自然の仕組み

人間は学ぼうとすればどこからでも学べます。道を極めようと精進する中で、道の奥深さや道の弘がりの楽しさを知ってしまえば人は学ぶことを已めません。学ぶことは生きることですが、生きることは道を歩むことであろうとも思います。

最近、ある発見をしたのですが人間はウィルスに感染して体調を壊すことで風邪をひきます。そもそも私たちの身体はミクロの世界の集積で存在できているといっても過言ではありません。

腸内細菌から皮膚の常在菌といった菌類から、もっと小さな各種のウイルスが私たちの身体に宿っています。この宿る仕組みにも自然が入っているのが自明します。

一般的にウイルスが身体に侵入すれば、そこから一気に増殖していきます。それを退治するために免疫細胞が働きウィルスをやっつけては追い出そうと熱をだし、体の隅々までフル稼働して崩れたバランスを取り戻すために自然治癒を行います。

この時、それでも増殖をしようとするウィルスは消滅しますが宿主と共生しようとするウィルスは残ります。言い換えれば、宿主を破壊しようとするウィルスは次第に数が減少し、宿主と共生して種を遺そうと選択したウィルスはそのままそこに残り宿主を守る側として生き残るのです。

つまりは風邪をひけば免疫がつくと科学では証明されていますが、実際はウィルスも変異し一緒に共生し貢献する方を選択するのです。

これは自然の法理の一つです。

自然界では、様々な生き物が温度や湿度によって大量発生したりまた激減したりを繰り返します。微細なバランスの中で、ある一定の数が行き来するのです。これは種を遺すためのそれぞれの生命の戦略であり、それらの生命が地球に宿りつづけるために繰り返される自然の仕組みでもあるのです。

人間から見れば、守るとか守らないとかは人間のみを中心に考えているものですが自然界ではバランスを守ろうとします。そうやってそれぞれが発生しているのには、バランスを守ろうとするための大切な働きがあってのことです。

ここから考えてみればすぐにわかりますが、自然に沿っているかどうか、自然に自らが近づいて共生するかどうかは、ウィルスと同じく自らで選べます。いつまでも増殖を続けていけばそのうち天敵により減退していきます。増殖よりも共生を選べば少しでも長く宿主のお役に立ちながらともに生きながらえることもできるのです。

これは地球を宿主と見立てた時に、それぞれの生き物たちがどのようにしているかを観れば仕組みは一目瞭然です。太古の人間たちもその生き物たちの仕組みに外れないように共生を優先しその自然の仕組みを生活に取り入れていたのです。

欲に塗れて増えすぎていたらどうなるのか、私たちは自然から学び直さなければなりません。

このように種の保存というものは、身近な自分の身体(自然)の中からも学び直せるものです。ミクロの体験からマクロの体験までバランスよく味わっていきたいと思います。

和合

自然界のすべての生き物を見ていると、脳の習慣とは別に本能で習慣化するという機能を持ち合わせているのに気づきます。

たとえば、動物でも昆虫でも同じですが生活のパターンがある程度決まってくるとその通りに生活しようとするのです。それはその場の環境に合わせて、気候や季節によって変化するのですから同じパターンでも変化を感じる力を本能は見失うことはありません。

これは習慣の力で同じことを繰り返す力と、変化に順応する力の両方をバランスよく活かしているともいえます。私にすれば、顕在意識で日々の習慣化を行い、潜在意識で日々の習慣化を同時に行う。つまりは、判断と本能によって常に自分をあるべきようにするのが自然の持つ和合の姿なのかもしれません。

これらの和合が邪魔されるのは、どちらかに偏るときのように思います。変化のみを追い求めて、日々の実践を怠ったり、日々の実践が慣れてしまいマンネリ化したということが起きることで肝心の和合ができません。

何かを実践するのには、心を籠めてから判断をするという順番が大切なことのように思います。自然に合致し、自然の運行と和合する生き物というものはこの真心と謙虚であるという法理から離れることがありません。

天の運行は真心ですから、真心にそって生きていきながらも、自分の我がありますから謙虚であることでいのちにそって正直でいられるのでしょう。

かんながらの道には、和合というものがつきものです。

自然であるというものは決して環境にただ自然が多いことを言うのではなく、本来の宇宙や地球の姿そのものの真心であるということだと思います。それは自分という一部がどれだけ全体の中にいるかを忘れないということです。

主体性というものも独立自尊というものもそういう状態ができて生きてきます。

社會の通念に流されて自分を見失わないように日々和合を大切に変化順応を楽しんでいきたいと思います。

本業の本質

昨日、自然農の田んぼの田植えを無事に終えることができました。お思い返せば3年前の震災を機に、様々な出来事を体験し、これを必ず善いことに転換するのだと覚悟を決めてから開始した実践の一つでした。

如何に人間が自分たちの都合で社會をつくっているか、本来の自然からかけ離れた発想の中で暮らしているか、その先にあの原発や歪んだ欺瞞が存在するのか、そういうものが子どもたちにどう残っていくのかを向き合ったのです。

先日もある方から、私が楽しそうで自然農の実践も続くので「本業ではなくて遊びだから続くんでしょ」と言われましたがその時はそうなのかなと思いましたが初心を思い返せば「生き方と働き方が本業だからこそ遊んでいる」のかもしれません。

私は少し変わっているタイプのようで、自分でも自分のことがよく分かっていないことがあります。自然のことは大好きですし、田植えだけではなくその周囲の虫たちや生き物たちに囲まれて自由に遊んでいるのをご一緒するのは心が幸福を感じます。

しかし何のためこれらをするのかというのは、遊びではない「本気」の志もまたあるのです。

他人からどんなふうに思われていても、私の中には「子ども第一主義」が息づいており、そこがあるから挑戦も改善も已まないのです。人はそれぞれに自分の物差しがあるのでしょうが、理念に合わせていけば周りから見れば変だと思えることでも合点がいくのです。

理念や信念がある人が変人に見えるのは、それは一般的な社会通念に合わせて生きているのではなく、その人には譲れないものがあるということです。そして生活は普段通りに暮らして周りに気を使って快活でもある一線には不退転の決意が存在しているのでしょう。

人間は守りたいものがあるとき、傷つくことをも恐れなくなるのかもしれません。

挑戦は常にその初心によって助けられながら前進していくものです。何かをしたから本業なのではなく、どうありたいかが本業の本質なのです。

初心を忘れたなれ合いでは何かをした気になってしまうのかもしれません、畏れ慎みたいと思います。常に色々な人たちの言葉は自分の初心を思い出すための助言だとして素直に正直に謙虚な心で自戒していける自分でありたいと思います。

誰かを思いやりはじめたことは常に感謝の中にいるのですから怠らず勤めていきたいと思います。

偉大な存在の一部

自然を相手にしていると、如何に自分が小さな存在であるのかを実感します。

土を耕し、作物の種を蒔き、育てていても自分が何かをしたからそうなるというよりも自然がそのものを育て活かしていくのに感謝していくことしかできません。自分がいくら何かをして動かした気になったとしても、それは周りの環境がまずあってできるということです。

人間には自分の価値観がありますから、自分が思っているような世界を自分が生きているのは誰にせよ同じことです。しかし、その価値観がどうなっているか、自分の思い通りにしようとしていないかということはメンテナンスがいるように思います。

思い通りにしようとすればするほどに、如何に天に見守られ自然に活かされているかを忘れてしまうからです。

自分だけが大きな存在だと勘違いしたり、自分が分を弁えずに傲慢になったなら、何でも中心は自分の判断基準を最上だと思い違いをします。自分が見ている世界など、ほんの目先の小さなものであることに気づけないということが可能性を狭めていくのかもしれません。

世界を広く観るというのは、自分から見た世界を最上とするのではなく、何か偉大なものによって自分が存在させてもらっているつながりの中にいて観るということなのでしょう。

つながりというものは、片時も自分から離れません。そしてその偉大な羅網のような網目の中に自分が存在していて無限の宇宙のように広い世界を体験するのです。

そして何もしていなくても与えてくださっている存在に気づくことで、自分がやっているのではなく、自分にさせていただけるのだということにも同時に気づきます。つい遣っている気になりますが、本当の有難さというものはこのような体験をさせていただけている不思議をいつも与えてくださる大きな存在のことでしょう。

自分が小さな存在というものは、だからといって卑屈になるという意味ではありません。大きな存在の中にある小さな存在の自分が、何より偉大な存在の一部であるということです。

だからこそ自分を大切に、自分の一つ一つの生き方をつながりを中に置いていきたいと思います。

ご縁に活かされる

人生というものを振り返ってみると、様々なご縁に導かれて今の自分がいることがわかります。

そのご縁は、人間だけではなく様々な事物や時間、場所に留まらずありとあらゆるいのちとの邂逅によって得られています。これは自分で選んだようで自分で選んだようでもなく、自然の流れの中で自らがそれに気づき、それによって発達しているようでもあります。

世界では産まれた時代や生まれた場所で、様々な人生を送ります。それがどのようなものであるのかはその人にしかわからず、ある時はその悲惨な人生を知り悲しく涙を流し、ある時はその栄光に満ちた人生を羨み祝福をしたりもします。

しかし実際の自分の人生を思うとき、自分に与えられた道が一体なんであるのか、なぜこれらのことが自分の身の上に起きるのかと考えると、意味というものはつながっていて、その意味をたった一人の自分がひも解くことが何よりも大切であることを自覚するのです。

何も考えなくても生きられるようにできていますし、どれだけ考えても生きられないこともあります。人生とはまるで、大河の中に浮いている葉っぱのようでもありますがその道中がどのようになるのか人事は尽くしても天にお任せしていくしかないのでしょう。

先日、「遠野馬物語」(高草操著)里文出版の冒頭に作家の曽根綾子さんの言葉に出会いました。とてもシンプルな文章ですが、そこに人生というものの大切な意味が込められていいるように思いますので紹介します。

「人間は長い歴史の中で、たまたま自分が生まれ合わせた時代の、たまたまそこに居合わせ場所で、最善を尽くして生きればいいだけなのである。それ以上、小さな一人の人間に何ができるだろう」(失敗という人生はないより抜粋)

この小さな人間に何ができるのだろうか、、、ご縁という不思議で霊妙な世界に生きる私たち。

どれだけ大切に過ごしているのか、もう一度、今いるこの場所、周囲の人たち、そして自分を見つめ直すことができる言葉です。

一期一会の人生を真心のままに活かされていきたいと思います。

強く逞しく~情熱人~

何かの物事を観照するとき、そこにどれだけの強い思いを持っているかというのは何よりも大切であろうと思います。

これはどの体験でもそうですが、事が為るのと為らないのにその結果を見つめるといつもそこに「思いの差」というものがあるのに気づきます。同じことをしても、いつもその結果が異なるのはその人の思いの強さに影響されているのです。

今、学んでいる流鏑馬にしても的を射た板に射手の思いが宿るといわれて縁起物とされています。つまり昔から私たちは「思い」というものを何よりも大事にしてきたのであり、その思いがどうであるかということにこだわってきたのです。

目には観えませんがその「思いの醸成」というものをどれだけ怠らずに行うかで自ずから成果が異なっていくように思います。そしてその思いの醸成とは、情熱によって行うものであろうと私は思います。

現在、誰もが知っている有名な経営者に稲盛和夫さんがいます。今では著書の写真などで拝見すると穏やかな顔つきで泰然自若のようですが情熱という意味ではモデルになる方ではないかと思います。昔、若い時に自らを鼓舞し啓蒙するときによくその言葉に励まされたのを覚えています。

いくつか紹介すると

「強い思い、情熱とは、寝ても覚めても、24時間、そのことを考えている状態。自分自身の成功への情熱と呼べるほどの強い思いが、成功への鍵。」

寝ても覚めても遣るんだという強い思い、その時こそが情熱の炎は燃え盛っているということでしょう。濡れた炭にならないように水をなんど浴びせられても何度でも何度でも自分から燃えて火が消えないように起き上がることでその火を燃やし続けるのは「強い思い」です。

「成功する人と、そうでない人の差は紙一重だ。成功しない人に熱意がないわけではない。違いは、粘り強さと忍耐力だ。失敗する人は、壁に行き当たったときに、体裁のいい口実を見つけて努力をやめてしまう。」

そして続けて、粘り強さと忍耐力とありますがこれはピンチをチャンスととらえるか。情熱はあってもそこで止まっていないか、努力を燃やしたか。この時の努力というものは、最善を尽くすために最期まで諦めずに実践を続けているかということでしょう。忍耐力というものは、逆境こそが自らを磨くチャンスだと創意工夫と改善のチャレンジを続けたかどうかということです。

そしてこの言葉が何よりも印象的です。

「どんな仕事でも喜んで引き受けてください。やりたくない仕事も、意に沿わない仕事も、
あなたを磨き強くする力を秘めているからです。」

まさにこの言葉の中に「情熱の本質」が入っているように思います。

来たものを選ばない、そしてすべてを受け止めて受け入れて引き受ける。稲盛和夫さんは西郷隆盛の「敬天愛人」が座右なのでしょうが、見事にその生き方を貫かれていらっしゃるように思います。

情熱というものは、丸ごと引き受ける強さがあるように思います。それが思いがそうさせてくださるのだから、喜んで取り組ませていただきますという素直な姿勢を産むのでしょう。

情熱とは、燃焼のことですが完全燃焼していきたいと願うのが人生を面白く楽しみたいという願いでしょう。本当にそのように生きているか、本当に情熱をもって日々を過ごしているか、この自問自答は常に一緒に継続することで得られるように思います。

遣りきるということは、遣りきらせていただいた感謝の中です。
情熱こそが生命力ですから、その学びを味わって歩みを強く逞しくしていきたいと思います。

 

自他中心の世界

人間は利己的な生き物です。

まずは自分のことを考えてしまいますから、気づくといつも自分が一番大変なのではないかと考えるようになってしまいます。特に忙しく、自分のことしか考えられなくなると周りへの思いやりに欠け自分から孤立してしまいます。

人は自分のことは自分ですからよくわかります。自分がどれだけの思いをしているかとか、周りは分かってもらえないとか、自分だけなぜこんな目にとか思いやすいのです。しかし実際は自分だけが大変ではなく周りの人たちも大変なのです。

たとえば、自分が忙しい時は周りは暇そうに見えるものです。それは自分が忙しいからそう見えるのです。逆に自分が暇なら周りはなぜあんなに忙しいのだろうと思ってしまいます。これは自分を中心に考えるからそこを基準に周りを見るからそう見えるようになるのが道理です。ほかにも、自分が楽しくないときは周りは楽しそうに見えたり、自分がつらい時には周りは楽をしているように見えたり、自分が貧しいときは周りが裕福そうに見えるのも同じく自己中心的に物事は見えてしまうのです。

しかし実際はどうかといえば、みんな大なり小なり人間はみんな等しく同じように喜怒哀楽様々な感情がありますし、それぞれの価値観にそって苦しいことも辛いことも嬉しいことも楽しいことも日々に浮いては沈んでいるのです。

大事なことは、自分だけがという考えに陥らないことのように思います。

論語に人生において仁を実践するのにとても大事な一説があります。

「子曰わく、人の己を知らざることを患(うれ)えず、人を知らざることを患う。」

これは私の意訳ですが、「孔子は言う、人が自分のことを分かってくれないと嘆き悲しみ憂うよりも、自分が周りの人たちのことを思いやり共感していないことをもっと憂いなさい。」と。

なぜ自分だけがとか、なぜ自分がこんな目にとか、そう思うときは、周りとのつながりを自らが断ち切って自分の殻の中に閉じこもってしまっているのです。そういうときこそ、誰かのためにや他人のことを自分のことのように思いやれる優しさや強さが人間として必要だということでしょう。

他人を思いやれるというのは、自分が満たされているからできるのではありません。人を思いやるというのは、自分も大変だからこそみんな人は大変なのだと共感し受容して自他の人生が幸福になるように祈り行動することのように思います。

それはまるで家族が平和で幸福に暮らしていけるように自らのお役目や役割を果たそうと真心を優先する生き方のことでしょう。

今の時代は、つながりが弱くなり、しかも受信する力も麻痺してきています。如何に自らが積極的につながり、そして自らが発信していくかということが思いやりの絆を深めていくのには重要です。

それらのことはまずは周りを分かってあげたいといった思いやり、きっとみんなも大変なのだろうと共感していこうとする姿勢、その人の感謝の実践によりその自他中心の世界が観えてくるものなのかもしれません。

自分の心配をするよりも大切な人たちの心配をしている自分の方が人間は自分のことが好きになれるように思います。忘れてはならないのは、そういう自分も周りが支えてくださり活かしてくださっているからあるのですから周りに還元していくのはそのことを思い出させることになるのでしょう。

常に初心は真心や思いやりで感謝を忘れない自分でいたいと思います。

自分の体験~人生の意味付け~

人は自ら学んだものでなければ本当の自分のものにはなりません。誰かから先に教えられた知識というものではそれは分かった気にはなりますが自分の知識にはならないからです。

たとえば、礼儀などについても先にこうしなさいと礼儀を教え込まれて形式上はできるようにはなりますが本当にそれが必要で大事なものかどうかが分からずに教え込まれればすぐに忘れてしまうのと同じです。

本来、人間にはやる気というものがあります。それは自分に必要なことだと認識し、自分がやってみたいと思う心が具わっているということです。これを好奇心とも言います。この好奇心が失われているからやる気が出てこず、そのためにマニュアルのように教え込む必要が出てくるのです。これを人材育成と勘違いしている人がいるのも今の時代の教育の刷り込みだろうと思っています。

もしもこのまま教え込むことを続けていけば、いつまでも自ら学ぼうとはしませんから教え込んだ知識の中でそれを覚えてもらうという方法をとることになります。これは学校の勉強と同じく、知識というものの訓練によって身に着けさせる方法の一つですが、それは本当に学びたいかどうかという本人の主体が出ていなければ本来の学問をしていることにはならないのです。

この相手がまだ求めてもいないのに教え込むというのは、先に知ることによって分かった気になってしまいます。分かった気になればそれ以上は知ろうとはすることはなく、物事の道理が深まっていくことがありません。単なる物知りになったとしても、自分自身が一体どうしたいのかが分からないままでは社會にどのように自分が役に立つのかを自覚することも難しくなっていきます。

常に自分が求める心があり、それが知識と結びつき、そして実体験を通して学ぶときにだけそれは自分のものになるのです。この自分のものにするというのは、「自分が自らで体験したことが何であったかと学ぶ」ということです。

これは教えられるものではなく、気づくものです。

教えられることで気づくのは、教えられているのだから自分のものにはなりません。その人の気づきに対して知識が驚いているのです。しかし自分から気づくことを教えられるのであれば、それは自分自身の気づきによって発見するのですから心が納得しているのです。

人間というものは、畢竟、たった一つの自分の人生というものを歩もうとするように実感します。

その人がこの世に産まれてきた意味を自分自身は何よりも自覚したいのです。

誰かによってそれを押し付けられることよりも、自分自身で気づきたいのです。それが人生の意味だろうと思います。どんな意味深い人生を送れるのか、好奇心はそれをいつもわくわくドキドキと楽しみにしています。

その好奇心にゆらゆらと遊びながら学問をすることで人は真に自分からの教えに出会います。

教えに出会うことで、人はこの世の道理や真心が息づいていることに感動します。
人が学ぶというのは、人生の意味を確かめるということなのでしょう。

人生の意味付けは自分次第なのですから、変に誰かを教え込もうとしたり、変に誰かに自分が教え込まれないように常識を遠ざけ、自学自悟を徹していこうと思います。

玄徳の毘

心気を養うということについて深めてみます。

心というものは気というものを持って外に顕れてきます。心がどのようなものを抱いているかによってその気もまた異なります。暗黙知としての心の中の持つ信念の偉大さと、その形式知として具現化する精神や気というもののの大きさがお互いに合い調和するとき「気合」もまた自然のように正しく清々しく発揮されるように思います。

以前、孟子のいう「浩然の気」についてこのブログでも書きましたがもっとも私が目指すところはこの浩然の気を養うことで天地と和し、大義を貫くことで子どものために自らを昇華し生き切りたいと願っています。

しかし、実際は気だけが激しく動き心を濁してしまうのはまだまだこの浩然の気が養われていないからです。天地のように偉大な気は、太陽がただ私たちを照らし続けるように、また水が流れて循環し清らかにいのちを浄化し続けていくようにどれも広大で悠久の時空をかけて行われるものです。

人間にはその広大無辺の気を感じるよりも、自らの気ばかりが焦ってしまい起きた事象を自我が助長するのはまだまだその天地の心に近づいていないからのように思います。不動心を持ちたいといくら願っても、その気が正しく養われず気が狭い範囲に囚われているのなら少しでも気が高まれば心もすぐに動いてしまいます。

心気を養うのは、至誠を貫くことなのでしょうが私は道に迷うことばかりです。

老子に下記のような話があります。

『迷える魂を落ち着かせ、一つのことに集中させ、そこから離れさせないことができるだろうか?「気」を専らにして柔らかにし、赤子のようになることができるだろうか?神秘で不可解なイメージを全て取り除き、透明にすることができだろうか?天の門が開き閉じて万物生成するものを、ただただ受け止めることができるだろうか?天下にあまねく政治を行い、しかも何もしないことができるだろうか?生成して、これを養い、生成しながらもこれを保有せず、これを使ってもこれに頼らず、人の上に立っても指導などしない。これぞ「玄徳」と言われる。』(第十章)

『「虚」の極みに行き、「静」を篤く守ろう。万物が並び生成する。私はそれらが帰っていく所を見据える。それらはどんどんと生長繁茂するが、全てはその根本に復帰していく。根本に帰ること、これが「静」と言われ、天命に復すると言われる。天命に復すること、これが「常」と言われる。「常」を知ることが「明」、つまり明察なのである。「常」を知らなければ無闇に動くだけとなって災いが降りかかる。だが「常」を知れば全てを包容することができるようになる。全てを包容することこそが「公」、つまり私ではない「おおやけ」なのである。「おおやけ」なのは王である。王なのは天である。天なのは道である。道は永遠である。永遠だから、人はそれに寄り添えば生涯危うくない。』(第十六章)

この玄徳は、もっとも自然が泰源する道に他ならないと思います。そして常とは万物一円にあらゆるものが融和融合した完全な姿です。

まだまだ自分の気が何かをしようとばかりに囚われてあるがままの流れに逆らってしまいそうになります。これは私に浩然の気を養う努力が足りないからです。もう一度、自分自身の心気を見据えて、最善を尽くすことで学び、天命を待つことで学び、智仁勇を兼ね備える毘を求めていきたいと思います。

浩然の気とは、私にとっては玄徳の毘です。

奥深い世界に自分を高めることを忘れずに、日々を生きていきたいと思います。

 

律動の原理

人間は日々に心臓が鼓動を打ち、血液が脈動するように一定のリズムを保っています。それは体温も同じく、36度5分といった一定の温度を中心に上がり下がりもしますが同じところを保っています。

私たち動物は、呼吸をしますがその生活環境によっていのちの奏でる音楽があるように私は思います。

その一定の音楽を奏でるのは自分の主体性であることは当然のことですが、それが受け身になったり流されたりすれば生活も同じようになっていきます。生活を改善するということがなかなかできないという話があります。

これは自分の生活の軸が定まっていないことが関係するのではないかと思います。人間は畢竟、自分自身との正しい付き合いで自分一体の一人になるように思います。心と体が離れてしまっていたら、それではなかなか一人になることもできません。

たとえば、毎日追われるように生活してしまうのもリズムがどうなっているのかということでしょう。主軸が真心や感謝の側にいるのなら、地球のリズムのように自らも自らのリズムを持つのでしょうがそのリズムが狂ってしまうとなかなか元に戻らずに大変になります。

リズムを取るのに、音楽では拍子をつかいます。特に民族音楽や古来の民謡などは「口承」といって口伝によってその民族特有のいのちのリズムを子孫たちへ譲り渡していたという話が残っています。

これもリズムの奥深さで、何千年、何万年と民族が生き残ることができるように智慧を唄にして伝承してくたのでしょう。今の時代は、どこかその拍子が抜けた拍子抜けのリズムが蔓延しているような気がしています。

手拍子一つにしてもなかなか合わず、拍子も民族の一定のリズムが心体に降りていないままに派手なところばかりで盛り上がろうとしてしまいます。神道の祝詞や音楽のように、荘厳なリズムがあることを自覚することで落ち着くのもそこに口伝があるからかもしれません。奥深さを感じてありがたく思います。

私はこのリズムこそが、人間の生活を改善する妙法になるのではないかと直感します。これを律動の原理と名付けてみようと思います。如何に修養をし、日々の律動を自明するかはその人の生き方にかかっているように思います。

そこには生き方を決める、決めた生き方どうりに貫くといったリズムをまず基本として身に着けることからはじまるように思います。惑いや迷いに移ろわないように実践を積み上げて正しい習慣にしていくことが着実な方法のように思います。

どんな生活をするかはどんな音楽を奏でるかと似ています、たくさんの方々のことを思いやりハーモニーを創りだすことが自然にできるような律動を学びこんでいきたいと思います。