情熱燃焼

営業の仕事をしているときによく悔し涙を流したことがある。

営業は結果がはっきりしていてシンプルで、さらに自分で目標を決めて会社に貢献することが何かが明確になっているからこそ、それを成し遂げることができなかった自分が悔しくて何度も何度も涙を流してはさらなる情熱を傾けていました。

いつも現実を受け容れられず、それは自分の熱意が足りなかったからだと振り返り、きっと自分の情熱がまだまだ達していないのだと自分に言い聞かせ、ぐいぐいと仕事に一心不乱に没頭した記憶があります。

今、思い返せばその気持ちは今もこの胸の奥に止まっていていつでもその頃の情熱を思い出すことができることが今の行動力や勇気に繋がっている気がします。

例えば、今でも明日に延ばせることは先にやり、いつでもいいことは今やる、難しいことは事前に取り組み、スケジュールはすべて前倒しにすることなど、それはすべて仕事の体験を積んだことから自己管理できるようになったものです。

「仕事は、情熱をかけるほどに愛が籠り、真心が出てきて奇跡が起きる。」
奇跡を信じることができるのは、仕事に情熱を籠めているからです。

どんな仕事でもそうですがもっとも大切なことはその仕事に全身全霊の情熱をかけることなのです。自分の仕事に誇りを持つのも、自分の仕事が自分を創っていると感じるのも、それはその仕事への責任感や使命感から生まれるものです。

当たり前のことですが、仕事が楽しいことは最高の人生には欠かせません。

何か新しいことに打ち込む際にも、迷っている暇もなく、自分のすべてをまずそこに情熱として行動で注ぎ込みます。そしてそれを注ぎ込めば込むほどに仕事が面白くなってきて、さらに挑戦して没頭していこうとする力が漲ってくるのです。

自分がやりたいかどうかもありますが、それよりも私はもっとも大切なものはすべての仕事に情熱を傾けることであろうと思います。人生は面白くもできれば、あっという間につまらなくもできるものです。

仕事も同じく、面白くもできればつまらなくもできます。
強い熱意こそが、人生を感動させ、他人を感激させるものです。

燃焼していくことは、人生を切り開く上で大切なのだと改めて感じます。
仕事を教えることは上手くないですが、この熱意は私の得意分野です。
自己発奮して燃焼し、周囲や後人へと伝承していきたいと思います。

 

自意識という妄想

自意識過剰というものがある。

この自意識というものを思う時、相手から見られている自分と、自分からみている自分というものが存在しています。

営業の仕事で例えてみると、誰でもはじめて営業をする時は自分に自信がないので最初は自分の諸動作や話し方ばかりが気になって商品の話ができずタジタジしてしまうものでこれは相手から見られている自分を過剰に意識しているからでもあります。その逆に、自分から見ている自分に自信があればどのようにすれば相手は喜んでもらえるかを気にするので商談に集中できるものです、しかしもし相手を過剰に意識してしまうと今度はビクビクしてしまい話を進めることができなくなります。

この自意識過剰というものは、この両面を過剰に意識することで発生するのです。本来、この自意識は人との対人関係の問題です。本来、信頼関係があれば相手からどう思われているかなどあまり気にしないし、逆に自分がどう見ているかなども考えません。自分から信頼できる人は、信頼されるように善いイメージを持てるような体験をたくさん積んでいくしかないとも感じます。

これを営業でいえば、その自他を信頼できる状態になるには経験を通して成果を出し自信を持つことで現場での不安はなくなってきてどこでもいつもの自分で接することができるようになるのです。

仕事でいえば一度上司に企画書を突き返されても何度も何度も挑戦し納得いくまでやり遂げたり、先程の営業でいえば契約していただけるまで何度も何度も納得いただけるまで共感していけば次第に力がついてくるものです。

人は途中で諦めるとそれ以上は無理だと思うようになります。人間関係でもそうですが、自信がある人は猛アタックしてでもその人との関係を「もの」にします。しかし自信がない人は、すぐにそれ以上の関わりを避けようとしてしまいます。

相手からどう思われようが、自分がどう感じようが、自分がそうしたいと思った目的を遂げるまで諦めずに関わることで関係は打開できるのです。なんでもそうですが、最初から上手くいく関係などあるはずがありません。

打ちとけ合うまでは何度もぶつかりあいがあります、それに何かを一緒にやろうとすれば遠慮なんてしていられません。それを実現するまでやるしかなく、大事なことはお互いの幸せのために真剣に誠実に取り組むことで関係も良好になるのだと思います。

これは先程の営業では、お客様の幸せのために会社に貢献するために全力で働けば自信は後からついてくるということなのです。先に自信をつけてからという発想ではいつまでたっても仕事の実力もついてはこないのです。

医者や先生と呼ばれる仕事もそうですが、他人に見られるからと意識しすぎていたら本当に善い仕事はできません。仕事への誇りと自覚こそが、その自意識を拭い去るのです。

だからこそ自分の自意識を気にせずに没頭し、気にせずに熱中する、気にせずに集中し、気にせずにやり遂げる、それくらい無我夢中になったり、一心不乱に没頭するくらい目的のために時間を使うことが大切で、それを繰り返せば自信も漲ってきます。

最後に、禅語に、「莫妄想」 (妄想すること莫(なか)れ) があります。

毎時妄想していたら現実はいつまでも変わりませんね。いちいち自意識や過去や未来のことばかりを考えるのではなく、この今こそに集中することが自分との正しい付き合いになるのだと思います。

常にこの今を、この現実を真摯に丹誠を籠めて生きることなのです。

他人に伝えるといことはとても難しいことです、このコミュニケーションというのは胡坐をかいていては上達していきません、仕事は何歳になっても学びなおしが必要だと振り返り反省する日々でもあります。だからこそまずこの今、なすべき課題にこそ集中して改善し新たな習慣を更に獲得していこうと思います。

 

 

速度と確認

何かに取り組む際に、迷いというものがある。
自分の体験していないことや、分からないことが発生するとき、今に打ち込まずあれこれ過去や未来を行き来しているのが迷っている状態とも言える。

何かに打ち込んでいるときは迷わないけれど、遣りながらでないときは迷っているだけで何も前に進んでいないことが多いのです。

この迷っているというのは、この今というものに対してあまり前向きではなく後ろ向きになっているときに発生するのです。

そういう時はどうすればいいかといえば、簡単にいえば「やる」ことなのですがそれをやるには確認することが必要です。

この確認とは、事前に確認していく連続のことを言います。たとえば、迷いそうになったとき確認が足りなかったと思う人と、迷ってからどうしたらいいかまったく分からないで立ち止まる人がいます。当然、迷うときはすぐに上司や決定を下したリーダーへの確認をただちに行い自分が迷わないように進めることも部下の仕事であろうとも思います。

そしてこの速度感こそが、スピードを上げることになるのだと思います。つまりは確認の質量と速度がその人の仕事の成果を左右しているのだと思います。

例えば、ある人は迷ってから確認するまでの時間が1時間の人と、10分の人では、迷っている時間が50分もなくなります。時は金なりというように時間は過ぎていくものだから速度がいるのです。

すぐに聴ける関係があるかどうかは、信頼関係によるものですがこの信頼関係もすぐに聴いているからできあがっているともいえるのです。

一人で妄想をして、ありもしないことを不安に感じビクビクと恐れていては一向に仕事は前に進まないものです。そういうときは、自分から進んで確認することで打開できるのだと思います。

確認から入るのならば、確認ですから否定されることも少なく具体的な指示や指導を受けやすくなります。特に精度の高い仕事や、責任が重い仕事であればあるほどに確認力がその結果を左右するものです。

そしてその結果は速度が関係します、なぜなら成功も失敗も速度で勝負が決まってしまうからです。物事はすべてタイミングともいえると思います、だからこそその瞬間、言いかえればこの今をどれだけ制することができるかで人生の成果も変わってくるのです。

この今を大事にしていくためにも迷わず確認を大事にしていきたいと思います。

伝達

自分にできることを他人に伝えることは難しいことです。自分が努力精進して掴んだものは、知識だけではなくその経験もあわせて理解していく必要があります。

いくら学識だけで分かったと思っても、それは分かった風であるだけで本当に分かったとは言わないからです。人は同体験を通じて分かりあっていくものであったりするのですが、そこには時間差などというものもあります。

同じ量、道を学んでいたとしても、そこに確かに積み上げてきたものの差がある。

20歳で学を志している他人と、60歳までそのままの志で学問をしている人では同じ言葉であったとしてもその裏付けされた体験の質量は同じではないからです。

しかしそれを理解し伝達していくことで、お互いに力をあわせて何かに取り組むことは必要になってきます。その時に必要なのがビジョンの共有、価値観の主軸の設定であるようにも思います。

何かを一緒に行うというのは、その方針や方向性を把握しているかというのは大事なことです。私も何かに取り組む時は、自分から方針や方向性を確認して自分が何を学び、何を共にやるのかを決定します。

その伝達と理解の質量は何よりも大切である気がします。そしてその電線ともいうべき伝導体が何によって繋がれるかといえば信頼であろうと思います。

だからこそ人間関係には信頼関係がまず第一になるのです。自分から信頼されるように努めることは、自分から好かれるように努力することです。好かれたいと思うから好きになるのであり、好きになっている人は好かれたいと素直に感情を表現できる人だからです。

他人を好きになるのは、自分が好きになることで、自分が好きになることは、人から好かれることです。

こんな当たり前のことですが、仕事だからと割り切るのではなくもっと自分から壁を取り払い相手に優しくなれるようになりたいと思います。

歩み寄り

先日、赤ちゃん学会を訪問して話をお伺いすることがあった。そもそも赤ちゃんという存在がどのような能力があるのかはまだあまり解明されておらず、本来の関わり方やあり方などが最新の研究で明らかになってきている。

音を感じる力や言葉の認識力、人間関係の構築など一見、何もできない存在にみえてすごいことをやっているのにはとても驚くことばかりなのです。

人間はどうしても小さいものや動かないもの、言葉をしゃべらないものなどは何もできない存在だと思い込むことが多いのです。しかし、実際は動かないものや新しいもの、言葉にしないものこそが大変は実力を兼ね備えているものも多いのです。文明が進み、知識が豊富になればなるほどに目新しいものに意識が運ばれますがもう一度見直すにはとても善いことだろうと思います。

その会話の中で、軽度発達しょうがいの子どもがあまり健常児の子ども達の気持ちを理解しないなどの誤解について話がありました。もともと偏りが強い子どもは不思議な力を持っています。犬と話ができるや、何か景色を見ては描けるや何かを感じる力が突出していたりします。

もちろん人はそれぞれにみんな異なる力を持っているのだから同じというのはあり得ないのですが、それが偏ると余計に分からなくなるものです。そう考えると、健常児の気持ちが分からない子どもというよりも、では軽度発達しょうがいの子どもの気持ちはあなたたちに分かるのかとなるとお互いが分からないということになるはずです。

一般的には、立場が違う人が皆に理解されなかったり、大多数の平均理解と偏った考えで分かれたりと、それぞれに認識は異なるものです。

だからこそ大事なのは、お互いの歩みよりであろうとも感じます。
特に、大人は自分一人が認識されないことを過度に嫌がる傾向があります。
それは人間が社会を主軸に生きる動物だからであろうとも思います。

だからこそ論語にもこうあります。

「子曰わく、人の己を知らざることを患(うれ)えず、人を知らざることを患う。」

そう考えると、子どもが空気が読めないや認識しないや偏っていることを心配しそれの対策を立てることよりも自分がその子どもの気持ちがわかるのだろうかということの方が大切ではないかということなのです。

どうしても自分のことを分かってもらおうとすればするほどに、誤解は大きくなるのだと思います。だからこそ、そうではなく自分から如何に相手の気持ちを理解しようとした方がいいのです。

特に今のような時代は、そのお互いの歩み寄りをはぐくむためのマネージメントを必要としている気がします。

まだまだ社業で実践していきたいと思います。

 

順応

生き物は環境にあわせて順応するのは、昔から周知の事実である。しかしそれがどれくらい長い時間をかけてするものか、短い時間でするものかなどはまだはっきりと定義されていない。

特に、3つ子の魂100までなどとこの時期の子どもは一生分の学びを獲得するともいわれその成長と学びのスピードは短い時間で目に見えるほどのものになっている。しかし、その後は次第に緩やかになってきて長い時間をかけて順応していくようにも思える。

これは人間だけではなく鶏も同じく、虫も同じくまず生まれればすぐに新しい環境に順応しようとする本能が存在しているように思います。その時期に食べるもの、その時期に感じる空気、その時期に感じる環境、そこに生まれおちればすぐに順応できるのは変化になるための生き物たちの智慧であるのだと思います。

鶏でいえばヒナの時に、どのようなものを食べたか、どのような環境下だったかが一生を左右することははっきりしているようです。ヒナの時に生のお米を食べさせれば生涯胃腸は強くなるそうですが、そうでない柔らかいものだけを食べさせていれば胃腸も弱くなり固いものを食べさせるとお腹を壊すようです。

そのほか、室内の総合空調に入れてしまえば外に急に出せば体調を壊し、抗菌や予防接種などで抗生剤などを随時入れれば、いつも病気に負けやすい体になっていきます。

これはもともと強い弱いが問題ではなく、環境に順応しているともいいます。

生き物は、五感を使ってありとあらゆる神経を働かせその環境下に自分を適応しようとしていくものです。厳しい自然の中で棲んでいれば、当然神経も研ぎ澄まされ野生のような感性を身につけます。そうではなく、生ぬるい人工的な中で住んでいれば、神経は鈍り頭でっかちになるものです。

それも何かのせいではなく、順応しているともいえると思います。

人間は、文明の中で様々な工夫を凝らして今まで生き延びてきました。
如何に今の社会に調和するかは、この先を考えても大切なことです。

人であることを正しく見つめてゆっくりと自然の中に入っていこうと思います。

土中の歴史

土を掘ると何層にも堆積した歴史が土中から感じることができる。
何年もかけて降り積もってきたものが、積み重なり今がある。

ある時代は、乾季が続き、ある時代は雨季が続く、様々な気候変動にあわせて少しずつ私たちも順応しながら循環の中で共に生きてきたともいえます。

一見、何も変わっていないような一年に見えても自然は雄大な時間の流れの中でずっと大きな変化の真っただ中にあると感じるのです。それを土中の歴史に感じるのです。

そこの屍の層をよく観察すれば、長い年月で順応した我々と、また共に生きてきた動植物や菌類までみんなこの地球に生息する者同士、一様に繋がりの中で助け合いながら変化とともに今を紡いできたのだと思います。

だから自然には無駄がないのだと思います。

そして変化が大きいことを知っているからこそ、皆が共に生きることを選んだともいえ、それは自分だけでは生きられないことを自然にいるものはすべて心で自覚していたのだと思います。

人間はあまりにも大きな変化に気付けなくなったのは、文明の些細な変化といえども目先しか見ないような生活になってきているからだとも感じます。日々を忙しくし、日々の情報に一喜一憂していれば次第に雄大な変化のことなどまったく見えなくなっていきます。

そしてまた目先の順応にあわせるために科学力を使い、便利さを追い、また弱体化していくのです。本来の自然は、雄大な変化だからこそ私たち生き物も毎年少しずつ雄大になっていけるように進化してきたともいえます。

進化とは、変化することで、そして退化することでもなく、やはり順応なのです。

目先の変化のために今では即席栽培できるように種をいじり、遺伝子を操作し、環境を管理しやっていますがはたしてそれは順応とはいえるものでしょうか?

これからますます自然の雄大な変化の中で私たちがやっていることは、子ども達の弱体化ではないかと、そう思うのです。

子ども達の生きる力を引き出すのは、まさに私たち先進国といわれる文明社会の人間の正対すべき課題であると私は思います。貧富の差も、食糧危機も、何もかも、身近な足元から危機は迫ってくるものです。

常に、脚下照顧し日々の小さな気付きを大切に過ごしていこうと思います。

奇跡の歩み

33歳のとき、九州西国三十三ヵ所巡りを行った。
私の名前の由来が、第一番札所霊泉寺に由来があり発心したものです。

そしてその旅の道すがら場所場所に、種田山頭火の句が同行していました。

各地の寺院にはかつて同じく巡業したその山頭火の句集の一部を紹介していて、夏の真っ盛りの歩みの日々に穏やかで確かな歩みの気持ちを感じたものです。

静かな山林を抜けながら、心を澄ませて聴いていると風の音や水の音、葉の揺らぎや光のシャワー、夕暮れになれば蜩の鳴く声の間の静寂に様々なものが響いてきます。

「 いちにち われとわが足音を 聴きつゝ歩む 」 種田山頭火
私もこの瞬間も奇跡を味わいながら毎日毎日、一歩一歩と歩んでいく音に何が起きているのか、どこに向かっているのか、何をしたいのか、天に聴く日々。
その日々は、とても充実したものです。
頭で考えていなくても、心はすべてを見透かしているように思います。
その一つ一つの意味を感じるとき、自分がなぜ今、このような出会いに生きているのか、そしてなぜこのように生きようとするのか、その足跡を時折振り返り、踏みしめる足音に耳を傾けてみるのです。
時間というものは、有限でいつかは今のようにはしていられなくなります。
その中で、目的や目標を達するために没頭するのも大切なことなのでしょうが時より一休みし、この充実する今を味わうことも今を生きている自分を深く受け容れることに繋がっているように私は思うのです。
自然は音のない音を奏でてくれます。
そして、心は音のない音で響かせてくれています。
「われ今も、この奇跡の音、感じつつ」 藍杜静海
いつまでも自然の一部であることを忘れないで生き切っていきます。

 

約束を守る

何かに取り組むとき、もっとも強大な敵は何かといえば心の中にある。
外の敵を破るのは、何とかなるけれどその敵とは本来自分の中にあるものです。

何かを決めたことがあったとしても、それを守れないのは自分が先に負けるからです。そして外の的に勝てるのは結果として自分に克ったからにほかなりません。

人は何かを成し遂げるには、自分の中にある敵に打ち克ちやり遂げたときに結果的に外側の世界で勝利を得たともいえるとも思います。

王陽明に「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し。」があります。

これも同じ意味で、何かをできない原因はすべてこの心の敵に負けているからともいえるのです。

そしてその敵に負ける最大の理由は何かといえば、自分を信じられなくなるからです。そして自分を信じられなくなるもっとも根源的な原因は自分との約束を自分で守ってあげることができないからです。

一番身近にいて、一番自分を助けてくれる最大の支援者で理解者である自分を裏切ってしまっていては何かを信じることはできません。

自分が信頼しているパートナーへの信頼とは、外側で一緒に何かを取り組むパートナーへの信頼とも同じなのです。いくら、外側で信頼しているとメッセージを送ったり表面上はあわせたとしても、自分の信頼を裏切っている人では外から本当に信頼されるはずはありません。

自分を大切にするというのは、自分を甘やかすことではなく、自分との約束を守ってあげることで自分を信じることだと思います。

人間は弱いもので、そんなにいつも勝てるわけではありません。それでも強い意志で戦っていく、勝負する、克つのだという信念があるからできない原因がなくなるのです。

何かをやるにはできるようにならないといけません。
そしてそれは、何が何でも約束を守る、目標を達するとの決心なのです。

私もまだまだ自分に克てていないこともたくさんあります、全てを一度受け容れてゼロになりまずは自らとの戦いに挑み打ち克ち世の中に貢献の輪を広げていこうと思います。

確乎不抜の志

いつも思うのだけれど、何かを遣り切るということは何にもまして大切なことであろうと思います。よく負け癖などといったものや、最初から何もせずに諦めてしまうというのは、途中で止めてしまうからだと思います。日々の継続というものも、なぜ初心を忘れるのか、なぜやめてしまうのかと思うのです。

他人から言われたから何かを遣るというのがあります、しかしそれは自分が決めたから遣ることになっているはずなのにそれを言い訳にしてしまえば逃げることを用意しながら進むということになるのです。

自分で決めないというのは確かに楽な方法です。
自分で決めたことでなければ、何かがあれば何かのせいにできるからです。

しかし自分で決めたのならば言い訳はできません。
そう考えると、やっぱりこう思うのです。

負け癖というのものの最も善くないこととは、途中で諦めるということに他ならない。
正確には負け癖ではなく、自分が遣り切ることをしなくなること。
つまりは、自分を信じる事ができなくなる癖であるのです。

人間は何かに取り組む時、強烈な意志の力で例えこの身が砕けようともといった徹頭徹尾、貫徹完遂するかは大事なところです。

その最初の思いが強ければ強いほど、発奮奮起し何が何でもという気概が生まれます。
そしてこれを確乎不抜の志とも言います。

それがない人では、決して何かを成し遂げることはできないのです。

易経に、「初九に曰く、潜龍用いることなかれとは、何のいいぞや。子曰く、龍徳ありて隠れたる者なり。世にかえず、名を成さず、世をのがれてうれうことなく、是とせられずしてうれうることなし。楽しむ時はすなわちこれを行ない、憂うる時はすなわちこれをさる。確乎としてそれ抜くべからざるは、潜龍なり」

とあります。

一体何が足りていないのか、答えは明白なのです。現実を正しく受け容れるたびに初心から省みて自らの志に浩然の気を纏い、至誠の檄を飛ばしていこうと思います。