自然は厭わない

昨日、出張から帰ってくるとベランダの山椒の樹に沢山のアゲハ蝶の青虫がひっついていました。葉っぱが食べられ、丸裸のようになった山椒は少し可哀想な感じもしましたが、青虫を別の場所に移したので一安心でしょう。

そもそも生きものに害虫益虫の違いはありません。

人間の都合が悪いものは害虫で人間に良いものを益虫と区別し、好悪感情次第でその時その場で判断しているのがほとんどです。これは単に虫だけのことに限らず、自分に都合の悪いのはデメリットで自分に都合の良いのがメリットだと仕分けては自分勝手に判断しているものです。

しかし実際は自分にいくらメリットがなくても、全体で観たら大きなメリットがあったり、自分にとってデメリットだと思っていても長く広い眼で見たらとてもメリットだということもあります。

自分の都合というものは、ほとんどが視野の狭い自分の料簡だけで判別されているものです。これを価値観とも言います。自分にとっての視野は価値観が左右します。その価値観は今まで育ってきた過程で染みついてきた自分の考え方と判断基準のことです。

それを壊すことができないと、自分にとってのメリットばかりを追い求めては価値観に囚われ、その価値観が壊せずに狭まっていく視野に自分を閉じ込めてしまうのです。

よく価値観が柔軟かどうかが大事だという言い方をする人がいますが、これは素直に物事を受け容れることができるかともいいます。自分の都合を優先せずに、物事の実相を捉えることができたり、自分の我執を手放すことができ、本質を保つことができるということでもあります。

日々というのは、様々な出来事に遭遇しますがそれを自分の好悪感情で判別するのではなく、実相は何か、本質は何かで判断できることで全体の一部としての自分の大きな役割に気づけて自分の存在価値を実感できるように思います。

存在価値から物事を考えてみると、青虫にも大きな役割があります。青虫はその卵のときから蛹になり成虫になるまで、沢山の生きものたちを活かします。寄生する虫たちの栄養になったり、その他の動物たちの食糧にもなり、花粉の受粉を手伝い、死して朽ちては蟻や菌類のものになります。

自然界には一切の無駄はなく、一切の損得はありません。損得というのは、その人本人の価値観と自分の判断基準と都合で行われるものですから全体から観ればそれはないのです。しかしこれに気づかないとおかしなことになってしまいます。

例えば、先ほどの青虫でいえば自分の嫌いなことはしない、虫にも食べられない、蝶になっても動きたくない、死んだら燃やしてもらいたいとか、色々と要求をしていたらその他の生きものたちが困ってしまうのです。

同じように人間も一人では生きられないのですから、自分の価値観や都合ばかりを優先するのではなくどうすればみんなが善くなるか、自分がどうしていることがもっともみんなの力になるかを考えて我執を手放していくことで心も軽くなり感情も穏やかになるものです。

自分にとっての嫌悪感といった嫌な感情は、一時的なものです。そういうものを乗り越えてでも誰かのためにや周りのためにと動く時、自分が偉大な存在に見守られている実感を味わうことができるものです。だからこそ「自然は厭わない」ように思います。

厭わないで努力し、嫌がらずに自分から動いていくことで価値観は柔軟になっていくように思います。自分が自分がと我儘をすると孤独になるのは、そういう自然のありのままの存在価値から離れてしまうからでしょう。

そのものの存在をありのままに認めることは自分の生き方次第かもしれません。自然の観察を楽しみたいと思います。