自然治癒の本質

自然治癒について深めてみる機会がありました。

もともと自然治癒というものは、自分の中から治っていくという感覚で病気が平癒していくことを言います。これは、薬が身体を治すのではなく身体が自分を治すことを薬が支援するというようにもともとは自分の身体の方からの免疫によって自助し回復するということです。

一般的には、身体が苦しい時や辛い時は、頭で考えると治っているようには感じないものです。なので苦しい時や辛い時は、外発的に治療しようと薬や対処療法を試したくなるものです。

しかし本来の自然治癒が働くときは、実際は苦しい時や辛い時、痛い時、シンドイ時にこそ働いていると実感するのです。これは、内発的に自分の内部から外部へと排出しようとしたり自分の力を使って怪我や病に打ち克とうとしている証でもあるからです。

つまりは感情というものは起きている出来事に対して働くのに対し、心身は自然に合わせて働いているということです。これは、心臓や脈、呼吸、体温など自然に身体を順応していくのに対して、感情はその出来事からその身体を順応させているのです。

言い換えれば、身体をコントロールする機関に情と心がありそれが交互に交代しながらバランスを取り一つの生身の身体を操作しているともいうのです。不思議な事実ですが、この調和と不調和とはこの情と心との協働により左右されているのです。

そして自然治癒とは、本来、心身の大調和によって成り立っているものです。

この心身の大調和とは、情と心が互いに協力して自然の場所を観出しその場所に止まることで平癒安心の境地に辿りつくことのように思います。これは例えれば、身体が求める治癒に対して感情もそこに合わせてあげること。そして感情が求める治癒に対して身体もそこに合わせてあげることに似ています。

統合医療の本質とは、きっと以上のようなもので情と心の協働をどのように融和していくかにその技術の鍵があるように思います。

苦しいから楽を選ぶのではなく、苦しいからこそ楽しい方を選んでいく生き方。辛く悲しいからこそ無難を選ぶのではなく、辛く悲しいからこそ有難を選んで感謝すること。こういうひとつひとつの出来事に対して内外の学びがあり、その学びを自分の体験に昇華することで人は成長という掛け替えのないものを得ているのです。

転じるということは、この大調和に換えたということに他なりません。
そしてこれが自然治癒の本質です。

外側と内側のバランスを保つために、常に人間は大調和のために努力精進していかなければなりません。それが生きる死ぬを知る者、つまりは大往生する人間の業だからです。

出来事に感謝、病気に感謝、偏りに感謝できるよう、バランスが崩れているところの声を聴き、受け容れ治癒に換えて学問がある歓びに大感謝していきたいと思います。

優先内省

久しぶりに体調を崩しながら健康の有難さを実感しています。

色々なことが同時に重なると、一つ一つの判断基準が微妙にズレていくものです。具体的には同時に全部をやろうと欲張るとその分無理が生じてきます。身体の緊張もそうですが、無駄な力が入ってしまうとその分疲労も蓄積します。

力の抜き加減や緊張を融和するような自分の状況や状態をどれだけ冷静に観察するかは、自我との折り合いにもよるものだろうと思います。それだけバランスを保つというのは、自分の内面と外面の調和を意識している自分を持っていないと難しいと思うのです。

東洋医学に内因と外因というものがあります。

内因とはその人の持つ体質のことで東洋医学では主に精神面を重視しています。「喜・怒・憂・思・悲・恐・驚」これを七情と呼んで感情が体に影響を与えると考えています。七情はそれぞれ特定の臓器と関連しています。喜は心、怒は肝、憂は肺、思は脾、悲は肺、恐・驚は腎となります。

外因とは体の外から侵入してくるもののことです。主に気候の変化によるもので「風・寒・暑・湿・燥・火」に分類して、これを「六淫」、「六邪」、「外邪」と呼んでいます。その他には、不内外因といい暴飲暴食や疲労、外傷などによります。

これは全体を観察するときの原因を突き止めるために行う東洋の智慧ですが、確かに心身と感情、気候も出来事もすべては元々複合的に絡み合っているのが日常であるからです。何もない今などもなく、常に万物変化し已まないのだから体調もまた刻々と全体にあわせて管理しているともいえるのです。

このように今を観て全体の調和を考えず、一方だけの考え方に偏れば傲慢になり、その分の無理が生じれば、その歪としてその無理の原因としての結果が訪れます。

これは身体だけのことではありません。自分の考えだけに固執し、それぞれの人達が話すそれぞれの考えもまた同時に正しいと思う時、全体の調和がとれ、優先するものが確信してきます。しかし意固地になり、謙虚さを失い、自分だけが正しいと思い込めば周りの人たちの話を聴かなくなり優先順位も定めることができなくなるのです。

何を優先することがもっとも全体にとっていいかは、自我を優先しないことを考えているということにつながります。信じる力が弱ってくると自我が出てきて判断が歪んできます。信じる力とは健康な時に満ちるのは、健康とは全ての因を福や善として捉えることができる状態のことを言うからです。

病とは、判断基準にとても大きな影響力を与えています。

病を転じて福にしていくことこそが、心身ともに調和しているともいうのです。

優先していくことを考えることは、信じているかどうかを内省することに等しいように思います。この病からも学び、体験から悟り、それを同じ苦しみを持つ人たちへの御役に立てたいと思います。

真理と刷り込み

人間というものは、真理を知っているからと人生が変われるわけではありません。人生を変えようとするならば、自分の中にある刷り込みを取り除くことが何よりも先であるのです。

その刷り込みとは、知らずしらずにうちに自分の中では正しいと思い込んでいるもののことです。

例えば、過去に誰かから教えられたことを鵜呑みにして何かを怖いと思っていたらいくらそれが安全な事であってもその人にとっては危険なものであり、何かを判断する際、自動でその選択肢から危険を避けようとして判断が歪んでしまうのです。

判断の歪みというものは自分では気づくことができず、歪みはいつまでも変わることはありません。その歪みは自分では間違っていないと思い込んでいるのですから、いくらそれを指摘しても気づかないという仕組みになっているからです。

ただどうしても前に進もうとするときや、それを避けては通れないときがあるのです。

それはどのような時かといえば、人生を変えたいと強く願う時のように思うのです。

自分ではこれだけやっているのになぜか前に進まないときや、壁を乗り越えられないとき、もしくはどうしてもうまくいかないと思う時、それは実は人生を変える時だということです。

人生を変えるには、自分と向き合わなければならず、その時は、自分の持っている大前提の刷り込みと正面から正対しなければなりません。それは鏡で自分のありのままを直視するように、もしくは誰かから指摘されたことを素直に聴き入れるように、あるがままの姿が何かを受け容れる必要があるのです。

つまりまず刷り込みに気づくということが最初の難関なのです。

この最初の難関は、素直でなければ超えられません。今までの常識や先入観を疑うのですから、真実に気づくためには自分の都合が入ってはならないのです。真実がいくら身近にあっても人が変わらないのは刷り込みが取り除けないからです。

これだけ先覚者たちが言霊や遺志を遺してくださっていても人間が変われないのは私は刷り込みによるものだと確信しているのです。そして人生が変わるのは、刷り込みに気づいてそれに打ち克つことが全てであると信じているのです。

悔しい思いも、悲しい思いも、辛い思いも、すべては素直へと通じる一本道です。
身近な人の死が改めて教えてくれたのは、刷り込みに向き合う尊さでした。

最後に、御礼参りに伺った祐徳神社のご縁にて素敵な文章をいただきました。

素直になれば、態度が変わる 
 態度が変われば、行動が変わる 
  行動が変われば、習慣が変わる
   習慣が変われば、運命が変わる
運命が変われば 人生が変わる 

もうずっと前から本当のことは分かっているのです。
みんな本当はずっと前から変わりたいということは分かっているのです。

それを変えてあげるお手伝いをしたいと願っていても、変われないことばかりです。

そんな時は、いつも魂が疼き、この刷り込みに打ち克つ真の強さが欲しいと願ってなりません。人間の未来のためにも、真の伝道のためにも、正面から刷り込みを取り除く仕事にいのちを懸けていきたいと思います。子どもたちには子どもの姿を保障する私たちの刷り込みのない存在が、先祖伝来の宝をそのままに引き継ぐことになるのです。

そして学ぶべき至善の真理は、生身の実生活にしてこそ本来の真理です。

現実の真っ只中にあるこの今こそが真理です。
ご縁と教えに感謝いたします。

 

先入観の知識

人間の脳は、すぐに目に映るものを仕分けていくものです。

例えば、携帯でもパソコンでも、食べ物や洋服でも、目に入ったものを自分の中で認識したものに仕分けていくものです。もっと簡単に言えば、こういうものだろうという自分の中の知識を加工し自らの世界にしているともいえます。

もしも加工をするのをやめてみれば、どんなことにも好奇な関心を持ってそのものの本質を知りたいとドキドキワクワクしながら学んでいる人には世界は不思議で満ちたものになるはずです。

あの朝の太陽の眩しさ、夜の月の霊妙さ、地球の活動の尊大さなども日々の中で観過ごすことなく味わい尽くしていくようにも思うのです。

確かに私達の知識の加工はパターン化するのに便利ですぐに役立つとも思いますがその反面、知識があるからそのままを丸ごと受け取る感性が鈍り、最大から最小までの全てを丸ごと味わうことが難しくなってくるように思うのです。知識一辺倒で体験をあまり重視されない優等生がうける教育ばかりを受けてくると、元来生まれる前から備わっている感受性というものやそこからの冒険心などが育ちにくくなるのです。

本来は、まずやりたいことから取り組んでいる時や、もしくはその後に味わっていると余計な知識がそぎ落とされていくのです。私たちの今は、体験しなくても知識で先に体験したかのような錯覚を持ってしまうものです。

それが不安や恐怖になったりして、先に結果を知るからこそ動けなくなるものです。

本来は、結果など分からないのだから思い切って飛び込んでみてそのあとにあれは一体何だったのかと深めながら得ていくものが知識です。それは、その意味をより深く感じ、そこから何につながっているのか、この体験はどれだけ貴重なものだったかと奥から引き出してくるときに必要なのが知識であったのです。

知識を優先して無二の体験をしないとなると、せっかく生まれてきたのに大変勿体ないことだろうと思います。無難を選ぶのではなく、有難の中に本物の自分の人生があると信じることが日々を楽しみ味わい尽くして自分のいのちを遣い切っていくようにも思います。

体験したものは、全て血となり肉となり、いつまでも自分の中に生き続けます。
先入観の知識にとらわれず、新しい境地へと挑戦していきたいと思います。

縁愛8

ドイツ研修も最終日を迎え、日本へと帰国しています。

世界に視察に行けばいくほどに、自分は日本人として今を生きているかを向き合う機会に恵まれます。かんながらの道を歩もうと決めていますが、日本人としての奥深さはまだまだ計り知れないものがあります。

勿体ないも有難いも、結びも御蔭様も、またまたお天道様の見守りも、先祖代々から脈々と流れて受け継いできた日本人としての心がいつも自分の中に連綿と生きています。それをどう今の時代に置き換えて日本人の自分らしくを貫いて子どもたちに継承するかは私の生きざまによるもののように思います。

日本人らしく生きることは、自分らしく歩んだ先人たちと道を共にすることかもしれません。自分らしさというのは、自分の中に連綿と存在しているものを引き出していくことだと思います。

有難いことに世界に出ればでるほどに、私の日本人としての自分に襟を正し内省します。先人たちに恥ずかしくないよう、これからも精進していきたいという決意を新たにした旅になりました。

今回は人間愛をテーマに様々に深めてきましたが、今回のもので一区切りとします。

シンプルに言えば、これは一期一会を生きるということです。またそれを言い換えればそれは縁を愛するということに他なりません。一つひとつ、出愛の全てを大切にしていくことが人間愛を顕現させることだからです。

私は今のような時代だからこそ、人との縁を愛することを選んでいきたいと思うのです。それは誰に対しても、どのような境遇の人にとっても、人種が異なっても、価値観が偏っていても、それでもそういうものを乗り越えて「ご縁」であると信念を持って生き切ること。

こういうご縁という思想が、私には人間愛に思えてならないのです。

そして平和を愛する心とは、ご縁を大切にする心です。

「世界の輪 結ぶご縁は 愛の糸 光り輝く 星々となる」 藍杜静海

一期一会に生きる中に愛は永遠にひかり続けています。

縁愛7

ドイツ研修も6日目を迎え、今年も無事に学びが実る体験を新しい方々と一緒にできたことに幸せを感じています。

今まで見ず知らずの人達が、同じ目的のために一同に集まり共に学び共に遊ぶ、まさに保育というものは自分の使命を遣り切っているときにこそ最も身近に感じられるものなのかもしれません。

人間は動機がいつも誰かへ向けられた思いやりや優しさ、そして貢献によるものから発せられるものであるならば、その遣りたいと思ったことはきっと使命によるものです。自分が誰かのために生きていると実感することは、そこに愛があることを確信しているからかもしれません。愛は愛されるよりも愛することというように、自我に呑まれて愛される側を望むよりも、自我と調和し愛する側で愛を弛まず実践し尽くすとき、其処に必ず誰もが求めた愛の姿が顕現します。

いつも先人の道の足跡を辿ってみれば、そこには全てがなくなっているはずのその人が遺したものがいつまでも私たちの心の中に残っています。会ったこともない、話したこともないその人の存在がなぜか自分の中にあるというのは愛があることの証明なのです。

人は人のカタチがなくなるとき、愛が出てきます。つまり、生きている生身の人間の要素が消えたとき、自分のかけている色眼鏡が物体を捉えることができなくなり、なくなったはずのその人の残り香から真心や愛が永遠に香ってくるのを実感するのです。そしてその香りに引き寄せられ、その人の愛を確かめることでいつまでも人間の中に愛が存在していることを思い出すのです。

そういう愛の香りを持つ人々は、いのちを与えられた以上に尊くいのちを遣い切り、人間を誰よりも愛した実践を生き方で示した人たちばかりです。

今まで隠れたものが出てくるというのが出愛です。

それは私たちが表面の自我で接してその人たちのことを認識しているばかりを見るのではなく、本来のその人の中にある純粋な心に触れることで愛を観出すことができるからです。その純粋な心の中に、出会ったこともない人たちとの出愛があるのです。

この出愛とは、どこか愛を結ばれた感覚を持っているのです。生まれた瞬間から私たちは、偉大な愛に活かされているのを自分の心は知っています。その愛があるから、人は自分も他人をも愛することができるように思うのです。

つながりや絆、そういう結び目に出愛がありそのご縁で人はさらなる愛のカタチをこの世の中に顕していきたいのです。それが生きるということ、死ぬということであろうと思います。

私が子どもを愛しているのは、親心が好きなのかもしれません。その親心の傍にいる子どもたちを観ていたらいつも愛は私たちが生存する限り存在するのだと確信するからです。

また今日も子どもたちのように、今を生き切り、新たな人間に出会っていきたいと思います。

一期一会

縁愛6

ドイツ視察研修の5日目になりました。

これで続けて訪問して3年目になりますが、藤森先生の変わらぬ姿に改めて学び直すことばかりです。参加者への思いやりはまったくブレず、そして社会や世の中の変化に対しては柔軟に変化し続けるということ。

不易と流行というものは、どちらも思いやりがあれば順応できるものだと、保育の初心を実感することができました。その見守りの姿勢に、発達を助長するのではなく、発達を援助するのではなく、発達を保つという全く異なる次元からの目線、これを保育であると定義していること。

この保つという字には、どこか見守るという意味が深くその字に籠められている気がします。どれだけ純粋に学べるかというのは、自分を謙虚に磨き上げていく学問の楽しさを知っている人であろうと思います。

一つの単語の行間にあるその哲学を、東西の垣根を超えて学び直しています。

さて、人間愛がテーマでいよいよ終盤に入りました。

人間は、一人で生きているのならば自分の価値観の中だけで世界を観て世界がそういうものだと思い込んでいることもできるものです。しかし、それでは世界にはもっと美しいものがあったり、もっと楽しいものがあること、そういう真の豊かさに気づけないで道が途絶えてしまうような感覚を持つこともあるかもしれません。

信じてきたものが何か自分の中にある先入観によって得られないという感覚に似ているように思います。そういう時、その自分の知らなかった世界を持つ人を直観的に感じ取ることができるのもまた愛だろうと思うのです。

例えば、真実を知ろうとすれば自分に都合の悪いことがあるかもしれません。もしかすると、自分を変えたくないと思っている壁が立ちはだかるかもしれません。しかし、それでもそれを乗り越えた先に大きなものがあると信じるのが好奇心であろうと思います。

つまり愛とは一人で完結するものではなく、二人以上の人達によってはじめて完熟していくように思うのです。つながりや結びつきの間にあるものが愛であり、その愛のカタチを御互いに円熟させていくために他人は愛し合うように思うのです。

まるで円い中で失った欠片を探し当てていくように異なりを求めあい、多くの人達との出逢いのご縁を通じて愛の色を渾然と染めていくかのようにです。

お互いの大切なもの、大事にしていきたいものが一つではなく二つ以上ある絆の場所に愛は存在しているのかもしれません、自分の過去を振り返ってみても、愛を教えてもらったのはみんなお互いの大切なことを交換しあって絆した結び目にあるように思えます。

縁と愛とは、人間が出会う中のことであります。
出会いを大切に、一日一日を過ごしていくことこそが愛に触れていくことなのでしょう。

出会いの中に偉大な愛はいつも生きています。

縁愛5

ドイツに来て4日目になりますが、天候に恵まれ美しい景色の中で森の学童保育所を視察してきました。森の中に入ると、自然に子ども心が顕われてくるのはそこに自然を感知する感覚が生きているからかもしれません。

都市化されている社会の中で、大切な感覚を陶冶していくというのはそれまで私たちが自然に行っていた自然の中での営みを忘れないためにあるのかもしれません。脳が優先されているような都市社会では本来の当たり前にあるそれぞれの役割を忘れてしまうのかもしれません。

森の中の木々一つ、松ぼっくりの実の一つひとつに、その役割があることを学ぶのかもしれません。人間愛のテーマの中に、つながりを書きましたがここに役割というものがあることを書いてみます。

マザーテレサにこういう言葉があります。「世の中で誰かに必要とされているという意識です。見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです。」

愛というものの定義に、自分が必要とされているという実感というものがあります。何か大切な役割があるとその人が思えるならこの世に存在していいという偉大な自然の愛を実感できるように思います。つまりそれがつながりの中にいることを実感できるという意味です。

人は誰かの御役に立てるということほど、自分が必要とされているという実感を得られることはありません。つい、今の社会では自分の都合ばかりで自分が必要とされている有難さに感謝する機会が少ないように思います。

物が溢れ、自分のものであることを当たり前だと勘違いすることから愛が不足していくように思います。愛の不足とは、この物との関係にとても深い因縁があり、自分の物とするところからそれまで私たちがお互いの関わりやつながり、役割を感じて愛し合っていたことを忘れさせていくものだからです。

人間というものは、分かち合い、助け合い、御互いを必要だと実感できることで愛がある中に生きていることを実感できるように思います。こんな自分でも生きていいのかという問いに対し、自分のままでいいから生きてほしいと願う思いやりの中に愛は活きています。

私たちがもともと使っている「有難う」という言葉も、本来はそういうひとつひとつのお役目を天からいただいていることに対して使っていた言霊のように思います。それが人間都合の物が溢れたことで大切に使い切ろうということではなく、その場その場でゴミを捨てるように使いだしたことからその役割がもともとなかったのように意識が変わっていったのかもしれません。

今の時代は何度も何度も有難うという言葉を使わないとお役目に気づく感性は伸びていかないのかもしれません。愛もまた不足するのは、本来、ないものねだりではなくあるものを探してあるものを大切にしていこうとする中に育つからかもしれません。

身近なところから愛の実践をしていくのは、御互いを必要とする関係に幸せを実感し、その役目があることに感謝していくことのように思います。

最後に今日もガンジーの言葉で締めくくります。

「この地上の理不尽に目をつぶることなく、愛ある行いを実践しようとする人がいる限り、わたしたちはそれに続かなくてはならない。」

愛ある実践は、子どもの中に備わっています。
子どもの自然な行い、その宝を見出す感性の中に愛の偉大な可能性が観えてきます。

保育を学んでいくことは、愛を育てていくことかもしれません。

縁愛4

ドイツに来て3日目が過ぎました。

昨日も、子どもたちの発達から活動を工夫する様々なアイデアを現場で確認することができました。子どもたちがやりたいことを邪魔しないというのは、子どもを信じ、子どもが育とうとすることを受容することにつながっています。

人は自分がやりたいと思うことを認めてくれることほど信じられているという実感を持てることはないようにも思います。私も今でも、誰が何と言おうとも自分の内面の直観の声に従い、それが後で意味があったと実感するとき偉大な見守りをいつも感じています。

信じるということは、その人の遣りたいこと、その使命を丸ごと認めることだと思います。世界を変える道もまた、子どもを信じるところにあるのです。

さて、サブテーマの人間愛もいよいよ深まってきました。

人間は愛を試されるとき、そこには自分がされたくないことを他人にしたときに実感したりするものです。もしくは自分がされたいことをされたいこと以上にしてくれる人と出会ったときにも感動し実感できるように思います。

そうして愛を確かめては、何を愛し、何を守るかということを学んでいくのです。人は自分の大切にしているものをそれぞれ持っています。特にそれは物だけではなく、その心にもこれだけは守りたいと思っているものがあるのです。

それが例えば、友の道であったり、親子の道、家族の道、つまりは連綿と受け継いできた美しい心の顕われの行為になるのかもしれません。子どもはそれを誰が教えなくても自然に身に着けていて、自分たちの大切にしたいことがあれば何よりもそれを優先し守ろうとします。

大人になって、それができなくなるのは社会や周辺の大人の影響を受けて守りたいことを諦めるからかもしれません。そういうものを諦めない大人たちが子どもたちを守ることができるとき、愛は受け継がれていくのかもしれません。

私の師も、平常は優しい懐の大きな存在ですが背中の後ろに守りたいものがあるとき不動明王のように烈火の如き炎で立ちはだかり子どもたちを守ります。私はそこも大変尊敬していて、憧れ、いつの日か自分も守りたいものを守れる真の強さを持ちたいと思ったのです。

愛とは、つまり守りたいもののことを言うのかもしれません。

ガンジーにこういう言葉が残っています。

「死と引き換えに、愛する誰かを守った人は、完全なる愛を成就した人だ」

自分よりも大切なものがあるという至上の役割がある幸せ、そこには決して揺るがない信念とつながりが自分を守る。そのために自分をこれ以上なく遣り切り実践し尽くした生涯を送れるならその人は愛に包まれた最上の人生を歩んだといっていいかもしれません。

人間の世に生まれ愛を知ることは、自分が大切にしてきた守るものを知る事なのでしょう。
日々は愛の中にあることを知り、より強く愛していきたいと思います。

縁愛3

ドイツに来て2日目になりますが、子どもの姿はどこでも普遍的で様々な運命に生まれてくる子どもがいますが自然の愛を一杯に感じて生きようとしているように思います。

今回はテーマを人間愛にしたので、なかなか現実の視察とは話をつなげていくことが難しいのですが新たな視点から東西の垣根を超えて物事の共通点を観察しています。

もともと人間というものは、生まれる前から自然の中にある愛のようなものを実感しているように思います。例えば、生まれてきたらすぐに親を頼るように、また自分は生きていいと信じているように、この世に出てくる瞬間から私たちは信じるという活力の中で生きています。

これは動植物でも同じですが、種から芽が出るのもそれは本来いのちというものはこの世の中で自分が助けてもらえるという存在、そして誰かを助ける存在であることを無意識に知覚しているように思うのです。

先日、子猫や雛が生まれましたがどのいのちの子どもたちも如何に世界を信じて安心し、その心姿の顕われとして「遊ぶ」その様子を観た時、活きるという信じる力、その行為は全て遊びの中に詰まっているのを実感したのです。

この遊びというものは、自然の愛を表現している人間愛の姿でもあり、遊びを通じて私たちは心の安らぎというものを実感し、生きている歓び、活きられる幸せを確かめていくように思います。

これは大人になろうがなるまえが、皆が楽しく一緒に遊ぶ姿の中にはどこか昔から信じていたはずだった愛を確認していることに似ていると私は思うのです。私がアクティビティを行う理由もまた、遊ぶ中に信を思い出し、その信の表明を全員で確認するために用いるのです。

人間というものは、何をもって遊びだと定義するかは安心した時に自然に湧き上がってくるいのちへの友愛の情、万物全てが一緒に遊んでいいとした存在の妙義に気づくときに愛を確かめるのかもしれません。

そういう遊びの中でつながっている自然の愛との邂逅が、私たちに人間愛とは何かを教えてくれるのかもしれません。子どもは、いつも心が遊んでいるのはいつも内なる自然の愛に応えていこうとした働きがあるからのように思います。

最後にガンジーの言葉です。

「人類が絶えず愛の法則と共にあったかなど、私は知らない。
だが、そんなものは私の障害とはならない。
愛の法則はまるで重力の法則のようなものである。
我々が認めるかどうかなどは関係ない。
愛の法則を真に知る者は、今日の如何なる科学者よりも偉大な学者である。
多くは十分なる探求がなされぬ故に、あらゆるものに愛の法則が働くことを理解できないだけなのだ。」

あって当たり前のものこそ、観えなくなっているように思います。ドイツにいても日本にいても、私たちはお互いの中にある尊敬を見出していく必要を感じます。自分の思い込みを超えて、子どもの姿からまた引き続き愛を学んでいこうと思います。