていることでフルに活かすことができる。それは電気でも水でもすべて等しく、「せっかくだから使わないともったいない」というそのものに命の役割を与えていくことでエネルギーを共生させていくことが循環するということでもあるのだろうと思う。

出来る限り、そのもののお役目通り使っていくことで価値をさらにお互いに高め合っていくという関係性のことである。

物や人、物と物、人と人もすべては関係性をどう創るかというものになるのであろうとも思う。それは、その繋がりや絆のあり方の中で私たちがどのように感じてどのような生き方を選ぶかということが何よりも大切であろうとも思う。

都会にいようが田舎にいようが、日本人としての大切にしてきた伝統文化や個性は私たちの生き方を決めてきた証でもある。

その証に従って、絆の中にどのような結びを持つのか、そこには「いただきます」や「有難う」「御蔭様」「ご苦労様」、日頃の生活の中の言葉ひとつひとつに心を籠めて使わせてもらうことであり、そういう気持ちをどんな環境の中にいても忘れないことこそが私たちの出発点であるのではないか。

私は日本人に生まれて誇りを持っている。

大和魂は、自然との調和の中で私たちが大切にしてきた生き方のことである。そういうことを長い年月かけて生活の中で培い、自然に対して傲慢不遜な生き方をせず、自然を敬い謙虚に生きてきた真善美がそこにある。

私たちの真善美の原点は、この大和魂によるものだ。

都会の中にいるからこそ、日本人としての個性を発揮していくのが今の世界でお役目を戴くことである。何よりも、自らの使命を輝かせるように個性を最大限発揮するためにかんながらの道を邁進していきたい。

自然の叡智を学びつつ、もう一度最初から学び直しをしていきたい。

道中信念

天与の道というものがある。

人生を歩む時、その自分の道のことを自分一番信じているかどうかというのはとても大切なことであろうとも思う。

日々は様々な現象に満ちている、その一つ一つを取り組む最中、自分が一体いつもどこを観て取り組んでいるかというのはとても大切なことであろうとも思う。

自分が明確な一点だけを見つめて身近なことに真摯に丁寧に取り組むのと、なんとなく遠くだけをぼんやりと見て目先のことにあくせくするのとではまったく同じではない。

自分の道を見定めているかどうかというのは、信念が左右する。

例えば、「憧れ」というものがある。

自分がどう生きたいか、どうありたいかという部分から誰かの生き方に触れてそうありたいと思うのは、自分自身が自分の道をどう往くのかという心の願いのようなもの。それは別に道から外れたのではなく、自分もそう歩こうと思っているだけである。

しかし、この憧れも他人を見て他人の人生が羨ましく感じ、自分もそうなりたいと見た目や評価をそうされたいと思うのはただ焦って自分の道を歩むことを見失っているだけでこの憧れは単なる欲望である。それは単に自分の道ではない誰かのもの、その横道にそれただけである。

一緒に歩くというのは、誰かの道に依存することではなく自分の道をしっかりと自分が歩むことこそ一緒に歩んでいることである。

そこには常に、自らの道は天から与えられた自分だけの道だと信じているかどうかというのは実践に試されるのである。

私で言えば、自分にしかない道を信じていれば自ずから身近にあるものはすべて探していた答えになる。その身近な点を線にし面にすれば、本来の自分の歩んでいる道を実感し、より強い信念で歩めることに感謝しつつ日々を充実したものにしていくことができている。

しかし、つい誰かの道を見てしまいそっちの道が良いのではないかなどということに迷いが出ればすぐに自分自身に中にある答えや身近な声が聞こえなくなり、何処か外側の遠いところにさも答えがあるように感じてしまい惑い彷徨うことがある。

これは迷信であり、他人は他人、自分は自分なのだから他人はあくまでも答えはもっていず、すべての答えは自分自身の道の中にこそ見出すものだということを意味している。

道は、様々なものがあり、曲がりくねったものもあれば、やや広い直線が続くものもある、細長く脆いものもあれば、太く勾配があるものもある、その道中において如何に自分らしく歩みその旅路を味わい尽くしながら天から与えられた道で真摯に生きていくのか。

それが自らの人生の問いそのものになっていくのであろうとも思う。

どんなに時代の変化があったにせよ、周囲の現象に反応したくなったにせよ、自らは一点だけに夢中になるほどに観続けて渾然一体となり、自分にしかないこの道を、天から与えてもらったこの道を、真剣に歩ませていただくことであると私は思う。

しかし、若さというのは自分のことが分からず、過信があるゆえにどうしても焦ってしまうもの。焦りは禁物である、それは自分が迷子にならないためにである。

私自身、まだまだ道場での学びが足りず自らに過信や慢心があるようである。そしてこれもまた誰しも通る道中の一つ。

さらなる内省を積み重ね、道中の邂逅を味わい、信念を磨き、旅路を味わい、心から道を楽しみたいと思う。

子どもたちの自分にしかない道をこれからも傍で見守っていきたいと思います。

万物一体元

王陽明に、「万物一体の仁」がある、そして中江藤樹に「万物一元の理」がある。

そもそも根源を辿れば、私たちは同じ先祖を共有している。以前、これは種が何処からきたのかと遺伝子を遡ればアフリカ大陸から出た私たちの先祖が世界中へと移住しそれぞれの文化文明を築いたことが明白になっている。

ミトコンドリアの中に、太古の昔から継承され続けている強い記憶がそのままに残っているのが発見されているからである。

そう考えれば、自分と他人とを違うものとし他人に対して厳しくなるのはそもそも万物一体や万物一元からは離れてしまっているのである。

つまりは、人類はすべて家族であり兄弟であり同じ命を共有している偉大なる一体人、全員が自分自身そのものなのである。

人間は、歴史を生きていく中で皆の一部としてお役に立つようにと遺伝的に自分の生長にとって必要なものを残し、そうではないものを捨てて今の自分の姿かたちを形成してきたのである。

皆を全面的に信頼して自分が世の中に何で貢献するかを本能的に直感的に悟り、それを伸ばして皆の全体の一部になろうと努力しているのが生きることである。

それを成し遂げてはじめて、自己実現という本物の一体感を得られるのである。

しかし、その発想から離れて、自他を切り離し、自分だけの才能を価値あるものとし自分に驕るものでは環境を用意していくことはできない。

自分の能力に自信があり、自分の能力のモノサシで他人を見るのは全体の一部ではなく自分こそが価値があるものだと勘違いしているからである。自分の体で言えば、手だけが全てだと勘違いし頭や足や脳などが繋がっているなどとも気付かないでいるに等しくバランスを崩すのである。

誰かと比べられ、誰かに負けないようにと、一体になることよりも自分の一部が飛び抜けようとするのは悪循環を生むのである。

そもそも根源的に私たちは自他と一体と思えば、相手の苦しみは自分のものであり、相手の悩みは自分の悩みである、そして相手を自分だと深く思いやり一緒になって歩む取り組むことこそ仁の心とでもいう。

こんなこともできないのかや、こんなレベルかなどと相手の能力を自分の思い込みで裁くよりももっと大切なのは自分にも同じようにできないことがることを共感し、相手が自分だと思って大切に接してあげることである。

人類は、すべて人類の根源が一つに繋がっているし、自然は同じく、すべての自然が渾然一体に繋がっているものである。

排除したり、自分を優先するよりも、もっと仁徳を磨き、そのもののと一体になる心を磨き育てていくことが日々の自分の命を正しく生きる実践であるのだと思う。

私はまだまだ自分の能力などというものに過信し、自分が如何に周囲と一体になるのかということを怠る弱さがある。日々に実践を楽しみつつ、思いやりをもった環境を用意し一人ひとりの明徳を開けるような見守るを学んでいきたい。

本来の自然

自然というとどこまでが自然でどこから不自然かという境目がある。

世間では、自然という言葉が使われていてもその定義が異なり明らかに不自然なことを言っているなという宣伝や広告などからより人々は自然が分からなくなってきているのではないかと思う。

人工的に創られた自然を自然とされたり、もとはそんな形ではなかったものも自然っぽく見せる技術が蔓延している。エコという言葉も、環境という言葉も、人間が都合よく表現したものはすべて自然ではない。

私の思う自然とは、何も人の手でいじってはいないものと定義している。

人工養殖、人工栽培や、人工教育なんでもそうだけれど人が手を施して何かの意図で生成しているものは自然ではない。最近では、植物は種の段階で遺伝子をいじったり、食べ物は今までになかった添加物が最初から入っていたり、そもそも不自然に飼育生成されたおかしく合成されたもので溢れている。

最初をいじられれば、それが自然と勘違いするのが人間である。

例えば、今、見えている景色に存在するはじめからを改変していまっていたとする、土はすべてアスファルトで虫たちの動きも感じれず、夜空はネオンの光でほとんど見えず、街路樹の統一された樹木が緑だと癒され、騒音の金属音が普段の音となっているとする。

その中で如何に自然を語ったとしても、最初から存在しているものはほとんど感じることはできないのだから自然なはずがない。人間はその中で、これはエコだや、これは省エネだやと、おかしなことばかりを言い、仮初の自然を定義し、人をさらに物質的な世界へと誘っていくのであろうとも思う。

本来の自然とは、もともとあったものであり、植物では最初からある姿、種から育ち種に戻る循環であり、昆虫でも周囲とバランスをとり生き合う姿であり、もっと分かりやすく言えば、私たち日本人の主食は玄米であり、日々は太陽と星空を観つづけて感謝で生きるものでありと、最初の姿から考えていくことが自然なのであると定義する。

人間が一方的に語る自然とは、一部に切り取られている支配できる存在としてしか見えておらず、本当は直感的に感じ取る自然の姿、それは循環しているものや命の流れ、永遠の流転であったりに自らをあわせていくときこそ観えるものであると思う。

だからこそ、人間は自然に対してどこまで自分をあわせてどこから人間として関わるかという境目を自然を邪魔しないようにと自分を調整調和させていかなければ自然とは関われないのである。

そうではないものはすべて不自然なのであると私は思う。

子ども達には、自然の中でどれだけ自分側が関われば自然の一部としての自然に近づけるのか、その渾然一体としたものの中で本来の自分ん姿を取り戻せるような機会を作ってあげたいと思う。

それは別に動植物でなくても、子どもたちが子ども本来のあるがままの姿でいられるようにも同じである。今の見守る保育をさらに、具体的な姿にして拡げて刷り込みを少しでもとっていきたいと思う。

若気の至り

若さゆえに分別がつく前に、激情に任せて誰にも負けない情熱を傾ける元気や活力が湧いている状態に血気というものがある。

思い込みや先入観から行動力と好奇心が何か一つのものに集中するとき何か不思議な高揚感というか充足感が出てくるとどうしても向こうみずに真っ直ぐに意気に任せて取り組もうとする。

そしてそれでいいと思ってしまう、けれどそれが次第に傲慢になり、多くの人たちの犠牲に繋がり、一人で全てをやるということは実は通用しないと分かったとき、周囲の有難みに気付き、それが若気の至りであったと反省してから人は本物の強さや優しさというものに目覚めていくのであろうとも思う。

無知というのは、やったらどうにかなるというような根性や意気だけで何とかしようと勘違いすることであり、そういう無分別な行為は周囲の仲間一人ですら守れない弱い力である。

本当に仲間や大切なものを守りたいと思うのなら、正しく自分の力を自覚して周囲と協力し助け合っていく本物の強さを持たなくてはならない。

私たちの国の神話に、国津神と天津神というものがある。

国津神の力と意気だけでは、国は治まらず、天津神の和合や思いやりの心が欠ければ平和が続かないとし、常に全体のバランスを保つことの大切さを創始理念としてこの国のカタチを子孫たちが実践して今がある。

無謀で強大な力だけで何とかしようとする先に、自国の正義という自分側に偏った利益を守るために戦うといつまでも戦争はなくならないのである。国々の神話や歴史を遡れば遠い過去にすでに実証済みでそれは不可能であることは心の奥底で私たちは知っているのである。

世界の国々はまだ歴史が浅く、そして若い。

そしてリーダーと呼ばれる、国の指導者たちも人生が短く目先のことに右往左往してより悠久の流れを感じれず世界はまだまだ平和に治まる気配もない。

この先はすべての力を一度失ったとき、もともと眼にはみえないけれど広大無辺に包まれている愛や思いやりを見出し、和合の持つ真の力に目覚めるのであろうとも思う。

人間は自然を支配できるなどと誤解するのではなく、自然の本質に気付き周囲のお力の御蔭で自分は力を出せているのだと全体調和から自分を見つめるとき、はじめて自分というものの限界や自分というものの本当の力を自覚することになるのであろうとも思う。

孫子にある、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」は、己の力を過信せず、過小評価せず、正しく力そのものを理解し、相手を同じように知れば、すべての物事を平和に解決することができることを意味しているのではないかと私は解釈をする。

力に魅せられているのは若い証拠である、まだまだ地球の歴史は若く浅い、これから様々なものを学び平和の意味を学ぶのであろうと思う。

子ども達には、出来る限り先人たちの教えを伝承し、その伝承から正しく気付けるような環境を用意していきたい。気付いたものから変わることで、世界はまだまだバランスを保つ余地を残している。

心を育てて、道をしっかりと絶やさず遺していきたい。

日々の祈り

人間は夢を持ち、目標に向かって日々に念じて歩んでいけば必ずその道の上にある繋がりの中で探していたものに出会うのであろうとも思う。

しかしその道が自分の思っているような真っ直ぐではなく、反対の方に曲がっていたり、いきなり細くなったり、急に下り坂になったり、真っ暗になったりなど、突然、目の前の現象が急変することもある。

そういう時に、不安から歩くのを恐れてやめてしまったり、自分の道でもないのに横道に逸れてしまったりすれば、道を悠々と歩む楽しみを味わうことができなくなったりもする。

道を歩む中で、頭上がいくら雲に隠れようが雨が降っていようが、いつもその雲の上にある太陽、お天道様だけを観続けて心を素直でいれるかが大切なことになる。

待つということは、念じるということであり、念じるということは祈るということである。

歩みを止めずに道を実践し、焦りや奢りといった欲を沈めるためにも祈りを続けることでイメージが明確になっていくのであろうとも思う。

純粋無垢で素直な祈りは、自然のあるがままの姿に近づくのだろうとも思う。

それは、自然の植物が天に向かって真っすぐに伸びているようにただ日々を信じて健やかで安らかでいるようでもある。

何もない当たり前のことこそが奇跡であり、その中でも歩ませていただけるということにどれだけ感謝の祈りを込めて充実した日々を送ることができるのか。

結果も大切だけれど、プロセスはもっと大切だということである。
旅路には休憩があっても終わりはないのである。

そういうことから楽しむための気づきの感性を磨くことができ、さらに夢のイメージが鮮明になっていき出会いに導かれるように夢になっていくのであろうとも思う。

今の時代は、幼い時から派手に編集編纂し加工された情報やネオンや騒音、その他さまざまな便利なものにより赤々とした照明ばかりに目がくらんでしまっている人がたくさん増えている。

はじまりを誰かにいじられ、子どものときから身近な環境が刷り込まれていれば、バランスがそこからズレたのだから何が本当のことなのかということも気付くこともない。

幸せに生きるとは、純粋に素直に正直に道を歩む中で絆や繋がりに奇跡を観ることでもあり、毎日生かされている実感を味わうことでもある。

道が正しく歩まれるように浄化するのは自分自身の祈りからである。

日々に祈り、日々に念じ、行いを怠らず、心安らかに道を歩ませていただくようにと努めていきたい。

まだまだ修行をさせていただけることに感謝し、明日へと続く道を掘っていこうと思います。