自警自戒の志

人は志を育てていくことではじめて志士たるゆえんです。

志というものは自らで叱咤激励しながら、自分の本体本心と正対しそれを信念にまで昇華していく必要があるように思います。心を落ち着かせていくだけが学問ではなく、どんな状況下においてでもその志がなんら影響がないという木鶏のような姿が本来の姿のように思います。

吉田松陰は、若くして人格を修養し多くの人たちに多大な影響を与えました。自らの天命を遣り切り、自らを自らで育てあげた日本第一級の人物です。その松陰先生も、常に自らを発奮しながら歩んできた足跡があらゆるところに残っています。

私も何度も若い時はその言葉に支えられ、また天命を生き切ること、自分を遣りきることの大切さを何度も味わうことができました。

例えば、このような言葉も記されています。

「自(みずか)ら淬厲(さいれい)して、敢へて暇逸(かいつ)することなかれ。」(安政二年四月二十四日「清狂に与ふる書」)

これは自分から進んで人格修養に努め、決してのんびりと遊び、無駄な時間を過ごしてはならないという意味です。淬厲とは鉄を焼き磨き続けよというように常に自らを高め続けて怠らない、暇をもてあそぶなという戒めです。

他にも「自警詩」というものの中で「士苟いやしくも正を得て斃たおる、何ぞ必ずしも明哲身を保たん。 幾を見て作なす能はずんば、猶ほ当に身を殺して仁を成すべし。 道は並び行はれて悖らず、百世以て聖人を俟つ。」とあります。

意訳ですが、志士たる者、誠に正しいことのため、人々の為に命を懸けて尽くして斃れるものです。どうして自分の保身や自分のためだけに賢くなり学問をするのか。 もしチャンスを得られずそれができないというのならば、その一身をもっと捨てて人々のために思いやりを尽くすべきではないか。 道は常に並行して決して尽きること無いのです、いつの日かもしくは百世後には、わが志を知る聖人も現れることもあるのだから。

他人の評価を気にして志は為せません。誰が分かってくれなくても淡々滔々と真心を尽くすこと、思いやりを実践することではじめて志は育つのです。誰が分かってくれないとかうまくいかないとか、チャンスが来ないとか環境が悪いとか、色々と言い訳をしては自分の真心を尽くさないのではそれでは修養する価値もないのかもしれません。

王陽明は、事上練磨という言葉を用い日々の修養を説いています。しかしこの学問も、ただ穏やかになりたいくらいでやるのなら価値がないと喝破します。学問は須らく、困っている人たちや悩み苦しむ人たち、そのことにより世の中がより善くなるために行うものだからでしょう。

日々というのは、仕事があるにせよないにせよ、学ぶことばかりです。

その理由は、自分の体験が誰かの御役に立てるからです。だからこそ自分を生き切るということは何よりも学問をするうえで大切な道理であり人生の大道であるようにも思います。未来の子どもたちや聖人たちに恥じないような生き方かといえばまだまだ私は情けない日々を送っています。

あの吉田松陰ですら怠惰な自分の心に喝を入れ、甘えに打ち克つ努力を貫徹し忘れなかったと思えば、私もこれではいけない、このままではいけないと自警自戒しつつ自らの志を磨いていきたいと思います。事上練磨によって自らを発奮奮起していのちのままに学びを高めていきたいと思います。